君さえ


その契約を世界は“愛”と呼ぶか(アズール/注意)


※自殺表現有/倫欠不謹慎/仄暗/ハッピーエンドです



「──まあでも、空を飛ぶのって、楽しいですよねぇ」

 ふにゃりと気の抜けた声がそんな言葉を紡ぐ。ふたりきりの部屋の中に落ちたそれを聞いたのは、世界にたったひとり、アズール・アーシェングロットという男だけだった。
 空を飛ぶ、というのはこの世界においてそう特別な意味を持つ言葉ではない。何故ならこの世界には魔法と呼ばれるものが存在していて、魔力と魔力を使役するための力さえあれば誰だって気軽に空を飛べるのだから。事実、海から陸に上がってまだ一年余りの時間しか経っていないアズールにも、その上手下手を無視すれば『空を飛ぶ』こと自体は可能だ。
 だからこそ、今アズールの目の前で小さな少女がほろりと紡いだその言葉にも、何ら気に留めるような要素はなかった。空を飛ぶことが不思議ではない世界で「空を飛ぶことは楽しい」と口にするなんてことは、言ってしまえば幼子が「遊ぶことは楽しい」と言っているのとほぼ同義なのだから。

 だというのにアズールがその言葉にはたりと視線を持ち上げたのは、──彼女という一個体が、魔力を持たず魔法も使えない脆弱なただの『ヒト』であったからに他ならない。

「……貴方は、空を飛んだことがあるのですか?」

 アズールの問いかけが、微かな残響を伴いながら部屋の中に転がり落ちる。
 モストロ・ラウンジでのアルバイトを終えた直後、ここ最近寝不足気味であったのだという彼女が突然床に崩れ落ちたのが今から数十分ほど前のこと。少し横になっていればすぐに良くなるからと言い張る彼女を、モストロ・ラウンジで現場指揮を行っていたジェイドがこのVIPルームへ運び込んできたのも丁度それぐらい前のことだ。
「閉店作業が終わり次第、寮までお送りします。それまで監督生さんのことをよろしくお願いしますね、アズール」なんてあのウツボの片割れは笑っていたけれど、こちらもこちらで仕事にかかりきりなアズールが彼女にばかり意識を割いてやることも出来はしない。
 倒れたというだけあってやはり彼女の顔色は蒼白に近くあったが、そこに浮かんだ表情は酷く穏やか。ここへ連れられてきた時の足取りも、アズールとの会話での受け答えもしっかりしている。それに加えて本人自身が「大丈夫だ」と主張しているのだから、それは本当にただの寝不足による一時的な体調不良でしかなかったのだろう。
 ならば特別に騒ぎ立てる必要もない。そう判断したアズールは、彼女の前で再び自らの仕事に取り掛かり始めた。
 ここで眠ってしまえばさらに迷惑をかけてしまうからと、意識を繋ぐために取り留めもない「独り言」を紡ぎ続ける彼女の声をバックグラウンドに、書類の山を右から左へと移動させていくこと十数分。その時不意にアズールの意識を奪い去って行ったのが、冒頭のその言葉だった。
 ローテーブルを挟んだ向かい側のソファに寝転がり、丸くなっている少女の姿がアズールの視界に映り込む。つい一瞬前まで目を通していた書類が、指先にかさりと乾いた音を立てた。
 つい数カ月前に異世界からこのツイステッドワンダーランドへとやって来た彼女のことを、ナイトレイブンカレッジに在籍する多くは『監督生』と呼んでいる。そしてアズールもその例に漏れず、時には例外も有れど、基本的に彼女のことをそう称していた。
 魔力も魔法も存在しない彼女のいた世界では、その代わりに科学技術が大きく発展し、空を鉄の塊が自由自在に飛び交っているのだと、少し前に雑談の中で聞いたことがある。だからこそ、きっと今彼女が紡いだ『空を飛ぶ』という言葉も、その機械に乗って空の上を移動したことをそう称しているのだろう。そう考えることが自然であるはずだった。
 しかし、そうではないのだろうと、アズールは何故か理解してしまう。
 その明確な理由は分からない。ただ、何となくそう思った。直感的に。

「はい。ありますよ。視界いっぱいに青い空が広がって、それを見下ろすのがとても爽快でした。両手を大きく広げたら、なんだか空を泳いでいるような感覚にも浸ることが出来るんです。世界の音が消えて、内臓がふわふわとして、……とっても、楽しかったです」

 意識の7割近くがまどろみの中にあるらしい声色は、まるで砂浜に打ち上げられた水クラゲのようにとろけてしまっている。いっそあどけなさすら覚えるそれがぽつりぽつりと紡ぎあげていく言葉に、アズールはぞわりと寒気すら覚えた。

 理解してしまったのだ。彼女の言う『空を飛んだ』の本当の意味を。

 ……あれ、これは言っちゃダメなやつだったっけ? 何も反応をすることが出来ずに佇むアズールの目の前で、つつき回されたアメフラシのように縮こまった少女がふわふわと自問自答を声にする。彼女の横たわっているそれは、190センチにも至るあの巨大な双子が並んで座っても窮屈さを与えない程度にはゆったりとしたサイズのソファであるけれど、丸まっているとはいえその半分にも満たない身体というのは些かあまりにも小さすぎるのではないだろうかと、アズールは現実逃避混じりにそんなことを考える。陸の女性というものは、総じてこんなにも小さく脆いものなのか。

 そして、こんなにも小さく脆い身体が、空を飛んだのか。

 そう考えると、なんだか不思議な心地になった。空を飛ぶ手段を持たない身体が『空を飛ぶ』。その結末を理解するなんてことは、考える過程すら必要としない。アズールだって、飛行術の授業で箒から『落ちた』経験などいくらでもあるのだから。

 高い場所からの落下。下に待ち受けるものが地面であり、かつ空を飛ぶのが人間の身体であった場合、たった十数メートルがあれば命を失うには十分であると聞いたことがある。もちろんそれは落ち方にもよるけれど、仮にも『空を飛ぶ』という表現が為されているほどの落下で人間が完全に無事でいられる確率などかなり低いだろう。
 ゆったりとした彼女の呼吸に合わせて、その身体が上下している。横になっていたおかげか、顔色ももう随分と人間らしいものに戻って来ていた。微かな赤みのあるその肌の下には、確かに血液が滞りなく流れ続けている。
 彼女は今、確かにアズールの目の前に生きている。

「ま、いっか、アズール先輩ですし」

 くふくふと笑って、少女はそんなことをのたまった。
 突然衝撃的なカミングアウトを下されたアズールからすれば、この話題はそんな軽い言葉で済ませることのできるものではなかったのだけれど。当の彼女がこれでは、アズールは一体どんな表情をすればいいのかも分かりはしない。それを信頼の証だとただ素直に受け取るには、些かそれまでの過程、というか話題があまりにも悪すぎた。

「……どうして空を飛びたいと思ったんですか?」
「さあ? 実はよく覚えていないんです。空を飛ぶ前の記憶が全部無くなってしまっていて、──ああ、でも。空がとっても青くて、きれいだなぁと思ったことだけは鮮明に覚えています」

 空を飛んで、途中で意識が途切れて、そして次に目覚めた時にはもうこの世界に居ましたから。そう言って、未だ寝転がったままの彼女はゆったりと瞬きを繰り返した。身体を丸めて眠るのはずっと前からの癖なのだと、いつか彼女自身が言っていたことをどうしてか今、ふと思い出した。
 常々周囲から浮いている人だとは思っていたけれど、まさかそんな意味でまで『浮いている』人だったとは。そんな不謹慎極まりない冗談など、もちろん吐くことが出来るわけもなく。
 喉元のあたりにぐるぐると蟠る不快で不可解な感情に眉を顰めて、アズールは彼女を半ば睨みつけるように見据えた。それでもなおたおやかな微笑みを隠さない彼女に、底の知れない何かを感じてしまうのも仕方のないことだろう。彼女という人の在り方として有名な肝の座り方も、とこかばっさりとした考え方も、なるほどそう言った背景もあってのことなのかと理解する。世界で一番に強く恐ろしいものは、全てを捨てた、もう何も持ってはいない人間である。誰かの紡いだそんな言葉が、ふと脳裏をかすめていった。

「──貴方はまだ、空を飛びたいと思っているのですか?」

 ふわふわ、ふわり。柔らかそうで、掴みどころがなくて、酷く脆い。どこか朧で曖昧なその在り方は、まるでクラゲのよう。陸のものに例えるならばそれは――風船、だろうか。

「……うーん、どうでしょう。今は特別そんなことは思いませんけど、」

 手を放してしまえばもう、空の彼方へと消えてしまう存在。
 二度と、この手には戻らない命。


「──でも、あの時みたいに空がきれいに青く晴れ渡っていたら、また空を飛びたくなるかもしれませんね」


 きっと彼女は、このまま誰にもその腕を掴まれなければ、また再び空を飛んでいたのだろう。そう確信できるほどの危うさが、微かに、それでいて確かに存在していた。

「そう、ですか」

 聞きたくはなかった。けれど、聞くことが出来て良かった。
 何故なら、そのおかげでアズール・アーシェングロットは、彼女へその指先を伸ばすという選択肢を得ることが出来たのだから。
 風船を空に逃がしたくはないのなら、掴んで、握りしめて、引き留めて、そして繋ぎ止めればいい。自らが風船の錨になればいい。ただそれだけの話だ。

「……監督生さん」
「はい、アズール先輩」

 小さな少女。脆くて儚いひとつの命。
 ふにゃりと蕩けるように笑う表情。ころころと自らの名前を呼ぶ声。
 それらの全てを二度も『空』なんかにくれてやるのは、あまりにも惜しいと思った。


「僕と契約をしましょうか」


 金色の紙がひらりと空を舞う。契約には契約書を。誓いには署名を。アズール・アーシェングロットに出来る風船の捕まえ方が、それだった。

「契約、ですか?」

 彼女からしてみればあまりにも突飛なアズールの言葉に、ぱちりとその瞳が丸く見開かれる。そこに自らの姿だけが映し出されるというのも悪くはないと、月白色の男はゆったりとその眼に弧を描いた。

「ええ、契約です」
「それは……一体どういった?」

 ソファに手のひらを突いた少女が、おもむろに自らの身体を起き上がらせる。重力に従ってこぼれ落ちた柔らかな髪先が、はらはらと踊るように揺れていた。


「──いつか、貴方がまた『空を飛びたい』と思った時は、空を飛ぶ前に僕を呼んでください」


 少女の瞼を飾る睫毛が震えて、唇が微かに噛みしめられる。
 誰もが見落としてしまうだろうそんな些細な変化にさえ、アズールはどうしようもなく気付いてしまうのだ。その事実にわざわざ名前を付けるだなんて無粋な真似を、アズール・アーシェングロットは好まない。

「この世界には魔法なんていう便利なものがありますから。空を飛ぶぐらい簡単なことです。貴方を箒の後に乗せて、僕が軽やかに空を飛んでみせましょう」

 他の誰でもないこの僕が、貴方の願いを叶えて差し上げます。
 いかがでしょうか、と言わんばかりにアズールは少女の瞳を真っ直ぐに見据えた。少女の願いの本質がそこには無いことぐらい痛いほどに理解した上で、酷く自信に満ちた口調と姿勢を伴った彼は彼女へと言葉を突きつける。彼女という存在をこの世界に釘付けてしまおうと、そんな契約を持ち掛ける。
 驚きと予想外に固まっていた少女の表情が、じわり、じわりと綻んでいく。笑みをかたちどったのだろう唇は、どこかほんの少しだけ歪んでいて、眉は力なく下げられている。彼女にしては随分とへたくそな笑い方だった。

「……でも、先輩、飛行術が学園一苦手じゃないですか」
「学園一は言い過ぎですよ、失礼ですね」

 丸くなっていた瞳を細めてそんなことを呟く少女に、間髪も入れずアズールは反論する。それがたとえどれほど事実に近かろうが、彼のプライドがそれをただ容認することなど絶対に許さない。
 少女の笑顔がまた深くなった。くしゃり、と何かを耐えるようなその表情を見た瞬間、そういえば自分は彼女の泣き顔を見たことが一度もないなと、そんなことにもふと気が付いてしまう。自分の知らない彼女がいるという事実に焼けた心臓が、そのまま血潮を身体全体へと送り出していった。
 自らの体内に起きるそんな生体反応をおくびにも出さず、アズールは再び隙も無いほどたおやかに微笑んで見せる。くい、と持ち上げられた眼鏡の向こうに、空を映し込んだ水面の色がきらりと輝いた。

「確かに、今はまだほんの少しだけ飛行術がそれほど得意ではありませんが、貴方、僕を一体誰だと思っているんです? 貴方を後ろに乗せて空を飛ぶことぐらい、1週間を待たずとも可能にしてみせますよ」

 僕が契約の不履行を許したことが、たったの一度でもあるとお思いで?

 その言葉は、その自信は、その在り方は、まさにアズール・アーシェングロットがアズール・アーシェングロットである所以。普段は酷薄なほどに冷たいはずの契約書のきんいろが、どうしてか今は酷く温かい色彩で世界を彩っているものだから、少女の瞳にゆらりと微かなさざ波が生まれてしまう。

「──だから、もう、ひとりで空を飛ぶなんて寂しいことはしないでください」

 きらりと輝いたその雫に瞳を細めて、アズールはその手の中に捕まえた風船の紐を固く強く握りしめる。風船が空に奪われてしまわぬように。どこにも行ってしまわぬように。

 大丈夫、大丈夫。安心してください、愛おしい人。
 いつかもしも、貴方がどうしようもないほど『空』に魅入られてしまったその時は、


(──僕がちゃんと、貴方を海の底に沈めて差し上げますから)


 アズール・アーシェングロットは、一度捕まえた獲物を逃がさない。


2020/8/16

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