序幕


「宮田先生ー、午後からの患者さんの受け入れの準備整いました!」



「ああ、分かった……」


真っ白なナース服に身を包んだ看護師から宮田と呼ばれた痩身の二十代後半と見える男がぽつりと一言応えた。

精悍な顔つきではあるが気だるそうな、それでいて小綺麗な身なりからは妙妙たる雰囲気が拭えない彼は、若くして宮田医院の院長として日々の業務をこなしている。


そして春の朝特有の緩やかな温かさに似合わず、羽生蛇村にある唯一の医院では朝から慌ただしく、看護師たちが動き回っていた。



全く……。


鳥の鳴き声が聞こえてくる爽やかな朝だと言うのに、景色をいつもの如くゆっくりと眺めている暇さえも与えてもらえないようだ。




「……これが、本来の医者と言う仕事の忙しさなのかもな。まあ、大きな病院には敵わないだろうが」



宮田は病室が並ぶ廊下にふと立ち止まり、柔らかな陽光の降り注ぐ窓を見ながらそう呟く。


「ちょっと、先生! ぼーっとしてないで早く回診に行きましょうよ」



パタパタとナースシューズを鳴らしながら、数少ない医院の看護師が一階から二階へと続く階段を足早に上がって行った。



「ん? ああ、すまないな」



その軽快さに急かされるように、彼もそれに習って続くように白衣を翻し二階へと急いだ。



「春だから呆けてましたー、ってのは通用しないんですからね!」



(全くもって図星だな。)


彼女の元へと追いつくと、肩を竦めてやれやれと言った表情と仕草でチクリと痛いところを突かれた。



準備が整えば次は医院に入院している僅かな患者の回診が待っていると言うのに、ついつい惚けてしまっていたみたいだ。



「春眠暁を覚えず」とはよく言ったもので、春の夜の眠りが心地よくて夜明けが来たのにも気づかずずっと寝てしまうということらしいのだが、確かに季節の変わり目は身体を順応させようと自律神経がストレスを感じぼーっとしまうことがある……が。


医者の本分としてつらつらと御託を並べてしまったが、そうなるのは致し方ないということにしておこう。



しかし、それで事故を起こしてしまっては元も子もないのである。


宮田はこれからは十分に、気を付けるようにしようと心に決めた。



回診も全て終わり、二階にある院長室で革張りの椅子に座り一息つく。


年季の入った、所々革の剥げている椅子からばふっと音を立てて空気が抜ける。



患者の受け入れが無事に終わり、緊急の往診が無ければ、手付かずの残務を処理しつつ、来週の半ばにある折部分校での健康診断の準備を看護師に指示して……。


デスクを人差し指でトントンと鳴らして、やらねばならないことが頭の中を巡っていき、タスクリストへとみるみるうちに追加されていく。

手元に置いてある黒い合皮で覆われている手帳の真っ白なページが、宮田の手によって文字に埋め尽くされていった。



ふと視線を移すと、隣合った簡素なサイドデスクの上に一纏めにされたカルテが茶封筒から顔を覗かせている。



一旦動かしていた筆を止めて、そちらへと手を伸ばした。


昼から受け入れの患者のものだ。



「ふぅ……」



今日受け入れ予定の患者は確か、記憶喪失。

部分的な欠けがあり、そのストレスによる数々の体調不良が挙げられている。

それらの大事をとっての入院とのことである。



預けるだけ預けて、そそくさと帰っていったのは患者の叔母夫婦。



無責任と言いたいのだが、所詮は他人の家の問題。



医者と言えど口だしできるような簡単なものではないし、どのような事情があるにせよ目の前のできることをこなしていくだけだ。

まあ複雑怪奇な人間の感情は、居場所が分からぬように懐の中にでも腹の中にでも閉まっておく方が結構である。



溜め息を一つ吐き、コーヒーメーカーからカップへコーヒーを注いだ。

真っ白な陶器へ口をつけると落ち着いた苦味が広がり、すぅ……と鼻腔の中へ香りの残滓だけがその場に留まっている。




所在なさげにカップから上がり消えていく柔らかな白い湯気を、宮田はぼんやりと見つめていた。



(あとは、待つのみか……)



しかしその目線は、湯気の上る遥か向こうを見ているようだった。



白く霞む窓の外を覗くと朝方の低かった太陽の位置から三十度と少し高さを変えて、幾分か上がりきった陽光に照らされて木漏れ日がゆらゆらと揺れていた。


昼を迎えるまではもうすぐといった頃合いだった。





そうして昼が少し下がった頃に、コンコンと院長室の扉がノックされたと思うと、看護師の声が彼を呼び、それに応える。


「宮田先生、患者さんがお見えですので病室までお越し下さい」


「ああ、今行く……少し待ってくれ」


呼び止められた宮田はひとまず手を止め、デスクに乱雑に広げられていた書類を簡単に纏めて端の方へと重ねた。


そういえばそうだった、とサイドデスクに置いてあるカルテを拾いクリアファイルの中にしまった。



そして凝ってしまった首と肩を軽く回し、「よいしょ」と喉まで出かかった一言を呑み込み椅子から腰を上げた。


いつぞやまでは動作のいちいちにそのような言葉が出てくるなんてと思っていた宮田だが、多忙な毎日の中での運動不足に加え、なかなか疲れが取れないような……と着実に歳を重ねている証拠である。


などと医者の不摂生を少し気にし終わった所で、ポールハンガーに無造作に掛けてある白衣をはためかせながら袖を通し、襟を整えた。



先程のクリアファイルを看護師へと渡して、頼むよと一言付け加えた。


「患者は?」



「もう病室に居ます」



「そうか」



事務的なやり取りをしつつ、病室へと繋がるリノリウムの廊下の上を革靴の乾いた音が響き渡る。


そうこうしている内に患者の待つ部屋の前へと到着し、三回ほどノックをし扉を引いた。



ふと、横目に入ったネームプレートの名前。



「名無七子……」



宮田はふと眉を潜めた。


違和感。


(どこかで聞いたような?)


しかしそれはとても曖昧で、確かな証拠もない記憶だった。


(まあ、いい……)


違和感を拭い去り病室の中へと入り、コツコツと踵を鳴らしネームプレートに書いてあった名前の人物が待つ窓際のベッドへと足を運んだ。


真っ白い殺風景な病室の中のベッドの上に上体を起こして座っていたのは、少女と大人の女性の狭間に居るような初々しさがまだ残っているようだ。


開け放たれた窓から初春の昼下がりの景色を眺めていた。


その瞬間、ふわりと緑の香りを乗せた風が純白のレースのカーテンを押し上げ、彼女の柔らかな髪をふわりと揺らし透き通った肌が覗ける。


「名無さん、初めまして」


そう一声掛けると頭をくるりと宮田の方へ顔を向け間を開けて、こくんと頷き喋りだした。


「初めまして、先生」


鈴のように澄みきった甘い声をした可憐な女性だった。


「名無さん、この医院の院長の宮田です。ご覧の通り小さな病院だ。周りも静かで何も無いが、君のような病状の方には適したところだと思う。ゆっくりするといい」


宮田は事務的にそして簡単に、この医院の回診時間や食事の場所を口頭で説明し、白衣の内にある懐から三つ折りの紙を取り出すと、確認しておくと良いと一言添えて七子に渡した。


「ありがとうございます」


「じゃあ、軽く施設の説明を看護師の恩田からして貰う。分からないことがあれば彼女に言うといい。その後、君の病状を説明したいから診察室まで来てくれ」


耐えなく笑みを浮かべる美奈と七子を見据えて、いつも通りの声音で宮田はそう言った。


「後は頼んだ。院長室で作業しているから終わり次第呼んでくれ」


「はい、分かりました。それじゃあ、七子さん、早速―」


彼はそう告げ彼女からの返事を聞くや否や、話を続ける美奈と七子からするりと踵を返し、病室から院長室へと向かった。


「うふふ……宮田先生ってね、あんな無愛想なんだけど意外と優しいところもあるのよ」


「そう、なんですね」


「だから、あまり怖がらなくてもいいのよ。ふふっ」


美奈はいつも入院して来る患者に毎度のように宮田のフォローをしているようで、それは今回も同様であったらしい。


「じゃあ、行きましょうか?」


柔らかな笑顔を浮かべ、美奈は七子にそう言った。






「じゃあ、これで院内の説明は終わりますね。なにか質問はあるかしら?」


「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」


「七子さん、歩き回ったけど具合は大丈夫?」


看護師の問いかけに対して、七子と呼ばれた患者の少女は笑顔で応えた。


「はい、今のところはそんなに悪くないです」


「良かった。次は先生が言ってた通り、診察室に向かいましょうか」


「お願いします」


そして七子を連れて、恩田は診察室へ向けて廊下を歩き出した。
その途中でふと、彼女の足取りが重くなっている事に気付く。


「ゆっくり行きましょうね」


七子の様子を窺いながらも、恩田は彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。

やがて二人は診察室の前まで辿り着くと扉を開ける前に一度立ち止まり、七子の顔色を確認する。

彼女は少しだけ緊張した面持ちをしていたものの、表情自体は穏やかだった。

そして恩田が扉を開くと、室内には白衣を着た先ほど紹介を受けた宮田が座っていた。


「どうぞ」


宮田はいつもと変わらないトーンでそう言うと、椅子から立ち上がり七子を招き入れ椅子に座らせる。


「失礼します」


一方、七子の方も普段通りの穏やかな口調で言う。
しかしその声音からは僅かに不安そうな様子が感じ取れた。

彼女が着席すると、すぐに宮田は口を開いた。


それはまるで、これから話す内容について予め決めていたかのような迷いのない言葉であった。

彼はまず最初にこう切り出す。


「あなたの名前を教えて下さい」


その問い掛けに対し、七子はすぐに答えられなかったのか一瞬の間があった。


「えっと……名無七子です」


「年齢はおいくつですか?」


「今は、二十二歳です」


「なるほど……」


宮田はその返答を聞きながら、手元にあるカルテに目を通す。

そこには名前や年齢の他に身長や体重といった身体的特徴なども記されていた。

また、それらの項目の隣にはそれぞれカルテ番号と呼ばれるものが書かれていた。
この病院では患者一人ひとりの情報は全て電子化されているため、カルテは紙媒体ではなく全てデータとして管理されているのだ。


「では……あなたは叔母様の家に預けられていたようですが、なぜそうなったのですか?」


彼の視線は七子の目を捉えており、決して逸らすことはない。

それはまるで、相手の心の奥底まで見透かすような鋭い眼差しである。


しかし、当の本人はそのような視線に晒されても特に動揺する様子はなかった。


「…………?」


むしろ、不思議そうに首を傾げているようにすら見える。


それも当然だろう。
なぜなら彼女にとってみれば、自分が何故ここにいるのかなど分かるはずもないからだ。

そもそも彼女は、事件に遭う前後の記憶を失っていたからである。
そのため、自分の生い立ちについてもあまり覚えていなかったのだった。

そのため、今の彼女には自分の過去に関する質問に対して答える術がなかった。


「……やはり、部分健忘ですね」


宮田は眉間にしわを寄せると、小さく呟いた。そして改めて目の前にいる女性を見据える。

七子は戸惑いの色を浮かべたままでこちらを見ていた。

その姿はまるで迷子の子どものように頼りなく、今にも消えてしまいそうだと思った。
そんな彼女を見ていると、胸の中にじわりと罪悪感のようなものが広がる。

だが、だからと言ってここで引き下がるわけにはいかない。


宮田は気持ちを引き締めるように軽く息をつくと再び話し始めた。

今度はもう少し踏み込んだ内容の話をするためにだ。
彼は七子の様子を注意深く観察しながら尋ねる。


「ところで、あなたのご両親はどんな方でしたか? 例えば職業ですとか、思い出ですとか」


「両親のことについては、何も思い出せません」


少しでも彼女の心を揺さぶるような言葉を選べば、何かしらの反応があるはずだ。
それこそが彼女の失われた記憶を呼び覚ますきっかけになるかもしれないという期待を込めて。


そこで彼は、彼女の心の奥深くに入り込むために敢えてストレートな言い方をした。


「つまり、両親の顔さえも分からないということでしょうか?」


七子は困り果てた顔をして俯くと、しばらく黙り込んでしまった。
その様子を見て、宮田は内心焦りを覚える。


(これは……思っていた以上に厄介かもしれないな)


今まで診てきた患者の中で、ここまで記憶喪失の状態が続いているケースは珍しい。

しかも、彼女の場合は記憶を失う前の自分に関する情報が全く無い状態なのだ。
そのせいか、彼女は自分自身についての記憶が無いにも関わらず妙に落ち着いて見えた。

おそらく、それが彼女の混乱を抑え込んでいる要因の一つになっていると思われる。


「そうですか、分かりました」


宮田は短くそれだけ言うと、次の話題に移ることにした。

あまり時間を掛けすぎると、患者の不安を増大させてしまう恐れがある。
それに宮田としてもこれ以上、彼女の記憶を掘り起こすことは限界だった。

宮田は一度大きく深呼吸すると、気を取り直したかのように話し出す。


「今日はとりあえず病室に戻っていただいて、ゆっくりしていてください」


そしてそう言うと椅子から立ち上がり、七子を部屋から送り出した。

すると診察室の扉が閉まる寸前に彼女は宮田の方へ振り返り、ぺこりと頭を下げる。

それからゆっくりと顔を上げると、宮田に向かって微笑んだ。


「ありがとうございました」


それはまるで花のような可憐さと美しさを兼ね備えていた。


宮田は一人になった診察室で、ため息を吐きながら椅子に座り直す。

先ほどまで彼女が座っていた場所を見ながら、彼は思った。

この病院では、様々な事情を抱えた人々がやって来る。

しかし、その中で彼女ほど特殊な事例はない。
なぜなら彼女は、事故に遭った際に脳の一部に損傷を負い、記憶を失った状態でここにやって来たからだ。

さらに、彼女の場合、身体的な障害を抱えているわけではない。
そのため、日常生活を送る上で不自由するようなことはなかった。

ただ一つだけ問題があるとすれば、それは彼女自身が自分のことをほとんど覚えていないという点だろう。


だからこそ、宮田は彼女に寄り添う必要があった。

もちろん、医師として患者に接するのは当然のことである。

だが、それ以上に彼の個人的な感情がそこにはあった。


どこかで聞いたことのある彼女の名前。

懐かしいとさえ思ってしまうほどに、それは自分の中に染み付いていたようだ。

しかしその名前を思い出すことはできないまま、宮田は頭を振ると気持ちを切り替えることにした。




To be continued…





栞を挟む栞リスト

- 3 -
← prev back next →