名前で呼んでくれる


「苗字さん、お時間です」

静かな声が聞こえた。私はまだ風呂敷の上にのったままだった着物に漸く手を伸ばし、それを服の上から羽織った。廊下に出て、美鶴ちゃんの後を歩く。
静かだな。珠紀は…もう寝たのかな?でも、会わなくて少しほっとした。会ったら、泣いてしまいそうだし…。
玄関を出て鳥居の前まで来て少し立ち止まってふり返った。
よく掃除した境内。珠紀と引いたおみくじ。数週間、お世話になった宇賀谷家。
もう、ここに来る事もないんだね…。

「苗字さん。急いでください」
「…うん」

さようなら。と、心の中で呟いて、待ってくれてる美鶴ちゃんの元へ向かった。
それから、私達は言葉を交わす事なく歩き始めた。目指す場所は森のずっと奥深く。鬼斬丸のある、あの沼だ。
私の中にある神様の力で一時的に活動を止められている鬼斬丸は、まだあの場所にあるという。私が神の力で再び鬼斬丸を封印する。宇賀谷さんが儀式をするみたいだけど、姿は見ていない。もう先に向かってるのかな?
そんな事を考えながら、黙々と森の奥目指して進んだ。


森に入って十数分。遠くで、薄く輝く青い光が見えた。…鬼斬丸だ。
空(くう)に浮くそれは、時々小さな閃光を放ち、存在を周りに知らしめている。
青い光の中に渦巻く禍々しい黒い力。近づけば近づく程、その力の強大さが肌に感じて取れる。抑え込められているというのに、これ程の力を放つ鬼斬丸。闇が、混沌が、この世界を覆う。そうなると全てが無と化してしまう。
その力を前に、治まっていた震えが再びこみ上げて来る。いよいよだと思ったら、押し込めてた恐怖がわきでて来そうになる。
鬼斬丸を囲む様に、人一人分くらいの大きさの五芒星が淡く光り四方に描かれている。いかにも儀式的な感じ。

「この中に入って暫くお待ち下さい」

五芒星の一つを指して美鶴ちゃんが言った。その五芒星から一筋伸びる光は真っ直ぐ鬼斬丸と繋ぐ。
ここに入ったら、私は鬼斬丸と共に消えるんだと直感で感じ取った。

「美鶴ちゃん」
「はい」
「美鶴ちゃんはさ…私と会えてよかったって……思ってくれてるかな?」

少し視線を外して、一度瞳を閉じると真っ直ぐ私を見て言ってくれた。

「はい。私も珠紀様も、守護者の皆様も、きっと苗字さんに会えてよかったと思われていると思います」
「そっか…。じゃあさ、最期にさ、お願いあるんだけど」
「……」
「私の事、名前って、名前で呼んでくれる?」
「え…?」
「ほら、みんな名前で呼んでくれるけど、美鶴ちゃんだけずっと苗字さんって呼んでたから、なんか距離感じちゃってさ!だから、よかったら名前で呼んでくれないかな?」

少し躊躇ったけど、美鶴ちゃんは優しく微笑んでくれた。

「名前、さん」

言い慣れないみたいでちょっとぎこちないけど、それがまた可愛い。

「ありがと!…じゃあ、ね」
「、……」

別れを告げ、私は五芒星の中に足を踏み入れた。
一足踏み入れると、そこは別の空間かと思うくらい静かだ。少し圧迫感が感じられる。
結界が張られているのかな?…そっか。儀式中に逃げ出したりしたらダメだし、当然か。暫く待ってて下さいって言ってたけど…いつまで待てばいいんだろう?もう、いっその事早くやっちゃって欲しいんだけど…。覚悟は決まったけど、待たされると不安と恐怖がふつふつと沸き起こる。風に靡く草木の音すら聞こえないこの空間は、何度と夢で見たそれと似ていた。
神様と話したあの日からあの夢は見ていない。声も聞こえない。
…神様、これでいいんだよね?
心の中で呟いたけど、神様はそれに応えてはくれなかった。
ふぅ…と溜息を吐いて、ゆっくり瞳を閉じた。目を閉じて思い浮かべるのは…やっぱり大好きな彼の事。
拓磨の事を考えたら、心が温かくなる。自然に笑みがこぼれてくる。一緒にいると嬉しくなったり、ドキドキしたり、胸がくるしくなったり…。自分が死ぬとしても、彼には笑って生きて欲しい。こんな気持ち、自分の中にあったなんて知らなかった。
こんな特別な気持ちを知ることが出来て、本当によかった―。
胸に手を当て、そう思っていると、足元の五芒星の光が強くなり始めた。私を囲む結界もより強力なものになったみたいに感じる。
儀式が、始まったんだ…―。
何が起こるのか、胸がドクドクと波打つ。私は胸に当てた手にギュっと力を入れた。
やっぱり……最期に、一目会いたかったな…。

「さようなら――拓磨」

もう流れないと思っていた涙が、一筋、頬に伝った。



***



「……こちらです、玉依姫様」

美鶴に導かれ一歩一歩前に進む珠紀。

今日、ババ様から『封印の儀を行う』と連絡が入った。宝具も奪われたままでどう封印するのか不思議だった。もしかしたら、名前が部屋に閉じ込められてた事と、珠紀の元気がないのと関係があるのか?
夜も深まり、少し赤みを帯びた月が嫌な予感を掻き立てる。神社の境内まで行けば、真弘先輩に祐一先輩、慎司、大蛇さんの姿があった。
先輩らや慎司は今日学校で会ったから怪我が治ったのは知ってたが、大蛇さんも完治したみたいでよかった。
俺達守護者と玉依姫である珠紀に、ババ様。美鶴の姿が見えない…それに、名前は…部屋にいるのか?
名前がいるであろう部屋に視線を向けるが、灯りがついてなくて確認ができない。
行きますよ。と言うババ様の言葉で俺達はその場を後にした。
向かった先は鬼斬丸がある場所。儀式の準備も終えているみたいで、薄く青い光を放つ陣の傍らに美鶴の姿があった。
一通り辺りを見渡し、名前がいない事に一安心する。だが、胸の不安は残ったまま。
そんな事を思っていると、珠紀が五芒星の中にゆっくり入った。
儀式が始まる。
俺達は儀式が無事終わるまで、ロゴスらの妨害がないよう警備しなければならない。
神経を周りに向けつつ、じっと儀式の様を眺めていた。
瞳を閉じ、意識を集中させた珠紀の足元にある五芒星の青が徐々に濃くなり始めた。大きな力が動き始めたのが分かる。
これが…珠紀の力なのか?
そう思った時、少し離れた場所にいた美鶴の様子がおかしいのに気づいた。儀式から視線を逸らし、手が少し震えている。

「大丈夫か、美鶴」
「っ!…鬼崎、さん」

どうしたんだ?美鶴が悲痛な顔を浮かべてる。その顔を見ると俺まで不安な気持ちが込み上げて来た。

「やっぱり……、いけません!珠紀様!今すぐ止めて下さい!」
「美鶴!」

珠紀に向けて悲痛に叫ぶ美鶴を遮る様にババ様が声をあげた。

「あの五芒星の中に名前さんが!このまま続けては、名前さんがっ!」
「!?」

美鶴の指差す先の五芒星。見れば、他の五芒星より一際青い光を放っている。

「どういう事おばあちゃん!私が生け贄になれば、みんなは助かるって、そう言ってたじゃない!!」
「…危険分子は潰しておかねばなりません」

危険分子って…名前の事か?!

「珠紀ッ!今すぐ儀式を止めろ!!」

俺の声を聞いてハッとした珠紀。だが、珠紀の意志とは反して青い光は濃さを増していく。

「…―だめ、止まらないよ!」
「ッ!」
「おい!拓磨!」

名前がいるであろう五芒星に近づいて手を伸ばすと、バチバチ!と結界が音を立てた。それも構わず爪を立て、結界をこじ開けようとした俺の手には電気が走り、感覚を徐々に奪っていくみたいだ。

「ッ、―く、っそぉッ!!」
「鬼崎さん!それ以上やると体が!!」
「拓磨!」

周りからみんなの声が聞こえた。だけど…だからって引き下がれねえ!こっから、あいつを助け出すまではッ!!
そう思った時、森の奥から巨大な力の気配を感じた。

「ッ!伏せろ!!」

真弘先輩の声が響く。その瞬間、暗闇から無数の黒い力が俺達のもとに降り注いで来た。力の一陣が五芒星を攻撃し、陣が崩れたからか光が一気に消えた。すると、さっきまで何も見えなかった目の前に―あいつの姿が見えた。

「――名前ッ!」

無意識のうちに、俺は名前をこの腕に抱いていた。

しおり
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