(※前話「幸福」からお話が続いていますので、そちらからお読みください。)

あれから早いもので数ヶ月が経ったものの、永井の心の中には未だ靄がかかったままだった。


好きな人がいると言った時の永井を見つめる七子の真っ直ぐな瞳が頭から消えない。

まるで何かを伝えようと訴えかけるような、あの視線が。

けれど、彼女は何も言わなかった。


今思えば、きっとそれは自分と同じだったように思える。

お互いがお互いを想っていると分かっていた。

しかし永井は、それを口に出すことはできなかった。

ましてや自分に傾いていた気持ちに気づかず、まるで拒否するような形をとってしまった。

そんな自分が情けなかった。


あの時は格好よく七子の幸せのためだと言い聞かせていたはずなのに、こんなにも激しく後悔しているのは、ただ臆病な選択しかできなかった結果なのだ。

もしこの関係が崩れてしまったらと思うと怖くて仕方がなかった。

それを壊してしまうくらいなら、このままでもいいと思っていた。




「はあ……」

本日、何度目かになるため息をつく。

そして屋上から見える長閑な風景を眺めながら、また一つ大きな溜息が漏れた。

(マジで、アホだったなあ俺……)

屋上の手すりにもたれながらそんなことを考えて自嘲気味になるも、すぐに自己嫌悪に陥る。


すると一陣の涼やかな風が吹き込み、髪が揺れた。

その風に身を任せるように目を閉じれば、ふわりとした心地よい感覚に包まれる。


「どうしたんだよ、永井。ため息なんかついちゃってさあ」


後ろから声をかけられ振り返ると、そこには小隊の先輩である沖田の姿があった。


「沖田さん……お疲れ様です」


そう言って軽く会釈をする。
彼はいつものようにヘラっと笑った後、隣に来て手すりに身を預けた。


「ここ、いい?」


「あ、はい。いいっすよ」


そのまましばらく二人でぼんやりとしていると、不意に沖田の方から口を開いた。

先程までとは打って変わって真剣な表情をしている彼に、少しだけ違和感を覚える。


「どうしたの? なんか、悩んでんの?」


「……」


沖田の言葉に沈黙を貫く永井だったが、彼の目を見て観念するかのように小さく呟く。


「そう、ですね……」


しかしそれでもまだ躊躇う様子を見せる彼に対し、沖田は言葉を続けた。


「お前が元気ないと、調子狂うんだよなあ」


そう言って笑顔を見せる沖田の口調には、どこか心配の色が見え隠れしていた。
だからなのか、永井は自然とその問いに対する答えを口にすることができた。


「僕、好きな人居たんすけど……まあ多分、両想いだったんすよ」


「うん」


「僕がそれに気付かなかったから、その子……別の人と付き合っちゃって」


「なるほどな……」


「きっと引き止めてほしかったんだと思います……あの、寂しそうな顔を思い出す限りだと」


そこまで話すと、永井は再び口を閉ざしてしまった。

それを察してか、沖田は何も言わずに静かに耳を傾けていた。

それからしばらくの間、二人は黙り込んでいた。


時折吹き抜けていく風の音だけが聞こえる中、先に静けさを切り裂いたのは沖田だった。

彼はゆっくりと口を開くと、穏やかな声でこう言った。


「後悔してんだな、お前は。そんで、その子のこと今も大好きなんだろ?」


その一言を聞いた瞬間、永井は自分の胸の内を言い当てられたような気がした。

ハッとして思わず沖田の顔を見ると、彼は優しい眼差しでこちらを見つめている。


まるで全てを包み込むかのような温かな視線を受けて、無意識のうちに涙が出そうになる。


「その子のことフォローしてやれよ。相手が居るんだったら、そんくらいしかできないからなあ」

「……」


何も言わない永井に対して沖田はさらに続ける。


「俺もあったな、そんなこと」


「そうなんすか?」


「ああ。つーか、気持ちなんか言わんと分からんからな」

そこで言葉を区切ると、今度は遠くを見ながら話し始めた。

その姿は懐かしむようでいて、それでいて切なげでもあった。
沖田は空を仰ぎ見ながら独り言のように呟き始める。


「そん時付き合ってた子と結婚も考えてたけど、色々あって言えずじまいでさ……そのまま立ち消えちまったよ」


「……」


永井は、ただじっと沖田の横顔を見ていた。

今、彼がどんなことを思っているのか知りたかったが、その表情には永井には計り知れないほどの複雑な感情が漂っていた。


「……沖田さんも、後悔してるんですか?」


恐るおそる永井が尋ねると、沖田は小さく笑って答える。
それはとても穏やかで、けれど何処か悲しげだった。

そして、はっきりと口に出した。


「ああ……。もう、元には戻れないんだよ」


その返事を聞いて、永井は確信した。

(この人もきっと……)

同じだ。
過去に自分と同じ気持ちを抱いていたに違いないと。

だからこそ、沖田の表情がこんなにも物憂げに見えるのだと思った。


「てか、俺の話はどうでもいいんだよ……!」


「うわっ」


沖田は永井の頭を雑に撫で回すと、ニッと歯を見せて笑う。

それは普段通りの明るい沖田の姿だった。

先程までの暗い雰囲気を払拭させるように明るく振る舞う沖田を見て、永井もつられて笑った。


きっと今の話をするつもりはなかったのだろう。

ただ、自分が落ち込んでいるように見えたから励ましてくれただけだと分かった。

だがそれを聞いて、心が軽くなったことも事実だ。


「その子のこと好きでいれば、案外自然と付き合ってんじゃねえの?」


「……!」


それは永井が七子に言った言葉だった。

まさか自分が言われる側になるとは思わなかったが、沖田なりの優しさなのだと感じていた。

そして永井は、自分の心に正直になろうと思っていた。


「まあ……俺で良ければ、いつでも話聞くから。気ぃ張りすぎんなよ」


「はいっ! ありがとうございます」


すると沖田は手をヒラヒラと振って、その場を後にした。


彼の言葉を思い返しながら永井は思う。

(後悔しない生き方なんてあるわけねえもんな……だったら、せめてポジティブになんねえと)

これからどうするかはまだ分からないが、とにかく今は前を向いていこうと思った。


七子のことを考えるとまた胸は苦しくなるかもしれない。

けれど、それでもいい。

この恋心を大事にしていきたい。


そう思いながら、彼は足早に階段を下っていった。





そしてその夜、永井は共有スペースにある自動販売機へと飲み物を買いに来ていた。


「夜になるとやっぱ、さみぃな」


昼間は暖かい日差しに包まれているが、日が落ちると気温は一気に下がっていた。

その寒さに体を震わせて永井はポケットに手を入れて歩き出し、自販機の明かりを頼りにしながら小銭を入れていると、ふいに後ろから声をかけられた。


「永井士長?」


振り返ればそこには七子が立っており、彼女は永井の姿を目にするや否や少しだけ表情を和らげる。

「……ああ、お疲れ。七子も何か買いに来たのか?」

そう尋ねながら永井は自販機へ視線を向けて飲み物のラインナップを確認していく。

「はい。喉乾いちゃって」


「……何飲む? 奢るよ」


「本当ですか! じゃあ……ミルクティーで」


永井はボタンを押して缶を取り出すと、彼女に渡した。

それから永井は自分の分のコーヒーを買うと、二人で並んでベンチに座って飲み始める。


「ありがとうございます、いただきます」


「おう……」


二人はしばらく無言のまま、ちびりちびりと飲んでいる。

とても静かな夜だった。
聞こえてくるのは虫の鳴き声と、時折吹く風の音だけだった。


永井は缶の半分ほど飲み物を飲んだところで、意を決するようにして口を開いた。


「……上手くいってる? その、彼氏とは」


「うーん……どうかなあ」


永井の言葉を受けて、七子は困ったように笑みを浮かべた。

それから、ぽつりぽつりと話し出す。


「なんか最近、あんまり話せてなくて」


「うん」


「でも私が悪いんです……私もイライラしちゃってて」


永井は黙ったまま彼女の話に耳を傾けていた。
しかしその声色はどこか寂しげで、永井は思わず彼女の横顔を見る。


「喧嘩したのか?」


「まあ、そんなところです」


その表情からは、彼女の悔いている様子が見て取れた。
永井は何か声を掛けようか迷ったが、気の利いた言葉は何も言えなかった。


そして再び沈黙が訪れる。

しばらくして、七子が口を開く。


「合わないのかな……?」


それは独り言のような小さな声で、聞き逃してしまいそうなほど弱々しいものだった。

永井は俯いている彼女を見て、胸が締め付けられるような感覚を覚える。

だが次の瞬間、七子はパッと笑顔を作ってみせる。


「すみません! こんなこと……」


まるで泣きそうになった自分を誤魔化そうとするかのように、無理をしていることは明白だった。

そして再び顔を伏せてしまう。

永井はそんな彼女を見ているうちに、居ても立ってもいられなくなった。


しかし彼は七子の頭に触れようとしていた手のひらを握りしめ、そのまま自分の膝の上に置いた。

ここで触れたら、きっと止まらなくなる。

そんな彼の葛藤の末の行動だった。


永井は七子のことを見つめていた。

その瞳には、彼女が愛おしくて仕方がないという思いが込められている。

そして、ゆっくりと息を吐き出すと静かに語り始めた。


「……こんなことじゃないよ。七子にとっては、大事なことだろ?」


それは普段の永井とは打って変わって落ち着いた口調だった。

彼は真っ直ぐ前を見据えたまま、言葉を続ける。


「やっぱり、ちゃんと話し合った方がいいんじゃないか? お互い誤解したまま合わないって決めても、納得いかないだろ?」


その姿は、七子の目にはとても大人びて映っていた。

彼女が黙ったままでいると、永井は小さく息を吐いたあとに再び口を開いた。


「……それに、お前には後悔とかしてほしくないしな」


その表情からは、いつものような軽薄さは見られない。

いつもは子供っぽいところがある人なのに、こういう時は年上なんだと実感させられた。


すると七子はハッとした様子で、永井の顔を見た。
そして彼に、こくりとうなずいて見せる。

永井は安心させるように微笑むと、優しい声音で言う。


「それでも駄目なら俺に言ってよ。話、聞くよ」


「永井士長……」


そう言って、永井はニッと歯を見せて笑う。

「飲んだら行こうぜ、さすがに冷えるだろ?」


「ですね」

二人は立ち上がると、それぞれ飲み物を飲み干してゴミ箱に空き缶を捨てると、それぞれの自室へと戻っていった。




そして永井が部屋に戻ると、ベッドの上のスマホに一通の新着メッセージが届いていた。

差出人は、先程まで一緒にいた七子からだった。


『永井しちょー! さっきは、ありがとうございました。話し合ってみる勇気が出ました! では、おやすみなさい』


可愛らしいスタンプつきの文面を読み終えた後、永井は小さく笑みを浮かべると返信を打ち込んでいく。

送信ボタンを押す前に、永井はもう一度画面を確認する。


そこにはこう書かれていた。



『そうか、それは良かった。応援してるから、頑張れよ! おやすみ、七子。また明日な!』



To be continued...




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