唐揚げおにぎり

人の気配が消えて久しかったトレーニングルームで、汗に浸った自分の体からふと意識を引き上げた。
閉じられたはずの出入口に温かな物音が聞こえたから。
チェストプレスの上から顔を向けると、廊下の照明を背に受けた◎の輪郭があった。
藍色の濃い逆光に見える、その胸まで引き上げられたジャージのジップの谷間からTシャツに散りばめられた星模様がのぞいている。
これだから彼女を見ると、自分の立場や取り巻く空気をも忘れて夢をみたり願ったりしてしまう。
目を細めて眺めたささやかな星が白い湯気に隠された。

「野坂くん、夜食にどうぞ。
 メニュー外のトレーニングにはメニュー外のご飯があっても大丈夫でしょ」

柔らかな声を追ってきた鼻先に香りが届いた。
甘さと辛さの重ね目にしのぶ香草が食指を誘う。

「この香りは唐揚げだね」

喉に滲んだ食欲を飲み込み、代わりに腕を動かしてチェストプレスを鳴らした。

「けれど、いらない」
「どうして。野坂くんはこういう食べ物で息抜きするのが好きだから持っていけって、西蔭さんが教えてくれたのに」
「そう。西蔭は君にそんなことを教えるんだ。自分で持ってくればいいのに」

彼女を持つ皿は大きくて、転げ落ちそうな量の唐揚げが盛られている。
西蔭の思いとも彼女の気遣いともつかず所在なく宙に掲げられている。

「とにかく、持って帰ってくれ」

立ちのぼっていた湯気が形を変えた。ため息をつかせてしまったのだ。
まだ何か言いたげな足音が遠ざかる。
残された香りが頭にまで入り込み、埋められていた記憶を切り取って掬いあげた。
あれはブランケットの中で昼寝から目覚めた時だ。
破裂音が止まないキッチンを恐々のぞくと、火に掛けられたフライパンから次々と唐揚げを掬いあげる母親の姿が見えた。
散らかったままの部屋は目に入らないような機嫌のよい鼻歌に、僕をお腹いっぱいにするのだと歌詞をのせている。
この家に棲む二人には多すぎる量の唐揚げの山を食べきれるとは思えないが、それが母の愛情なのだと覚悟した。
結局冷めた唐揚げの転がったままの皿に向かって母が甲高い声をあげ、愛情を受け止めきれなかった僕は俯いた。
自分は愛されるに値しない。
だから今でも大量の食べ物は西蔭に譲る。
誰かを愛することならできるかを試したくて、自ら彼にたくさんの食べ物を与えてもみる。
彼は鍛えた体にすべて納めてくれるけれど硬派な表情を歪めるから、やはり僕は他人に愛情を与えることもできないのだ。
◎相手なら尚更、僕が受け入れられない物を突き付けられたくはなかった。

耳に響くのはチェストプレスのウェイトがぶつかる規則的な金属音だけに戻った。
突き出しては引き戻す腕が握るのはマシンのバーだけだ。
回数を数えることをいつの間にか忘れていた。
もっと近くに来てほしいのに真逆の言葉をぶつけた。
僕の嘘に逆らって戻ってきてくれる愛情を期待しながら、所詮僕はそれを受け止められない。
飛べない羽で闇雲なあがきを繰り返していると、マシンの音の合間に足音が混ざった。
先ほどの彼女の慎重な足取りよりも速くて耳にたたみかけてくる。
腕を休めずに入口を見つめると、足音が大きくなって影がさした。
彼女の横顔は先ほどと変わらないけれど、その手が掲げる皿の上にある物は両手で包めるほどの塊一つに替わっていた。

「これなら食べてもらえるかな」

返事がないことを思案中ととらえたのか、彼女がトレーニングルームの中へ踏み入った。
廊下の照明の逆光を離れた姿はやがて窓から入る夜の光を受ける。
僕の目に入るのと同じ薄青さの中で、皿の上の塊をかたちづくるすべての粒が真珠の色を帯びた。

「おにぎりだね」

僕は腕を止めた。
あからさまな拒絶を受けなかったことに安心した彼女が、袖を捲ったままの腕を差し出した。
滑らかな縁には角を揃えてたたまれたウェットティッシュが添えられている。
汗の滑る指で触れると薄いアルコールに熱をさらわれた。
自分は空腹なのかもしれない。
ボールを渡す時も、開いたドアを押さえる時も、決して彼女に触れずにおいた。
彼女から与えられるものを自分が受け止められない可能性に気付かずにいられるように。
それなのに、僕が受け止められるように作られた形に触れてみたい。

「食堂に残っていたご飯だから、硬かったらごめんね」

巻かれたばかりの乾いた海苔越しにもおにぎりは柔らかく、意外にも重い。
その手がつくった形を一粒分も欠けさせないように、彼女に触れるつもりで、粒の隙間へ唇を埋めた。
視界が明るくないせいで塩味が人の肌の味にかわる。
目の前にたたずむジャージのジッパーに囲まれた肌の味だ。
空になった皿が彼女の胸元へ引き戻された。
おにぎりを拒否して戻す先がなくなった。
次の一口を飲み込めるだろうかと口をつけるたびに怖くなり、心にもない皮肉で紛らわす。

「僕にかまう暇があるなら自分の実力を磨いたらどうだい」

先端の欠けたおにぎりを愛しそうに眺めながら彼女は小さく笑った。

「自分の練習も大事だけれど、自分にはできない努力をしている人には憧れるし、応援したくなるものなんだよ」
「君と同じ立場になったことがない僕にはわからないな」

まだ目の前にいてくれる彼女に向けて次の一口を試してみた。
海苔の裂ける心地よい音に続いて突然訪れた、肉の弾力とスパイスの香り。

「唐揚げ……?」
「成功!野坂くんに食べてもらえた」

塩味に続く塩味なのに、衣にまざった香辛料のためか濃厚な味を舌は拒まなかった。

「そこまでするのは西蔭に任されたから?」
「唐揚げが鳥だから、かな」

夜の空気には不似合いな答えに目線を上げた。
光の乏しいなかだからこそ彼女の目に集う光が綺麗だった。

「野坂くんが、高く飛ぶ力を手に入れますように」

残り半分になったおにぎりをきっと最後まで食べ尽くせる。
すべて自分の内側におさめても、もっと彼女の成す形に触れたくて手を伸ばしてしまう。
ありがとうと受け止めるだけではおさまらない。
僕が飛べるようにこの背中の翼を引き出して、とその腕に包まれることを望んでしまう。