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七子が羽生蛇村に来たついこの間までは、春先の寒さの残る冷たい風が吹いていたと言うのに、この季節独特の温かい空気の中には、すでに木の芽や桜の花弁の香りが交じり彷徨っている。

そして春深く霞んだ村の景色は、菜の花色や若苗色の絨毯に朧に彩られていた。


そんな中、七子が医院に来てから三週間が過ぎようとしていた。


ここに来てからと言うもの、専ら暇を持て余しており読書に耽る日々が続いていた。

小説から新書、技術書からレシピ本までありとあらゆるジャンルに手を伸ばし、正に本の虫とでも呼ばれるかのような読みっぷりであった。


そんなある日、七子の病室には回診の時間ではないにも関わらず宮田が来ていた。

七子はこの病室に足繁く通ってくれる彼に対して、笑顔で迎え入れていた。


同時に七子は、ひとつ疑問に思っていることもあった。
どうして彼は、自分なんかを気にかけてくれるのか?

それがずっと引っかかっていたのだ。

しかし、そんなことを聞くわけにもいかず、ただ黙って彼の話を聞いているしかなかった。

しかし看護師に聞いたところ、患者とのコミュニケーションは医者として当たり前だと彼は話していたらしい。

そう言われてしまうと、何も言い返すことができないなと思いながら、その日もいつものように他愛のない会話をしていた。


「名無さん、おはようございます。具合の方はどうですか?」


宮田がベッドの脇に置いてある丸椅子を左手で引き寄せ、腰を下ろす。

その動作を七子は横目で見ながら言った。


「おはようございます。ここは空気が良いので」


すると宮田は、少しだけ表情を和らげた。


「それは良かった。なんだか、名無さんらしいな」


それを見た七子は、彼が笑った顔を初めて見たことに驚いた。

それと同時に、自分の言葉だけで笑ってくれたことが嬉しくもあり、恥ずかしさもあった。


「え……そ、そうですか?」


頬を赤らめていることを悟られないようにしながら、七子は平静を装う。

しかし、それを察したのかそうでないのか分からないが宮田は更に続ける。


「何というか、とても素直な方だなと」


七子は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐに笑顔になった。


「そうやって、感情がすぐ表に出るところとかもな」


宮田はニヤリとしながらそう付け足すと、七子は口を尖らせた。


「あ! 先生、馬鹿にしましたねえ?」


「そう言う訳ではない……ふふ」


「ほら!」


「すまない、悪かった」


そう言って謝るものの、口元はまだ緩んでいるままだった。

七子は頬を膨らまし宮田の肩を手で、ぴしゃりと軽く叩くと、一方の宮田は降参とでも言うように両手を上げ、どうどうと七子を宥めていた。

こんな風に笑うこともあるんだなあと思いながらも、彼女は彼の意外な一面を見れて嬉しい気持ちになっていた。


「女を怒らせると恐いですよ」


七子は「ほら、四谷怪談にそう言う悲しい物語があるじゃないですか」と畳み掛けるようにそう言った。


「ああ、確かにそうですが、あなたに枕元に出てもらっても恐いなんて思う人は、十中八九いないだろうな」


「もう先生ってば、本当に調子がいいんだから!」


「おや、褒められたかな?」


「違いますっ!」


このやり取りに、お互い顔を合わせてくすっと吹き出す。

このようなやり取りが日々、医院の中では繰り広げられていた。

七子自身も彼と話すことで気が紛れており、毎日楽しく過ごしていた。


しかし宮田は、あの時感じた違和感を確かに覚えている。

それを晴らしたいがためにと言うと、とても聞こえが悪いがないとも言い切れない。

だが、彼女の様子を気にかけているのもそれもまた宮田の中では間違いではないと思っている。


彼女に記憶が無い以上は思い出してもらうか、自らの遠い記憶を呼び出すか……そしてその両方に可能性を賭けた結果がこうなのである。


しかし、あくまでも自然に彼女のペースに合わせる必要もある。

急速に症状が消えていくこともあれば、長期的に持続していくことがあるが、それは今のところどちらとも言えないのでトラウマとなった環境から切り離して症状の軽減を図っている、と言う状況なのである。


(ともすれば……)


「どうでしょう、気晴らしに散歩でもどうですか?」



「……? 散歩ですか」


根本的な解決になる訳では無いが歩くことによって気分を和らげたり、すっきりさせたりすることはできる。

そしてウォーキングセラピーと言う言葉があるように、運動と自然そして会話、この三つの相乗効果により心の病や依存症の克服を目指す新しい治療のアプローチ方法である。


「ええ、そう遠くは行きませんよ」


「先生がお忙しくないのであれば、是非」


「お構いなく、午後からは休診ですので」


宮田はそう言うと、丸椅子から立ち上がり白衣の裾をぱたぱたと手で整えながら「私も急いで準備します」と一言伝え病室から出て行った。

それを見送ると七子はベッドの上から降りると春霞のかかる外を眺める。

今日も天気が良く、小鳥たちがさえずり合いながら飛び回っている。

春風が頬に触れ、髪を揺らし通り過ぎていく感覚を楽しむ。

そんな穏やかな時間を噛み締めながら、七子は宮田が戻ってくるのを待つのであった。



そうして宮田との約束の時間になり、二人は病院の裏口から外へ出る。

宮田は七子の歩幅に合わせてゆっくりと歩き、時折、空を見上げては眩しい日差しに手を伸ばす。


「良い天気だな」


「そうですね。雲ひとつないですね」


「ああ、絶好のお出かけ日和というやつだな」


「はい」


そう言って七子は、にこりと微笑む。

その表情を見て、宮田は心の中でほっとする。


「先生、ひとつ聞いてもいいですか?」

「ああ」


「どうして、私のことばかり考えてくださっているんですか?」


七子の言葉に一瞬、足を止めて考える仕草を見せる。

すると、すぐに答えが出たのか彼は再び歩みを進め始めた。


「……君がここに入院してからずっと考えていたんだ。医者としても一人の人としても、何か力になれればと思って」


「……ありがとうございます」


「それに……何より俺が名無さんのことが心配なんだ」


「……!」


彼の率直な気持ちに七子は驚き、立ち止まる。


「どうした?」


宮田が振り返ると、七子は少しだけ頬を赤らめ、俯きがちになっていた。


「いえ……」


そう言って七子は顔を背け、また前を向いて歩き始める。


「……先生」


「なんだ?」


「先生は、優しい方なんですね」


七子は照れ臭そうにそう言うと、今度は彼が足を止めた。


「どうかな。あなたが思うほど綺麗な人間ではない、と思うけどな」


「そうでしょうか」


「少なくとも名無さんが思っているほど、俺は優しくはない」


そう言い切ると、宮田は再び歩みを進める。

宮田家の人間として、羽生蛇村に生まれてきたからには、それなりの覚悟を持って生きてきているつもりである。

それは子供の頃から、なんら変わりはない。


しかし自分の人生は自分だけのものではないと考えることも多くなった。

そう言った意味では、彼の生き方は酷く歪んでいる。


だからこそ、七子に対して特別な感情を抱くことを許せなかったのだ。

だが彼女に対して抱く違和感の正体がわからないままでは、それこそ本当の優しさではない。


だから、宮田は決めた。

この違和感を晴らすためにも、彼女の記憶を取り戻す努力をしようと。

そして、その先にどんな結末が待っていようと受け入れると。


「宮田先生!」


突然、大きな声で名前を呼ばれて宮田は我に帰る。

隣を見ると、七子がこちらを見ながら笑っていた。


「私……先生のこと、もっと知りたいです」


「……!」


突然のことに驚いた様子を見せたが、「そうだな」と言うと宮田は七子の方へ向き直す。


「これから、少しずつ知っていければいいだろう」


「はい」



そうして二人は、ゆっくりと歩き出す。

春の陽気が二人を包み込むように、穏やかに流れていった。


二人の長い旅路は、まだ始まったばかりである。



To be continued...





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