君さえ


ご利用は計画的に(ジェイド)


「あー待って待って、それはまずい」

 花壇の中の湿った土をかき混ぜていた手を止めて、私はずるずるとずり落ちてきた白衣の袖に思わずそんな独り言をこぼした。人気の少ない放課後の植物園に、焦り混じりのその声は曖昧に解けては消えていく。
 まるでオペを開始する直前の医師のように両手を胸の前に挙げて、ひとまずは泥にまみれた手で白衣の袖を汚してしまうことを阻止した。汚れてもいいようにと着ている白衣ではあるが、汚れが目立つ上に落ちにくい泥汚れがついてしまうのは頂けない。
 そんな曖昧な体勢のまま考えるのは、どうすれば白衣を汚さずにもう一度袖を捲ることができるのかということ。一番の最善策はきっと、このまま手洗い場まで行って手を洗い、泥を落としたきれいな手で──、なのだろうけれど。何を隠そう、まだ私のやるべき作業は終わっていないのだ。どうせこの後も泥仕事をしなければいけないのに、ここからそれなりに距離のある手洗い場まで行くというのは少々気が重い。
 かといって、白衣を汚すのも嫌だという我儘具合。はてさて、一体どうしたものか。

 ううん、と頭をひねった私の鼓膜に、ふとどこからか誰かの足音が聞こえてきた。それにぱっと視線を向けてみれば、そこに踊ったのはもう随分と見慣れた鮮やかな色彩。それを持ち、かつ植物園に足を運ぶひとと言えば、私が知る限りこの学園にはたったひとり。
 こちらの存在に気付いた彼が、ゆらりとその双眸をこちらへ向ける。交わった視線の先に、左右で色を違えた瞳がふわりと優しく瞬いていた。

「おや、監督生さん。こんにちは」
「こんにちはジェイド先輩、丁度いいところに!!」

 天からの救い、というには些かあくどさが過ぎるが、この程度の願いならば大した対価を取られることもないだろう。瞬時にそう判断した私は、きらりと瞳を輝かせて彼の方へと歩み寄った。
 そんな私の様子に少しばかり瞳を丸くした彼は、けれどもすぐさま穏やかな微笑みを携え、私の話を聴く姿勢を整えてくれる。ちなみに、その間も私の手は今にもオペを始めかねない様子で佇んでまま。何とも間抜けな有様ではあるが、まあそれも仕方がないことだ。
 彼の視線が揺れて、そんな私の手元を映す。その時点できっと彼は私の願いが何であるかを大方察してくれたのだろう。その直後、彼の微笑みにわずかな苦笑が混ぜられたことがそれをありありと物語っていた。

「という訳ですので、袖を捲って頂けるとありがたいです」
「なるほど。対価には何を?」
「白衣のポケットに飴玉とクッキーが入っているのでそれをどうぞ」
「ふふ、何とも可愛らしいですね。……まあいいでしょう。承りました」

 よくそんなもので願いを叶えてもらおうと思いましたね、という微かな圧を言外に感じないこともないが、まあ了承を貰えたからよしとしよう。
 自他ともに認める燃費の悪さを誇る彼であるから、恐らく放課後のこの時間帯は空腹だろうと考えての提案だったのだが、どうやら正解だったらしい。やったぁ、と子どもっぽい喜びの声を上げて両腕を彼の方へと差し出せば、どうしてか彼はくるりと私の背後に回り込んできた。
 正面から袖を捲られると思っていたので少しの驚きは覚えたが、まあその方がやりやすいのだろうなと即座に理解する。30センチ以上の身長差がある彼に背後に立たれるというのは少しの恐ろしさを覚える状況ではあるが、まあ頼んだのはこちらであるためそんな失礼なことを口になどできない。ぴくりと跳ねた肩を宥めて、私は大人しく彼に身体を委ねた。
 背後から腕が伸ばされ、まずは右腕側の袖が丁寧にくるくると折りたたまれていく。日焼けを知らない白い肌に、長くしなやかな指。どこか女性的でありながらも、男性らしくしっかりと大きさや厚さを持ち筋張っている手のひら。手袋の嵌められていない彼の指先にほんの少しの新鮮さを覚えて、思わずじっとその姿を見つめてしまった。

「……ところで、監督生さん」

 相変わらずきれいな手をしているなぁ。そんなことをぼんやりと考えていた私の鼓膜を、囁くような彼の声が柔くくすぐっていく。肘あたりまで捲られた右袖に、まだずり下がったままの左袖。
 そういえば、今の体勢はまるで彼に背後から抱きしめられているかのようだなと、そんな今更過ぎることに、私はその瞬間ようやく気が付いた。
 右腕での仕事を終えた彼の手が、ゆるりと水面を掻くように指先を揺らす。その左手はそのまま私の左腕へ。右手は、何故か私の腹部へ。
 白衣の袖からわずかに覗いた肌を、彼の指先が柔らかく撫でていく。そわり、と背筋が震えるような感覚に襲われた私は、咄嗟に呼吸を止めた。
 きゅう、と喉が締まって肺が縮みあがる。そんな私の体内環境を知ってか知らずか、腹部に伸ばされた彼の手のひらが、服の上から皮膚を通して内臓を宥めるように撫でていった。

「以前から貴方はどこか危機感が欠如しているな、とは思っていましたが……」

 耳元のすぐ近く。彼の唇が震えて、声が私を苛む。ショートした思考回路では今自分の身に一体何が起きているのかも分からないが、本能はがんがんと警鐘をかき鳴らし続けていた。首筋に鋭く尖った歯が突き立てられるかのような錯覚。ああそうだ、私の背後にいる彼は、凶暴な肉食魚、で。
 彼の右手の指先が、私の左わき腹に軽く爪を立てる。痛みはない。けれど、どうしようもなく心臓が、肺が、内臓が、血潮が、沸騰して、燻って、かき乱されて、仕方がなくて。


「そう易々と背後を許していては、あっという間に食べられてしまいますよ? ──どこかの悪い肉食魚に」


 からり、と彼の耳元にピアスが揺れる音。その姿を見ずとも、彼が笑っていることが容易に理解出来た。あの形のよい唇を歪めて、その向こうに鋭い歯列を覗かせて、瞳に愉快を滲ませたあくどい笑み。彼といういきものの本性を、一番に正しく示した表情。
 言葉も行動も忘れた私を置いて、彼は何事もなかったかのように残された左腕の世話を始める。慣れた手つきでくるくると肘上まで袖が捲り上げられ、私の両腕はようやく自由に。指先にこびりついていた泥汚れが乾燥し始めたせいか、肌がぴきりと引き攣った。

「これで大丈夫でしょうか?」

 彼の問いかけへ、思考も少なに私は頷いた。言葉は相変わらず喉元につっかえて、ちゃんとした音に変わってくれそうにもない。
 彼はそのまま背後から私の白衣のポケットへと手を伸ばし、その中から飴玉とクッキーを攫って行く。軽くなったポケットに反比例して、私の思考回路は重くなっていくばかり。私は彼の行動と言葉を一体どう解釈すればいいのだろうか。

「対価は確かに頂きました。……また何か困ったことがあれば、いつでも頼ってくださいね。監督生さん」

 今度の対価には、何を頂きましょうか。
 まるで歌を口ずさむかのような声色。するりと顎先を撫でていった彼の指先。恐る恐る、頭を後ろへと傾け視線を頭上に。瞬きをひとつ、呼吸を半分、鼓動をひとつ。
 にこり。彼の瞳が弧を描いた。息を[D:21534]むほどに整ったかんばせと、凶悪なまでに美しい笑み。さらりと揺れたターコイズブルーの鮮やかさに、くらりと目が眩む。頭の中に鳴り響く警鐘は止む様子もない。
 最後に親指の腹で私の唇を弄んで、彼の体温は呆気なく遠ざかっていった。残されたのはその感覚の名残と、困惑と、今にも壊れてしまいそうな程に震える心臓ばかり。
 願いは叶えられた。対価も軽く、確かに支払うことが出来た。だというのに、どうしてか「やってしまった」という感覚が募って、募って、仕方がなくて。
 それでは、とたおやかな微笑みを最後に去っていった彼を茫然と見送り、取り残された私はひとり考える。──自分は一体いつの間に変なルートに入ってしまったのだろうか、と。これから先、ジェイド先輩にはどんな些細なことでも頼みごとをするのはやめよう、と。
 暑く火照った頬を隠すように、私は再び花壇へと向かった。冷たい土の感覚に触れていればすぐに冷静さも取り戻せるだろうと思っていたのに、丁寧に捲られ一向にずり下がってくる様子のない白衣の袖が視界に映る度に、鼓動が煩くなって仕方がなかった。


2020/10/12

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