君さえ


アズール先輩、大好きです。(アズール)


「……おや、丁度ポイントが貯まりましたね。いつもご愛顧ありがとうございます」

 それは本当にただただ偶然、アズールが会計係としてモストロ・ラウンジのレジに立っていた時のことだった。
 この場所の雰囲気が好きだからと、余裕の少ない生活の中でも何とかやりくりをして定期的に顔を出しに来る、オンボロ寮の監督生。そんな彼女のポイントカードに、丁度50個目のスタンプが押されたのは。

「あれ、もうそんなになってましたっけ?」
「ええ、ほら。どうされます? このまま1回無料のお悩み相談に使用されますか、それともあと2枚貯めて頂いてスペシャルなサービスの特典を目指されますか」
「うーん、……ちょっと考えてもいいですか?」
「それは勿論!」

 スタンプで埋まったポイントカードを、レシートやお釣りと共に彼女へ返却する。相変わらず随分と小さく頼りない手のひらだ、と手袋越しに触れた彼女の手のひらに内心で独り言ちながら、アズールはお得意の営業スマイルで彼女の再びの来店を願った。

 そんな彼女が次に来店したのは、それから3日後。モストロ・ラウンジが比較的空いている木曜日のことだった。
 来店客の全てにドリンクとフードが行き渡り、店内が落ち着いた頃、カウンター席にひとり座っていた監督生がアズールへと声をかける。本当はVIPルームに戻って売り上げの計算でもしようと考えていたのだけれど、お客様のご指名ならば無碍には出来ない。
 まるで内緒話でもするかのように潜めた声で語りかけてくる彼女に、アズールも倣って顔を寄せる。睫毛の一本一本も明確に見えそうなほどに近づいた距離と、鼓膜に叩きつけられるどこか掠れた声に、背筋が何だかぞわぞわとした。
 その不思議な感覚に『不快感』と名付けたアズールは、心臓の裏側がくすぐられるような心地に内心で顔を顰めながら彼女の言葉を聞く。もちろん、表には完璧なまでの笑顔を貼り付けて。
 彼女の相談というのは、以前貯まったポイントカードの使い道についてだった。なんでも、彼女にはやってみたいことがあるのだという。

「お悩みとは少し違うんですけど、実は私、モストロ・ラウンジの水槽の中に入ってみたくて」

 ──なんて馬鹿げた願いだろうか!
 きらきらと瞳を輝かせながらそんなことをのたまった彼女に、アズールは思わず声を上げて笑ってしまいそうになった。もう16歳にもなって、まさかそんな願いを口にする人がいるだなんて。
 だがまあ、折角のポイントカードをそんな幼気なことに使ってくれるというのならば、こちらも随分と安上がりになるのでありがたい。表情が引きつってしまわないようにと心掛けながら、アズールは彼女のその願いに大きく頷いてやった。

「なるほど、そうですか! ……監督生さん、今日この後のご予定は?」
「いえ、特に何も」
「それは結構。では、今日のモストロ・ラウンジの閉店後に早速その願いを叶えて差し上げましょう。他でもないこの僕が」

 彼女のためにとアズールが用意したノンアルコールのカクテルは、彼女のいっとう好むこの大水槽のような鮮やかな青い色彩を、ライトの下に煌めかせていた。

 モストロ・ラウンジの閉店時間が22時。そこから店じまいと後片付けを終え、様々に準備を行っていれば、気付けば時刻は23時を回ろうとする頃になっていた。
 一度オンボロ寮へと戻った彼女が、再びモストロ・ラウンジに顔を出す。それを迎える影は3つ。アズール、ジェイド、フロイドの姿だ。
 閉店後とあって人気もなく照明も大体が落とされた店内の様子に、彼女はどこか緊張した面持ちを見せた。けれどその表情も、暗い店内に浮かび上がる明るい大水槽を見上げればたちまちにぱっと輝き始めるのだから、本当にどこまでも能天気な人だなとアズールは思う。
 まさか自分がこんなちっぽけな存在に出し抜かれただなんて、と忘れられはしない過去の出来事に悪態が転がるけれど、まさかそれを口にするなんて情けないことを出来るはずもない。

「ようこそ、監督生さん」

 彼女の願いを叶える方法は至極簡単。その件の過去に彼女たちに使わせたものと同じ魔法薬を与え、水槽の中へ導いてやるだけ。

「案内役はジェイドとフロイドが務めます」

 本当は人魚に姿を変える魔法薬を用意できれば良かったのですが、とアズールが殊勝に眉を下げてみせれば、単純でお人好しな彼女は「十分です!」と気遣った風もなく満面の笑みを浮かべた。
 その表情に目が眩むような感覚を与えられながら、アズールは彼女へ魔法薬を詰めた瓶を手渡す。

「……アズール先輩、は?」

 そしてそのまま、ジェイドとフロイドに全てを託し彼らの背中を見送ろうとした、その時。ふとアズールを振り返った彼女が伺うようにアズールの名前を呼ぶものだから。今度こそ厚く塗り重ねた表情の仮面が剥がれてしまいそうになった。
 どうして僕がくだらないお前のお遊びに付き合ってやらなくてはいけないんだ。ほんの少しの期待を孕みながらこちらを見つめる一対の丸い瞳に、どうしようもない苛立ちが湧き上がってきた。
 ──そんな目で僕を見るな。

「僕はこちらで待っています。……大丈夫ですよ。貴方から視線は外しませんし、水槽の中からもちゃんとこちらは見られますから。どうぞ心置きなく楽しんできてください」

 この叫びたくなるほどの激情を、自分はあと何度かみ殺せばいいのだろう。
 アズールの答えに表情を和らげながらもまだ何か言いたげな様子を見せる彼女を、ウツボの双子がモストロ・ラウンジの奥へと誘っていく。こちらを気にして振り返る彼女の瞳が視界から完全に消え去ってようやく、アズールはそのかんばせから作り笑いをはぎ取った。
 このまま部屋に帰ってしまいたい気持ちもあるけれど、先程の言葉を違えるわけにもいかない。
 しぶしぶといった素振りで大水槽が一番よく見える席に腰かけ、光の煌めく水面から彼女の姿が沈み込んでくる時を待った。

 ──とぷん、と重くも軽い水音が聞こえた。

 もちろん分厚いアクリルガラスの向こうに響いた音なんてこちら側には届かないため、それはアズールの抱いたただの錯覚にすぎない。
 視線を持ち上げて、白い泡が水を割いていく様を見つめる。ぶくぶくと泡が途切れた向こうに覗いたのは、青い世界に飛び込んできたひとりの少女の姿。
 その光景を、アズールはどこかで見たことがあるような気がした。一体どこでのことだろうかと考えるけれど、思考回路も意識も目の前に広がるその世界のかたちに全てを奪われてしまっていて、記憶を漁ることさえどうにもままならなかった。
 水による浮力を受けながらも、ゆっくりとゆっくりと、その小さな身体は水底へと沈み込んでいく。水の青さも相まって、それはまるで空を飛んでいるかのようにも見えた。
 ああ、そういえば。こうして天使が舞い降りてくる姿を描いた絵画を、いつか見たことがあった。
 先程覚えた既視感の正体はそれかと頭の片隅で理解し、固く閉ざされたその瞼の向こうから早く瞳が覗きはしないかと心が逸る。

 アズールのその願いは、存外すぐに叶えられた。

 水の世界に身体も慣れ始めたのだろう、水底まであと少しというところで彼女の瞼がゆっくりと開かれていく。恐る恐る、たどたどしく、丸い瞳が世界をその虹彩に映し取った。青い色がそこにきらきらと反射する。水面に再び泡が揺れたことも、アズールの意識には入って来なかった。

 ……彼女にはやはり、空の突き抜けるような青さより、海の孕んだ深い青さのほうがよく似合っている。彼女の煌めく視線がアクリルガラス越しにアズールの姿を見つけ、そしてその表情と共にふわりと綻ぶ姿を見て、アズールはそう確信した。

 アズール先輩。はしゃぎきっていることが遠目にも分かる彼女が、唇に何か音を紡いでいる。その動きだけで彼女が一体何を言おうとしているのかを理解出来てしまう自分自身に嘲笑がこぼれるけれど、どうしてかそこに不快感は見当たらなかった。
 彼女の後を追って水槽の中へ飛びこんできたふたりのウツボの人魚が、けらけらくすくすと笑いながら彼女の手を引いて水槽の中を泳ぎ始める。
 ──もしも、自分が。
 ふと頭の中に浮かび上がった合理性の欠片もない仮定を鼻で笑って、アズールは水槽の中で楽しげに笑っている彼女の姿を網膜に映し込んだ。
 照明の眩しさと鮮やかな青色が相まって、ともすればその光景が記憶の奥底に刻み込まれてしまいそうにも感じられる。瞼を閉ざす度にその姿を思い描いてしまうようになった時は、一体どう責任を取ってくださるのでしょうか。言ってしまえば八つ当たりも同然な言葉を心の内に転がし、アズールはその瞳をそっと細めた。
 時折こちらへ笑みを咲かせる彼女に口端を綻ばせて、ちゃんと見えていますよと示すように手を振って、アズールは静かに静かに考え続ける。

 ──例えば、もし、このまま彼女をこの水槽の中に閉じ込めることが出来たならば。アズールはその胸にひしめくどうしようもない激情に別れを告げることができるのだろうか、と。

 彼女は元々、海の世界というものに心が惹かれる質なのだと、以前どうでもいい雑談の中に聞いたことがある。それならば、海の中に沈めてしまってもいいのではないか。彼女の愛する海の中で、ずっと、永遠に。

 ああ、でも。それはきっと、今ここに。水槽の外にいる自分が願っていい未来ではない。
 ……あの双子に任せるのではなく、自ら水槽の中に入って、人魚の姿で彼女の手を引くことが出来るようになれば。その時は、──僕は。

 思考に耽溺していくアズールを引き留めるように、視線の先で影が踊った。それは他でもない、水槽の中に在る彼女の姿。
 こちらへ歩み寄り、アクリルガラスに手をついた彼女は、どうやらアズールに何か用事があるようだ。その手に何かを持っている様子の彼女に、怪訝さを覚えながらもアズールはソファから立ち上がる。
 革靴を静まり返った店内に響かせて、彼女の正面へと。
 ほとんど無意識に伸ばしていた手のひらが、アクリルガラス越しに彼女のそれと重ね合わされる。
 アズールのそれですっぽりと包み込むことが出来てしまいそうなほどに小さな手のひら。なんの躊躇も衒いもなくつかみ取るには、些か温かく優しすぎる手のひら。
 ふわりと彼女の双眸が綻んでいく。まるで、小さくも可憐な花が咲き誇るかのように。

 アズール先輩。

 また彼女の唇が音を紡ぐ。その響きを慈悲もなく遮ってしまうたった数センチのアクリルガラスの存在が、今はどうしようもなく憎たらしくて、憎たらしくて、仕方がなかった。

 なんですか?

 届かないと分かっていても、理解していても、それでもなお言葉を紡いでしまうこの愚かさを、世界は罪と呼ぶだろうか。
 きっと、アズールはそれでも構わないと言い捨ててしまうことが出来る。だって、ただそれだけのことで、目の前のあえかなたった一人が、酷く酷く嬉しそうに微笑んでくれるのだから。

 彼女がその手に持っていた何かをアズールの目の前に掲げる。それは何でもない、彼女の手のひらほどの大きさの貝殻だった。
 アズールの視線は、意識せずともそこに記された文字を追いかける。独特な形をしたそれは、陸では使われていない海の言語のもの。つまり、彼女が知るはずのない言葉。
 彼女の向こうに、ふたりのウツボがいやらしく愉快そうに笑っている。対して、目の前の少女はどこか不安そうな表情を浮かべて佇んでいて。
 ……なるほど、つまりはあのふたりが適当に彼女をそそのかしてこの言葉を書かせたらしい。
 それを理解すれば、そこに彼女が籠めた想いなど有りはしないことも分かると言うのに。それでもなお早鐘を打ち始める心臓のなんと愚かなことか!


「──っ、ジェイド、フロイド!!」


 この居た堪れなさと気恥ずかしさと苛立ちをぶつける先なんて、もうそこにしかない。
 アクリルガラスと水の塊に遮られているはずのアズールの激昂に、またあのウツボたちがけらけらくすくすと楽しげに笑っていた。


2020/9/15

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