幸福


(※「焦がれてきっと永遠になる」の二人が付き合うまでのお話。不器用なふたりの恋の物語。切→甘。全四話。)

夏の匂いはとっくに消えて、今や蝉の声も聞こえない。

もう夏が終わってしまうんだなと、ぼんやり思った。


いつの間にか吹く風は、もう秋を知らせるように、ただただ涼しいだけだった。

そんな季節の中で俺たちは出会い、惹かれ合ったんだ。

きっとこれから何度でも俺は思い出すだろう。


この季節に、あの日のことを。


そしてその度に、隣にいる君を想うのかもしれない。



四年前の秋、七子が永井のいる部隊へと配属されてきた。

ショートカットの黒髪が似合う鳶色のアーモンドアイをした可愛らしい女の子で、こんな男所帯の職場には似つかわしくない華々しい雰囲気を持った子だった。

永井と同じ小隊に入ってきた彼女は元々人懐っこい性格だったからだろうか、他の隊員たちにもすぐに馴染んでいった。

誰に対しても明るく笑顔を絶やさない彼女を見ているうちに、気付けば目を奪われるようになっていた。


そして彼女の先輩として教育係を任された時は正直面倒臭いと思っていたけれど、一緒に仕事をしてみるととても真面目で一生懸命な子だということが分かった。

それに仕事に対して真剣に取り組む姿勢や、周りをよく見てフォローする姿だとか、ありきたりではあるがそういうところに惹かれていった。

月日を重ねるにつれて、いつしか彼にとって七子は、かけがえのない存在になっていた。



そしてそんな思いを抱えながら過ごしていた、春の日のことだった。

「やべぇ、明日提出の書類忘れてた!」

永井は勤務隊舎の階段を駆け上がりながら、自身の小隊の事務所へと向かっていた。


明日の朝までに仕上げなければならない報告書があったのだが、つい先程まで営内でゆっくりしていたこともありすっかり失念していた。

あの書類めんどくさいんだよなあ……と思いつつ小走りで廊下を走り、当直室へ鍵を借りに行った。


「失礼しまーす、事務所の鍵借ります」


「おう、永井か。お前んとこの鍵、さっき名無が持ってったぞ」


当直についている中隊の先輩が、当直室のテレビを見ながらそう言った。


「え、本当っすか?」


どうやら七子は事務室に行っているらしく、用事が終われば帰るということだ。


「ああ。だから、まだ開いてるだろ」


「あざす、見てきます」


七子の名前が出たことに一瞬ドキッとしたが、何か忘れ物を取りに来ただけだろうと自分に言い聞かせた。

そして小隊事務所の扉を開けると、そこには確かに何か作業をしている七子がいた。

「おす、お疲れ」

永井が声をかけるとこちらに気付いたのか振り返って顔を上げた彼女と目が合い、その瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。


「永井士長、お疲れ様です」


そう言って微笑む彼女を見て、さらに鼓動が激しくなる。
いつものように挨拶を交わしたものの、内心では動揺を隠すことで必死だった。

(落ち着け、俺……!)

今まで感じたことの無いような感覚に戸惑いつつも、平静を装いながら口を開いた。


「もしかして今日の当番、七子だったのか?」


「あ、はい。そうです!」


よく見るとデスクの上にあるトレーの中にはシュレッダーにかける紙の束がいくつもあり、彼女がそれを処理してくれていたことが分かる。


「俺も手伝うよ」


「いえ、そんな……! もうちょっとで終わりますし!」


「終わったらごみ捨てもあるんだろ?」


永井が足元のごみ袋を指差しながら言うと、七子は少し申し訳なさそうな顔をして迷っていたようだったが、やがて諦めたように笑みを浮かべると小さく頭を下げてきた。


「ありがとうございます!」


七子のこういうところが本当に律儀というか素直な性格だよなと感心しつつ、彼女の隣に立つと作業を始めた。


「よっしゃ、七子のために頑張ろうかな!」


「……ふふっ、おー!」


先程までとは打って変わって楽しげな雰囲気になった七子の言葉に思わず吹き出しそうになるのを抑えつつ、永井も気合を入れ直すために自分の頬を叩きながら返事をした。

それからしばらくの間、談笑を交えながらも作業を進めていた二人だが、ふとした時に七子がぽつりと言った。


「永井士長といると、やっぱり楽しいですね」


その言葉を聞いた途端、また心臓が強く脈打った気がした。

それはまるで身体中を巡る血の流れが変わったかのような衝撃であり、同時に言い知れぬ高揚感を覚えるものだった。


「はあ? んだよ、突然……。熱でもあんじゃねえの?」


突然湧き上がってきた正体不明の気持ちの正体を探るべく思考を巡らせているうちに、いつの間にか七子の瞳が自分の顔を捉えていた。

彼女の長いまつ毛に縁取られた大きな瞳と目が合った途端に視線を外すことができなくなり、そのままじっと見つめていると彼女はどこか恥ずかしげにはにかんできた。


「なーんて」


そう言って照れ笑いをする彼女を前にすると、胸の奥から熱いものが込み上げてくるようでどうしようもなかった。

それを誤魔化すように頭を掻きながら永井は慌てて目を逸らし、一呼吸置いて冷静さを取り戻すと、改めて彼女に向き直る。


「……ったく、あんまり先輩をおちょくるなよ?」


しかしこんな風に七子と一緒にいる時間が、少しでも長く続くことが嬉しかった。

こうして二人で話しているだけで幸せな気分になれるのだから不思議だと思った。

もっと一緒にいたいなと思う反面、これ以上踏み込む勇気もない自分がいることにもどかしくなる。


「えへへ、ごめんなさい」


「まあでも、お前のそういうところ俺は好きだけどな」


冗談めかすようにして言ったつもりだったが、いざ口に出してみれば予想以上に大胆なことを言ってしまったことに気付いてしまった。

ちらりと横目で七子を見ると、少し驚いた表情をしていたもののすぐに笑顔になってこちらを見返してきた。


「ありがとうございますっ」


「いや、褒めてねえからな!」


心做しか弾んでいるような声で礼を言う七子に対し、永井はすかさずツッコミを入れた。


七子が自分に好意を寄せていることは薄々勘付いているのだが、それを直接確認するのも躊躇われ、結局何も言えないままでいる。

ただ、七子が自分に対して好意的な態度を取ってくれることは純粋に嬉しいと感じており、それが恋心なのかそうでないのかは分からないが、少なくとも嫌われてはいないということだけは確信していた。

(……って、何考えてんだ俺)

不意に我に帰った永井は、今の今まで考えていたことを振り払うかのように軽く首を振った。


そして再び目の前にある書類の束へと意識を集中させると、二人は作業を再開した。



しばらく作業を続けながら沈黙が続いた後、先に口を開いたのは七子の方だった。


「あの……永井士長って、彼女いるんですか?」


「えっ! お、俺っ!?」


突然の質問に驚き、思わず聞き返す。
まさか彼女の口からこんな話題が出てくるとは思っていなかった。

だが考えてみれば年頃の女性なのだし、そういう話に興味があってもおかしくはないと思う一方で、なんとも言えない複雑な気持ちになった。


そして何より、一番聞かれたくないことを訊ねられた気がした。

だからといってここで見栄を張って嘘をつくわけにもいかず、正直に答えるしかなかった。


「い、いや……今は居ないけど」


今は、という言葉を強調してしまったのは無意識だった。

そしてそれを聞いた七子は、どこか安心した表情を見せたように見えたが、もしかすると彼の気のせいかもしれない。


「そうなんですね」


「え……な、何で?」


なぜ自分なんかに恋人がいるかどうかなんてことを聞いてきたのだろうと永井にはそれが疑問でならなかった。

そしてそんな彼の心中を察したかのように、七子が口を開く。


「……恋をしてる男の人の気持ちが知りたいなあ、と思って」


その言葉を聞いた瞬間、永井は思わず息を呑んだ。

七子は今、どんな想いでこの台詞を言っているのだろうか。

もしかしたら何か別の意図があるのではないのかと勘繰ってしまうほどに、七子の言動一つ一つに振り回されている気がしていた。


「……と言うと?」


平静を保ちつつも、内心では動揺を隠すことで精一杯だった。

そんな彼に対して七子は少しだけ間を置いてから、ゆっくりと語り出した。


「……実はこの間、告白されたんです」


その瞬間、永井は自分の心臓がドクンと大きく脈打ったのを感じた。
先程までとは違う嫌な汗が流れ、息苦しさを感じるほど呼吸が浅くなっていた。

彼は動揺していることが悟られないように、努めて冷静な口調で言葉を返した。


「……マジで?」


それはまるで、自分の中の感情を押し殺すかのような声色だった。

七子はその問い掛けに対し、小さく首を縦に振った。

その仕草を見た途端、永井の中で様々な思いが駆け巡る。


本当は、今すぐにでもこの場を離れたかった。

これ以上この話を聞いていたら、きっと自分は自分でいられなくなると思ったからだ。

けれど、目の前にいる彼女にそれを気付かれることは避けたかった。


しかしその相手は誰なのか、いつどこで出会った奴なのか、そもそもどうして好きになったのかという疑問が次々と浮かび上がってしまい、つい七子の話を聞いていた。


七子によれば、駐屯地の行事支援で同じセクションだった三つ上の先輩に声を掛けられたらしい。

そして何回か二人で遊びに行くうちに、好意を持たれるようになったのだという。


永井は自身の心の傷に触れられているようで、胸の奥に痛みを感じていたがそれに気付かない振りをして、いつも通りの笑顔を貼り付けて返事をした。


「良かったじゃん」


そして、本心を隠したまま会話を続けた。

彼女とは先輩と後輩という仕事だけの関係であり、同じ部隊の仲間でもある。
それ以上でもそれ以下でもなかった。

そう自分に言い聞かせながら、平静を保ったままの振りをして言葉を続ける。


「……それで、その人と付き合うの?」


けれど心の奥底では、自分が知らないところで彼女が誰かのものになってしまうという事実が、どうしようもなく許せなかった。

永井にとってこの想いは、決して報われることのないものだった。

それでもいつか、その恋心が自分の中で消化される日が来るまでは、このままの関係でいいと思っていた。


しかし七子は、どこか遠くを見つめるような目をしながら呟いた。


「うーん……迷ってます」


「どうして?」


少し困ったような顔をする七子に対し、永井は不思議そうに首を傾げた。

すると七子は、はにかみながら答えた。


「気になってる人、いるんですもん」


永井の目を真っ直ぐに見つめ返しながら、彼女ははっきりとした声で言った。

その時初めて彼女の瞳には、隠しきれない程の熱情が込められていることに気付いた。

その瞳はまるで、彼に何かを訴えかけているようにも見えた。


今まで見たことがないくらい真剣な表情をしている彼女を前にして、永井の心が大きく揺らいだ。

自分のことを見てくれているのではないか、そんな期待を抱いてしまう程の強い眼差しだったのだ。

(俺のこと……いや、そんな)

その視線から目が離せなくなりそうになった時、ふっと我に返ると、本心を隠したまま口を開いた。


「そっちの人は、脈ありそうなん?」


だからだろうか。

思わず余計なことを聞いてしまったことに後悔したのは一瞬のことだった。


「どうなんでしょうね……分からない、かもしれないです」


「そっか……。あんまり下手なこと言えないけど、付き合ってみるのもアリなんじゃね?」


正直に言うと、自分以外の男に好きだと言われた彼女に対して少なからず嫉妬していた。

けれどそれは表に出さずに、あくまで仕事上の付き合いとして話を進めることにした。


自分の気持ちを隠すために嘘をつくなんて、普段の彼ならば絶対にしないことだ。

けれど、今はそれが最善の選択であるように思えたのだ。


「それでもその気になってる人のことが忘れられなかったら、自然とそっちとくっついてるって」


そう言って笑う永井の表情は、どこか寂しげで切なげだった。

そして七子は、少しだけ考える素振りを見せると、小さく笑みを浮かべた。


「ですね……」


そんな七子を見て、永井の心がズキリと痛む。

永井にとっては、とても辛い選択だったが彼女の幸せを願わずにはいられなかったし、そんな彼女の気持ちを応援したいとも思った。

なぜなら、七子のことが誰よりも大好きだから。

自分の本当の気持ちを伝えることで、彼女の邪魔をしたくない。

彼女の前では、良き先輩として振舞っていたかった。


「いいなあ、俺も彼女ほしいわ!」


冗談っぽく笑い飛ばすと、永井はシュレッダーをかけるのを再開した。

今はただ、彼女の隣に居られる時間を大切にしようと思いながら。



そして七子が例の彼と付き合ったのは、それから数日後のことだった。

その相手は幸いにも同じ部隊の隊員ではなく、他部隊の男性だという。


その事実を知った時、永井は安堵したと同時に、自分ではない男に彼女が取られてしまったことに少なからずショックを受けていた。

だが、これで良かったのだと思うことにした。


自分の気持ちを伝えたところで、彼女を困らせるだけだし、何より自分のためにもならない。

それに、七子が幸せならそれで良い。


そう自分に言い聞かせていた。


しかしそんな永井の決意とは裏腹に、彼の想いは次第に募っていくばかりだった。



そしてある日、とうとう抑えきれなくなった永井の想いが爆発することになる。


そのきっかけは、ある些細な出来事からだった。



To be continued...




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