君さえ


「知ってた? オレ、こう見えてかなり一途なの」(フロイド)


※not監督生社会人夢主

 大きな幼児を相手にしているかのようだった。
 いつものごとく発注書の内容と用意した商品との齟齬がないかを確認する作業の中、手に持っていたバインダーからふと視線を外した私は、そのままそれを自らの足元へと向ける。他の寮生たちが真剣に確認作業に勤しんでいると言うのに、それを取りまとめる役であるはずの彼がこんなところで油を売っていていいのだろうか。
 そんなことを胡乱に考えながら試しにとばかりに右足を動かそうとしてみるが、やはりその左腕の戒めからは逃れられない。思わず口をついて出そうになる重いため息を噛み砕いて、私は出来る限り穏やかな口調を意識して口を開いた。

「……フロイドくん、そろそろどいてくれる?」
「え〜〜〜〜〜? やだぁ」

 いや、やだぁじゃないが? 今度こそ重低音が口から飛び出してしまうところだった。
 私の足元にしゃがみこんで、さらには私の右足をその左腕に抱きかかえている彼はフロイド・リーチ。私の勤めている会社の取引先であるナイトレイブンカレッジの、モストロ・ラウンジという場所で働く一人の学生だ。
 事の顛末については割愛するが、ひょんなことから何故かは分からないが彼に懐かれてしまったらしい私は、ここへ商品を運び込んでくる度に、こうして彼に絡まれてしまうようになっていた。
 因みに、このオクタヴィネル寮でただ2人彼を諫めることのできるジェイド・リーチくんとアズール・アーシェングロットくんからは、いつも「フロイドがいつもすみません」と、全く困っていない困り顔で言われ続けている。すまないと思うなら早く彼を止めて欲しいのだが、どうやらそれは叶わないらしい。

 フォーマルなデザインの寮服を着崩した彼は、今日も今日とて中折れ帽をどこかに置いてきてしまったらしい。露わになったターコイズブルーの鮮やかな髪がさらりと揺れて、左右で色を違える不思議な双眸がゆったりと私を見上げてくる。
 垂れ目がちなそのかんばせは一見穏やかで優しげにも見えるというのに、いざその中身はと言ったら。2週間に一度しか顔を合わせない間柄ではあるけれど、それも1年が過ぎようとする今日この頃はもう、私も彼のひととなりというものを大方理解出来てしまっている。
 そして、今日の彼は機嫌がそれほど良くないのだろう。わずかに潜められた眉に少しの危機感が募るけれど、私も業務中の立派な社会人だ。いくら相手が恐ろしいとはいえ、まだティーンの子どもに後れを取る訳にはいかない。

「そろそろ確認作業も終わるし、私も帰らなきゃいけないからさ。お願い」
「は? 何で帰るとか言うの」
「いや私まだお仕事があるからね?」
「仕事とかいーじゃん、ずっとここにいてよ」

 まるで幼児が親に甘えるかのように、彼がその頭をぐりぐりと私の右足にすり寄せてきた。スーツのスラックスの布越しに、肌を彼の柔らかな髪先がくすぐっていく。からからと聞こえた微かな音は、その右耳にぶら下がっている片方だけのピアスが生み出したものだろう。
 190センチを超える長身を持つ男性が見せるその愛らしい姿に、母性本能が一切掻き立てられないと言えば嘘になってしまう。けれど、私は彼の母親ではない。さらに言えば、私たちの間にあるのはただの仕事上の付き合いだけ。
 だからこそ私は、心を鬼にして彼の要求を撥ねつけてやるのだ。

「残念だけど、私は、仕事に、戻ります! って、いや、ねえちょっと、ほんとに重いんだけど!?」

 彼を右足にぶら下げたまま無理矢理歩こうとしてみるけれど、やはり190センチの体躯はそうやすやすと動いてはくれない。むしろさらに強い力で私の足に抱き着いてくるものだから、こちらとしてはもうお手上げの状態だ。
 ついつい睨みつけるように鋭い視線を足元へ戻せば、そこには随分しょんぼりとした面持ちの彼が佇んでいて。う、と言葉が詰まってしまうのも仕方のないことだろう。可愛いものにはどうしたって弱いのだ。それがたとえ、ムラっけが強く気分屋でおっかない190センチの大男であろうと。

「……分かった。とりあえず1回足からは離れてもらえる? 流石にそろそろ足が疲れてきたから」
「逃げねぇ?」
「逃げないから。ほら、スタンドアップ」

 のそりと立ち上がった彼は、やはり私からすれば巨人と称しても過言ではないほどに大きい。先程までとは真逆に視線を上へ傾ければ、私を見下ろしてくる彼の瞳と視線がかち合った。
 逃げないと言ったのに、どうやらあまり信頼はなかったらしい。今度は彼の両手に私の手が片方ずつ捕まってしまった。
 白い手袋を纏った指先が、なんだか壊れ物でも扱うように恐る恐る私に触れてくるものだから、ついつい唇が緩んでしまいそうになる。そんなだらしのない表情は出来ないと必死に唇をかみしめて、私は彼を真っ直ぐに見据えた。

「また再来週来るから。ね?」
「……そう言って、先々週来なかったじゃん」

 拗ねていますと言いたげな声色で紡がれたその言葉に、私はようやく理解する。どうやら彼は、先々週私がここに顔を出さなかったためにこうして機嫌を悪くしてしまっていたらしい。
 その事実と私を見下ろす彼の瞳に心臓が軋んで仕方がない。
 気分屋な彼のただの気まぐれだろうと、ずっと自らに言い聞かせ続けてきたのだけれど。そんな表情でそんなことを言われてしまっては、年甲斐もなく感情を踊らせてしまうではないか。
 とはいえ、相手はまだティーンの学生。明確な線引きは必要不可欠だ。

「先々週は丁度他の大事な案件と被っちゃったの。再来週はその予定もないから、ちゃんと来るよ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと。君たちは大切なお客様なんだから、絶対に無碍にしたりはしないよ」

 そんな私の言葉に、彼の表情が一瞬にして強く顰められた。やっぱり選択肢を間違えたかなと頭の片隅に考えるけれど、その言葉に一切の間違いは無いのだから仕方がない。彼と私はお客様と取引先。それ以外になんてなれはしないし、なってはいけないのだ。
 彼の唇が開かれる前に、私は彼の手から逃れて踵を返そうとする。……しかし、やはり彼がそれをただ見逃してくれるわけもなく。

 ぐい、と両手を強く前方に引っ張られた。たたらを踏む余裕もなく、私の身体はそのままなし崩しに攫われてしまって。ぽすん、と額が何かにぶつかったとほぼ同時に身体がぎゅうと何かに締め上げられた。
 とは言っても、丁度良く力の調節を施されたそれは、多少の息苦しさはあれども痛みを伴ってはいない。
 どうやら彼に抱きしめられているようだと理解したのは、彼の香水の香りを間近に感じた瞬間のこと。少しひんやりとしているけれど、それでも確かに温かな体温が布の向こうに呼吸と鼓動を繰り返している。彼の両腕が、私の背中へ縋りつくように回されている。
 その事実たちが、早く彼から離れなければいけないと急く私の理性をどろどろに溶かして、壊して、砕き落としていくものだから。私はまた、もう何度目になるのかもわからない自己嫌悪を心の内に泳がせるのだ。

「……このまま、どっかに閉じ込めちゃおっか」
「いやいや、物騒。それはやめておいたほうがいいよ絶対」
「なぁんも分かってねえあんたの言うことなんて聞かねーよ。……ここにいてって言ってんじゃん」

 側頭部に彼の額が寄せられる。鼓膜のすぐ傍に響いた彼の声が、まるで私の脳髄を痺れさせていくかのようで。お酒を飲んだ時の酩酊感にも似たその感覚に血潮を沸騰させられながら、私は一体どうやってこの温度を手放してやればいいのだろうかと考える。
 私の髪先と彼の髪先が触れ合う微かな音が転がって、そして儚く消えていった。その背中へ腕を伸ばすことはしない。してはいけない。

「……残念だけど、それは無理だよ」
「なんで」
「これでも私はもうれっきとした大人だから、君を閉じ込めてはおけないの」
「閉じ込めるのはオレの方じゃん」
「同じことだよ。……君はまだ若いんだから、こんな大人にかまけてちゃいけないよ。もっと広く世界を見ないと」
「今オレが欲しいのはあんただけなんだけど」
「……だとしても」

 不服だと言いたげに、私の背中へ回された彼の腕がさらに強い力で私の身体を抱きしめる。それには流石に背骨が悲鳴を上げて、堪らない息苦しさが私に襲いかかってきた。
 抵抗する様に彼の腕をばしばしと叩いてはみるけれど、それもきっと、彼にとっては大した抵抗にさえなっていないのだろう。

「──じゃあさ、オレがあんたの言う『大人』になって、それでもあんたを選んだら、そん時はちゃんと閉じ込められてくれんの?」

 呼吸と一緒に言葉が詰まった。人一倍気まぐれな彼がその未来を選んでくれる確率は、一体どの程度なのだろう。そんな不安と一緒に、甘ったるい期待が心の内に芽生えてしまったこともまた事実で。
 口をつぐんだまま、彼の鼓動を聞き続ける。とくん、とくんと規則正しく脈打つそれが、酷く、酷く愛おしくて仕方がない。それが私の中に残された、たったひとつの覆すことなど出来ない答えだった。

「……さあ、どうだろう」
「はぁ? んだよそれ」
「怒らないでよ。……まあ、でも。そうだね。……君にこうして抱きしめられるのは、嫌いじゃないかもしれない」

 ずるい大人でごめんね。
 言葉もなく彼に謝罪をこぼして、私は彼との未来にわずかな希望だけを残す。

「……あははっ、」

 言葉を言い終えて数秒。もう私の声の残響も消えた頃、不意に耳元近くでこぼされたのは耐えきれないとでも言いたげな彼の笑い声だった。
 一体何がそんなにもおかしかったのだろうか。怪訝に思って身体を身じろがせたと同時、彼の腕による戒めが緩められて、彼と私の間に隙間が生まれた。
 顔を持ち上げて彼を見上げる。視線が交わる。
 三日月のように弧を描いた瞳が、私を真っ直ぐに見つめていた。

「いいよぉ。じゃあ、そん時はまたこうやってぎゅ〜って優しく抱きしめたげるからさぁ、──待っててね」

 唇の向こうに鋭く尖った歯が覗く。肉食魚を彷彿とさせるその視線があまりにも熱くて、甘くて、おそろしくて。ああ、きっと、私は骨も残されはしないのだろうなと、そんな理解ばかりを頭の片隅に呟いた。


2020/9/15

- 68 -

*前次#


ページ: