信じないよ、嘘だよね
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「永井、いよいよ明日ね。訓練の出発日」
不意に背後から自分の名前を呼ばれ振り返る。
するとそこには、自分より少し背の低い女性が立っていた。
名無というネームを胸に縫い付けており、彼女は永井が所属する部隊の先輩隊員の一人で、今この部隊にいる人の中では一番親しい間柄でもある。
彼女はいつものように優しい笑顔を向けてこちらを見上げている。
その顔を見て永井は、胸の奥が締め付けられるような感覚で苦しくなった。
彼女の顔を直視するのが何となく恥ずかしくて、視線を落としてしまう。
「あ……七子さん」
七子は永井より一つほど階級が上で、実を言うと彼は彼女に淡い恋心を抱いていたりするのだが、それを本人に伝える勇気はなかった。
しかしそれを悟られないように、なるべく平静なふりをして返事をする。
そんな永井の様子に気づいているのかいないのか分からない様子で、一つに縛った髪を揺らしながら身を翻し、永井の隣へ並んで歩き出す。
「今度の訓練、長いから大変だよね」
そう言って彼女は笑みを浮かべているが、永井はその言葉を聞いて表情を曇らせる。
確かに今回の訓練は、支援物資調達の実地訓練で長期に渡る予定であり、その間ずっとここを離れることになるのだ。
そしてそれは同時に彼女としばらく会えなくなってしまうことを意味していた。
もちろん任務である以上仕方がないことだというのは分かっている。
(それに今回は、なんか嫌な予感がするんだよなあ……)
今までも何度かこういうことはあった。
ただその時とは比べ物にならないくらい不安感が増してきている気がした。
だが、それも気のせいであってほしいと彼は切に思う。
「そうなんすよね。もちろん、長くてあんま気が乗らないのもあるんスけど……」
永井は何かを言い淀んでいるようで、そのまま黙り込んでしまう。
すると隣にいた七子が不思議そうな顔をしながら問いかけてきた。
「あるけど……?」
その問いに対して、言葉を選ぶようにして困ったような表情を見せる。
「よく分からないんですけど、何となく嫌な予感というか……胸騒ぎ、というかそんな感じがするんすよ」
大体は自分の勘というのは外れる方だから、アテになるようなことはないと思うのだが。
「そっか……私もそういうのあったな。自然とそう考えちゃうよねえ」
どうやら彼女も同じことを思っていたようで、自分が考えていることは、あながち間違っていなかったらしい。
ほっとした気持ちと同時に、やっぱり自分はまだまだ経験も少なく未熟なんだと思い知らされるような気分だった。
「でもさ、大丈夫だよ。きっと。神様とかそういうのはあまり信じない質だけど、見捨てられたりは絶対にしないよ。……ね?」
彼女はそう言って優しく微笑んでくれた。
その笑顔を見ると何故か安心できた。
それと同時に、自分の中の不安感が無くなっていくようだった。
永井は、そうだといいですねと彼女に言うと笑い返した。
すると廊下の奥の方で、永井を呼ぶ声が聞こえた。
「おい、永井! 30から明日のミーティング始めるぞ!」
見るとそこには同じ部隊の上司がいた。
永井が慌てて左手の時計を確認すると、上司から示された三十分の集合時間まであと五分といったところだった。
「あ……はい! 了解です!」
永井は大きな声で返事をすると、七子に向き直った。
「七子さん、ありがとうございます! お陰ですっきりしましたよ」
そう言う彼の表情からは先程までの暗い影は無くなっていた。
そんな素直な後輩の姿を見ながら七子はクスッと笑う。
「そう、それは良かった!」
永井は彼女の笑顔を見て照れくさくなったのか、頬を掻きながら視線を外すと誤魔化すように言った。
「俺、七子さんのために頑張ってきますよ!」
彼は冗談めいた口調で、彼女に笑いかける。
彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにまた笑顔になって答えてくれた。
「何、調子のいいこと言ってんのよ!」
彼女はそう言いながらも、嬉しそうであった。
永井もそれを感じ取ったのか思わず笑みがこぼれ、つい七子の頭を撫でてしまった。
彼女は少しだけ恥ずかしそうな顔をして俯くと、永井の手を振り払うわけでもなく、されるがままになっている。
「私……一応、あんたの先輩なんですけどっ!」
彼はハッとして手を離すと、すみませんと言いながら顔を赤く染めて謝った。
そして二人は目を合わせてお互いに吹き出してしまった。
「……待っててくださいね、七子さん」
彼女はそれを聞くと嬉しそうに笑って手を振ってくれたので、彼もそれに応えて手を振り返す。
「今日の夕飯の食堂、一緒に行きましょうね!」
永井の言葉に返事をする代わりに、もう一度大きく手を振る。
それを確認してから、彼は急いで上官の元へと向かった。
その様子を見て、七子はその場から離れようとした時だった。
ふと窓の外を見た彼女は、そこに広がる景色を見ると思わず目を奪われた。
そこには、いつの間にか立ち込めた雨雲が広がっていた。
重く垂れ込んだ灰色の空から降り出した大粒の雨が、コンクリートを濡らしていく。
その光景を見ながら、七子は自分の胸元に手を当てていた。
(……なんでこんな、落ち着かないんだろう)
まるでこれから起こることを表しているかのようで、彼女は胸騒ぎを覚えた。
「永井にさっき、ああ言ったけどなんか私も嫌な予感するかも……」
彼女はそう呟き、不安げに空を見上げた。
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───────
自衛隊、演習中に何が?
ヘリ墜落するも、隊員の姿無し。
生存者は、絶望的──。
そう新聞は告げていた。
そしてその記事には写真も載っていたのだが、その惨状は筆舌につくしがたいものだった。
そのヘリコプターは不時着する際に墜落したらしく、機体の残骸が散らばっているのが見えた。
その写真を見て全てを悟った七子は、その場に座り込んでしまった。
それは永井が乗っていた機体だったのだ。
どうして彼が乗っていて、こんなことになっているんだろう。
七子は頭が真っ白になり何も考えられなくなってしまった。
そこにあるのは、突き刺さるような悲しみと砕くことのできない絶望感だけ。
それが、四六時中付き纏って離れることなく頭の中を駆け巡る。
「どうして……」
ようやく口をついて出てきた言葉は、彼が死んでしまったことへの疑問だけだった。その言葉は誰にも聞かれることはなく、虚しく宙へと消えていく。
「私、逃げられないのかな?」
震える声でそう言っても、答えてくれる人誰もはいなかった。
彼女の心は、深い闇に覆われいるようで、今はただ声もなく泣くしかできなかった。
ふと七子が窓の外を見ると、彼女の心の写し鏡のように土砂降りの雨だった。
重く垂れ籠めた雲は晴れることのない悲しさそして、降り止まない雨は涙のようだった。
しかしそんな中でも、愛しい彼は笑っているような気がしていた。
七子は気だるさで重く沈んだ体を動かすと、歩き出した。
外は激しい雨が打ち付け、屋上に出て数十秒も経たないうちに全身がずぶ濡れになってしまった。
彼女は永井のことを思い浮かべながら、そっと目を閉じた。
その瞳から零れた雫は頬を伝い、やがて静かに流れ落ちた。
「待ってて。私も今すぐ、いくから」
彼女はそう言うと、フェンスを乗り越え空へと飛んだ──。
─ 信じないよ、嘘だよね ─
(貴方の傍に近付きたくて、現実と言う嘘から逃げた)
fin.▼▲▼
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