君さえ


それを仮に“愛”と定義してみよう(フロイド)


 授業の終わりを知らせる鐘が鳴り響き、それまで静まり返っていた廊下には沢山の人が溢れて一気に賑やかになる。そう長くはない休み時間。教室移動をする人や、友人のクラスへ遊びに行く人、食堂へ小腹を満たす食べ物を買いに行く人など、その行動は様々。
 移動教室での連勤の授業を終えた私も、そんな彼らと同じように廊下を歩く。向かう先は次の授業が行われる我らが一年A組の教室。同じクラスのエースにデュース、そして我が相棒のグリムは腹が減ったからと食堂へ走って行ってしまった。育ち盛りの男子の胃は本当にブラックホールだ。
 教科書やノート、ペンケースを胸に抱え直し、まあ元気があるのはいいことだと変に年寄り染みたことを考える。はてさて、休み時間もそう長くはないうえに学園内は広い。そもそも足が短い私がのんびりと歩いていては、次の授業に間に合わなくなってしまう。
 そう考えて私が廊下の角を曲がろうとした、その瞬間。

「あれぇ、小エビちゃんじゃ〜ん! 何して〜んの?」

 脇へ無遠慮に差し込まれた誰かの手のひらに、地面とお別れした私の足。驚きにびくりと肩が揺れたが、何とか腕に抱えていた教科書類だけは落とさずに済んだ。
 ぶらぶらと揺れる自分の爪先を見下ろしながら、この現状と一瞬前に聞こえた聞き覚えのある声に、自らの身に一体何が起きたのかをすぐさま理解する。

「こんにちは、フロイド先輩……とりあえず下ろして頂いてもいいですか……」

 首をひねって背後を振り返ると、そこにはやはり予想通りのひとの姿。黒のメッシュが特徴的な浅瀬色の髪に、左右で違う色彩を孕んだ瞳。ゆるりと弧を描いたそれには酷く愉快そうな色が滲んでいて、相変わらずな人だと心の中で溜息を吐く。
 彼はフロイド・リーチ先輩。オクタヴィネル寮の二年生で、どうしてか私を見かける度にこうやって私の身体を地面とさよならさせてくるよく分からないひとだ。

「え〜、やだ。ところで、何してたの? 小エビちゃん、今日もちっちゃくてかわいいねぇ」

 やはり私の主張はあっけなく彼に棄却され、身体は彼の腕に子供のように抱きかかえられたまま。彼の腕に座らされ向かい合うこの体勢に抱え上げられるのも、もう何度目だろうか。四十センチ近い身長差のある彼に私が物理的な力で敵う訳もない。諦めた私は、ひとまず抵抗を止めることにした。

「教室に戻るところです」
「そっかぁ、じゃあオレが教室まで連れてってあげる〜!」
「え、いや、先輩も授業があるでしょうしそれは、……聞いてないな」

 私を抱きかかえたまま歩き始めた彼の上機嫌な様子に、あまり食い下がっては機嫌を損ねてしまいそうだと口を噤む。君子危うきに近寄らず。きっと多分、彼と知り合ってしまった時点でもう遅かったのだろうけれど。

「そ〜いえば、小エビちゃんがいっつも着けてるそれって何〜?」

 彼の視線が向けられた先は、私の頭。私から見て左側。咄嗟に伸ばした指先に触れたのは、ヘアピンの硬い感触だった。きっと、彼はこれのことを指して言ったのだろう。

「ああ……元の世界にいた時に友達がくれたものです」
「──……へえ、」

 私の言葉に、す、と彼の表情と声色から温度が抜け落ちた。目の当たりにしてしまったその変化に、ぞわりと私の背筋が粟立つ。二色に宿った剣呑な光に本能が警鐘を鳴らした。けれど震える私の唇は、それでもなお言葉を紡ぎあげていく。まるで何かに急かされるように。

「元の世界に戻る時、もしかしたら必要になるかもしれないから大切にしていろと、学園長先生に言われたんです。だからこうやって毎日身に着けて、」

 ぴたりと彼の歩みが止まった。ぴりりと肌を刺す冷たい空気に、私は息を呑む。
 交わった彼との視線を外したその瞬間、命の保証はされなくなるような、そんな感覚。

「──怒ってます? 先輩」

 それでも私の心が酷く凪いでいるのは、何故だろう。こんなにも簡単に言葉が唇からこぼれ落ちるのは、何故だろう。

「……なんで?」
「なんとなく。雰囲気が怖いので」

 静かな彼の表情と声が、普段の彼との落差が、異常なほどの恐ろしさを私にぶつけてくる。彼の怒りの理由など、私には分からない。それでも、推測することぐらいはできる。

「……『元の世界になんて戻りませんよ』と私が言ったら、喜んでくれますか?」

 私の言葉に、彼の表情がゆらりと揺れる。そこに滲んだ感情は、一体何だろう。驚き? 困惑? 怒り? 歓喜? それとも愉悦? なんでもよかった。私の言葉で彼が感情を動かしてくれたという事実だけが、私の心をどうしようもなく満たしたから。

「……オレが『元の世界になんか戻るな』って言ったら、小エビちゃんはずっとここにいてくれんの?」

 うっそりと微笑みそう言った彼に、私もまたにこりと笑みを返した。
 胸を満たすこの感情を、一体何と呼ぼう。

「さあ、どうでしょうか」

 授業開始の鐘が鳴るまで、あと三分。



2020/3/30

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