暗い水の中にいた。足が、水に浸かっていた。水は、少しずつせりあがってきている。立ちつくしたまま、動けないでいる。水嵩はどんどん増す。空から水が落ちてきているのだ。腰まで水が迫ってきて、足が浮いた。水が顎まで迫ってきてはじめて手足は動くようになった。溺れまいとして必死で藻掻いた。見上げても暗い。洞窟のような場所にいる。岩肌を伝って水がぽつりぽつり落ちてくる。水に逆らって泳いでも、思うように動けない。
ふと、全てを理解した。事実を思いだした、という感覚だった。こうすればよかったのだ。
体の力を抜いた。すると体は水底へ沈んでいった。安堵に包まれる。
こうすればよかったのだ。教えられて、知っていたはずだ。沈んでゆけ。眠りの底へ。





 二度寝と、起きているか眠っているかわからないまどろみを繰り返していた。仰向けになると、天井の見事な木の梁が目に入る。ここはどこだっけ。雨の音がしている。ここは、チェンマイだ。気だるい体をようやく起こす。壁の時計は11時を差していた。ベッドの傍の窓にかかったカーテンを引く。ヤモリが一匹落ちてきた。ヤモリはそのままどこかに消えた。窓の外に見える森は、雨にかすんでいた。しとしとと落ちる水の音を聞く。空の片隅に日が差してきたので、もうじき止むだろう。

階下に降りる。
「全くいぎたないなお前は。もう昼だ」
 ダイニングの椅子に座った宿儺に声をかけられる。隣に虎杖もいた。
「おはよ……」
「疲れてるんだろ。もうちょっと休んでてもいいよ」
「ううん。十分寝たよ。なんか夢、見て、疲れる夢だったのかな、それでぼんやりしてた」
「夢?」
「たまに不思議な夢を見ることがあって。昔から。朝起きたら覚えてないんだけど、変わった夢を見たな、って感覚だけがある」
 テーブルの上に目をやる。マンゴスチンが皿に盛られていた。途端に食欲が湧いてきて、それを手にする。甘い匂いがする。
「どんな夢だ」
と宿儺が訊く。
 果肉にかぶりついた。乾いた喉を甘い果汁が潤していく。
「うーん……やっぱ覚えてないや」

 のんびり過ごす、という以外にここでの予定は決めていなかった。
 虎杖に、案内して、と言われて、庭を歩く。スーツケースの中から引っ張りだした虫よけスプレーを入念に振って、外に出た。コテージの庭は奥へ進むとあいまいに周囲の森と溶け合っていく。ぬかるんでいない道を選んで歩く。雨を得た木々は緑が濃い。足を進めるほどに、密林は深くなっていった。
いつの間にか宿儺が前を歩いていた。追いかけてきたのか。足取りはいつも通り跳ねるように軽やかだ。宿儺はここに来てから、和服を着ていた。着流し、といえばいいのだろうか。生成り色の着物をさらりと一枚で身に纏っている。帯は締めているというより結んでいるといった風で、蝶結びの先がひらひらと揺れている。
「静かなところだね」
 虎杖は周囲を見回して言う。
「静かでいいところでしょう」
 森に声が吸いこまれていく。


 四日目の朝になる。
「おはよー!」
「おはよう……」
 私がようやく服を着替えてテラスに出てくるころに、虎杖は早朝のジョギングを済ませてきたらしい。庭先から呼びとめられた。
「これ、朝ごはんにしよう」
虎杖は手に持っていた籠を差しだした。蔓編みの籠に、バナナが盛られている。
「買ってきてくれたの?」
「ううん。さっきネンに会って、貰ったから」
「ネン?」
「ほら、一番最初に迎えてくれた男の子」
 あの男の子の名前を初めて知る。一人でここに滞在していた時は、管理人夫妻に息子がいるということすら知らなかった。前にお酒を飲んだ時に本人にも言ったけれど、虎杖には自然に人の懐に入りこんでしまうところがある。
「もう仲良くなったの?」
「昨日かくれんぼして遊んだんだ」
 コテージのある場所から少し斜面を下ったところに集落がある。管理棟は集落の端にあった。小さな食堂もあり、食事はそこで食べたりもするし、コテージのキッチンで宿儺や虎杖が作ることもある。虎杖は鍋や焼き飯が得意。宿儺は、凝ったものもさっとできるものも、なんでもやる。私は、片づけが得意……得意ではないが、せめて洗い物やお茶を煎れることは全部私がやることにしている。今日の昼食は宿儺が作ってくれた。クイティアオだ。甘くて辛くて酸っぱいこの独特な麺料理が、私は大好きだった。
 リビングはコの字型に広いソファーベットがある。午後からは虎杖はそこで本を読んでいることが多い。背もたれに体をあずけて、膝にのせたクッションの上で本を広げている。読んでいるのは分厚いハードカバーの本だ。あの小さな荷物の中に、これが入っていたのか。小口の紙はわずかに日焼けていて、古いもののようだ。虎杖はその本をとても丁寧に扱う。ページを開く手は慎重に動く。

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