03


季節は移り変わって徐々に気温も上がり、いつの間にやら盛夏の深緑へと向かっていた。

外に出ることに少し億劫さを感じてしまうが、強い陽射しのおかげで一年のうちで生き物たちが最も活発になる時期でもある。

部屋から外を覗けば雲ひとつない蒼空には太陽がジリジリと輝き、コントラストのついた木々が鮮やかに映っていて、地面に影を落としながらそよそよと夏の暑い風に揺られていた。


眼が痛いほどの眩さである。


「早いものだな……もう夏か」


「そうですね。私がここに来てから、もう三ヶ月半ほど経ったってことになりますね」


七子は、リビングの窓越しに降り注ぐ眩しげな陽光に目を細めながらそう答えた。

濃緑に染まった葉を広げる木々の幹でじいじいと夏限りの大合唱をする油蝉の声が、冷房のために閉め切った窓から微かに聞こえてくる。


「七子さんは、随分とこの家に馴染んできたみたいだ」


「おかげさまで」


「最初はどうなるかと思ったけどな」


「ふふっ、私もです」


宮田はソファに腰掛けながら苦笑いを浮かべると、七子は可笑しそうに口元に手を当てながら小さく笑った。

彼女が言うように、最初は本当に大変だった。

記憶喪失の人間を相手にしたことはもちろんのことだが、そもそも他人と同居すること自体が初めてだったので、宮田はとにかく困惑していた。


「それにしても、よく頑張ってくれてるよ。家事全般を引き受けてくれて、助かってる」


「いえ、こちらこそ」


宮田は七子の頑張りに感謝の言葉を伝えると、彼女は謙遜するように首を横に振っている。

確かに、最初に比べれば彼女もかなり落ち着いたと言えるだろう。


初めの頃は自分のことを何も覚えていないという不安から、夜になると時々うなされていたこともあったが、あの一件以来それもほとんどなくなっていた。

今ではこうして普通に会話ができるようになり、以前のような笑顔も見せてくれるようになった。


信頼のおける人がそばにいることが、彼女の大きな支えになっていることは間違いなかった。

そして、それは宮田も同じである。


彼女との生活は、とても居心地の良いものだった。

今まで他人と生活を共にするということを避けてきた宮田だったが、不思議と七子とは上手くやっていけている。

もちろん、それはお互いの努力があってのことだ。


「医者としてまだまだ未熟なところはあるが、七子さんが少しでも楽になれるよう俺も努力しようと思っている」


それは、宮田なりの決意表明だった。


記憶を取り戻すためにも、彼女には元気になってもらいたい。


それが今の彼の願いだった。

そんな彼の言葉に、七子は嬉しさを滲ませた表情で微笑んだ。


「ありがとうございます。でも宮田先生には、いつも救われてますよ?」


それは本心から出た言葉であった。

彼がいなければ、自分はもっと大変なことになっていたかもしれない。

きっと今でもずっと運命に翻弄され、心の奥底で苦しみながら過ごしていたことであろう。

だからこそ、彼は自分の恩人なのだ。


「そうか? まあでも……救われる、か」


宮田は彼女の言葉を反芻すると、どこか含みのあるような笑みを見せた。

そして少し考え込むように目線を落としていると、七子が宮田の顔を覗き込むようにを傾げた。

さらりと音を立て柔らかな髪が揺れ、夏の陽射しを受けてきらきらと栗色に輝いている。


「宮田先生、また難しいこと考えてませんか?」


その問いに、宮田はハッとした様子で顔を上げた。


「……お見通しということか。全く、七子さんには敵わないよ」


「先生のことちゃんと見てますから、当たり前です!」


すると七子は、頬を膨らませて不満げに眉根を寄せていた。

そんな彼女を前にして、宮田は思わず苦笑いをこぼす。

どうやら考えていることを見抜かれてしまったようだ。
彼は誤魔化すようにして、視線を逸らすと口を開いた。


「すまん、そうだよな」


「いいえ! そうだ、先生なにか飲みますか?」


「ああ、じゃあお茶でもいただこうか」


宮田の視線の先にあるテレビ画面ではちょうどニュース番組が流れており、コメンテーターや学者たちが熱弁を振るっていた。

内容は、ここ数ヶ月の間に頻発している三隅郡近辺の強盗致傷事件についてである。

なんでも空き巣に入られた被害者たちは皆、刃物のようなものによって身体を切り付けられるという凄惨な事件であり、警察も犯人の目星がついておらず捜査が難航しているらしい。


そして犯罪心理学者の一人が、ある可能性を口にした。

曰く、これは同一犯による犯行であるということと、犯人はわざとに在宅中を狙って世間を恐怖に貶める愉快犯ではないか、と。

それを耳にした宮田は、一瞬息を飲む。


「そんな奴がいるのか……」


「先生、どうしました?」


そこにキッチンからグラスに入った麦茶を持ってきた七子が、不思議そうに声を掛けた。


「あ、いや……物騒だなと思ってな」


宮田は慌てて取り繕うようにそう答えた。

七子は、特に気にする素振りもなく、テーブルの上にグラスを置くとソファに腰掛けた。

彼女はニュースの内容よりも、そのあとに映ったお天気コーナーに夢中のようで、窓の外を見つめながら嬉しそうな声を上げている。


「いよいよ、夏本番ですね!」


今日も暑くなりそうだ。
外は雲ひとつない青空が広がっている。


「そうだな」


宮田も、つられるようにして窓から見える空を眺めると、眩しい日差しに目を細めた。


「ねえ、宮田先生! 今週末、村の夏祭りあるの知ってました?」


天気予報が終わると、今度は県内の花火大会について報道が始まった。

それを見ていた七子は、突然思い出したかのように身を乗り出して宮田に訊ねている。


「この間、慶さんと大衆食堂で甘味を食べてた時にお祭りのポスターを見かけたんです」


そんな彼女の勢いに圧倒されながらも、宮田は記憶を辿るように首を捻っている。

最近は多忙な日々が続いてしまっており忘れていたが、そう言えばそんなものもあったなと、ぼんやりと思い出した。


つい二週間前ほど前に、自治会の青年部であろう数人が丸められたポスターを飾って欲しいと訪ねてきたような。

それは煌びやかで色とりどりの花火の画像を背景に、縁日や浴衣を着た子供の描かれたポップなもので、でかでかと日にちが書かれているものだった。


その日に限って患者や外来への対応に追われており、看護師に任せっきりになっていた気がする。


「ん? 確かに、そんな時期だな。まあ村だから小さな祭りだが、皆が楽しみにしているな」


日本各地の言わずと知れた夏の風物詩でもある、夏祭り。
例に漏れず、ここ羽生蛇村でも盛大に行われている。

この日だけは村に活気が溢れ、縁日や神輿など華やいだ雰囲気に包まれる。


宮田自身も子供の頃に一度だけ連れていってもらったことがあるが、夏の夜の蒸し暑さに負けない程の人の熱気と輝かしい電飾の数々。

自分の五感に感じるものに、この世の楽しさを全て詰め込んだかのように錯覚させられたものだ。

その時の感動は大人になった今でも忘れられずにいる。


「行きたいのか?」


宮田の言葉に、七子はこくりと大きく肯いた。

そして子供のように瞳を輝かせながら、嬉しそうに笑みを浮かべている。
それはまるで、花が咲いたかのような愛らしい笑顔だった。

宮田はそんな七子の様子に微笑ましさを感じて、口元を緩めてしまう。


「それじゃあ、行こうか。一緒に」


「本当ですか!」


その言葉に、七子は両手を合わせて喜んでいる。

そんな彼女の様子を目にして、宮田はふっと柔らかい表情を見せた。


「楽しみにしておきますね」


「ああ、俺もそうしておくよ」





そして村の夏祭り当日を迎えた。
二人は約束通り、待ち合わせをして会場へと向かっていた。

診療所を閉めてから車で行く予定だったが、仕事を終えてからだとどうしても時間が遅くなってしまう。
そのため、少し早めに診療を切り上げてから向かうことにしたのだ。



自宅へ戻り準備を終えると、七子が自分の部屋から出てきた。

その姿は淡いピンクのオープンショルダーのワンピースに身を包み、髪を結い上げており、普段とは違う大人っぽい華やかな印象を抱かせる。

普段はあまり化粧をしない彼女も、この時ばかりはきちんとメイクをしており、艶やかな唇が妙に色っぽく感じられた。

その装いと彼女の姿に見惚れてしまい、思わず立ち止まってしまった宮田だったが、すぐに我に返ると彼女に声を掛けた。


「行こうか」


そしてそのまま二人で玄関を出ると、車へと乗り込んだ。


会場に近付くにつれて人が増えていき、やがて道沿いに屋台が並ぶ大通りまで辿り着く。

七子は初めて見る光景に興味津々なのか、あちこち見回しながら歩いている。

しかし彼女は、時折宮田の方を振り返ると何か言いたげな視線を送ってくる。
それは早く来てほしいという催促のようでもあり、また何かを問いかけるような眼差しでもあった。


宮田はそんな七子の姿に苦笑いをすると、そっと手を差し伸べた。

途端、嬉しそうな顔をした彼女が宮田の手を取ると、そっと握り返してくる。
そしてその手を引かれるようにして、縁日の喧騒の中へ足を踏み入れた。


縁日は予想していたよりも規模が大きく、人で賑わっていた。

金魚すくいや射的などの遊戯はもちろんのこと、綿飴やリンゴあめといった定番のものから、お好み焼きや焼きそばなどといった食べ物の出店もある。
その他にも、ヨーヨー釣りやスーパーボール掬い、型抜きやくじ引きと言ったものまで。

それらは所狭しと軒を連ねていて、まるでお祭り特有の活気ある空気が満ちているようだ。

辺りからは、威勢の良い呼び込みの声が飛び交っている。


そんな中で、七子は様々な出店を楽しむように見て回っている。
そんな彼女を眺めていた宮田は、懐かしさを覚えると同時にどこか心が温かくなっていくのを感じていた。

子供の頃に見た景色とは随分と違って見えるが、それでも自分が小さい時に感じたものと同じものがある。

それが何だか嬉しくて、つい頬が緩んでしまう。

きっと隣にいる彼女も同じ気持ちでいるに違いない。


そうして暫く縁日を楽しんでいると、いつの間にか空には星が見え始めていた。

時刻はすでに夜と言っていい頃合いで、花火が始まる時間がアナウンスされている。

花火を見やすい場所はすでに大勢の人達が陣取っており、二人は少し離れた場所にある高台へと向かうことにした。


そこは縁日が行われている通りを抜けた先にあり、祭りの賑わいが遠ざかる代わりに静寂が二人を包む。


「静かですね」


「ああ……」


この辺りは民家も少ないため、まるで世界に自分達しかいないような錯覚さえ覚えてしまう。

それほどまでに静かな空間だった。

だが、この沈黙が心地良い。


宮田は七子と繋いだ手に力を込めると、そっと引き寄せて腕の中に閉じ込めた。

そしてそのまま、自分の胸元に顔を埋める七子の頭を優しく撫でる。

彼女は嫌がることなく、むしろ目を閉じて嬉しそうに微笑んでいた。


そして二人が抱き締め合っていると、視界いっぱいに鮮やかな光が広がった。

打ち上げの音と共に、夜空に大輪の花が次々と咲き誇っていく。
色とりどりの光を放つ花に照らされた彼女の顔は美しく、まるで夢幻のような光景だった。

そんな彼女に魅了されて、思わず見惚れてしまう。
そのせいか七子に気付かれてしまったらしく、こちらを見た彼女は悪戯っぽく笑うと宮田の胸に顔をそっと寄せてきた。

それからも二人は、花火が上がる度に感嘆の声を上げながらその美しさに見入っていた。



そうして最後の花火まで堪能すると、再び元の静けさが戻ってくる。

二人はしばらく無言のまま余韻に浸っていたが、やがて気になって彼女の方へ視線を向けると、ぼんやりとした様子で遠くを見ている。


どうしたのかと思い、声を掛けようとしたその時、七子がぽつりと呟いた。

それは独り言のように小さな声だったが、不思議と耳に届いた。


「私、幸せです……」


宮田は、そんな七子の言葉に小さく息を飲む。

それは今までずっと彼女が抱えていた想い。

その言葉を口にしたことで、彼女の中で何かが変わったのかもしれない。


彼はそんな彼女の姿に愛しさを覚えながらも、しっかりと受け止めようと口を開いた。


「……」


しかし言葉は出てこなかった。

その代わり、胸の奥に熱いものが込み上げてくるのを感じた。

何故なら彼女の言葉は自分の心情とも重なっていたからであり、自分もとても幸せなのだ。


七子と一緒にいることができて。

そしてこれからも、彼女のことを支えていきたい。


それがどれほど尊く、かけがえのない時間なのか。
それを思うだけで、自然と笑みが零れる。


そして改めて実感する。



彼女のことが好きなんだと。



宮田はそんな想いを込めて七子を抱き寄せると、耳元に唇を寄せた。


「七子、こっち向いて」


宮田は彼女の顎に手を添えて上向かせると、ゆっくりと顔を近付けていく。


それに驚いた彼女が目を閉じるのを見て、ふと笑みを浮かべるとそのままそっと額へとキスをした。

そして頬にも同じように軽く触れてから、最後に互いの鼻先が触れるほどの距離にまで顔を寄せて目を閉じると、吐息がかかるほどの距離で囁いた。


「俺も、すごく幸せだ」


すると七子の瞳から一筋の涙が流れ落ちた。


「ありがとう……ございます」


その表情はとても穏やかで、まるで聖母のようだと思った。


その笑顔をいつまでも見ていたい。

そのためならば、何でもしよう。

だからどうか、君の隣にいることを許してほしい。


そんな願いを込めながら、宮田は七子をきつく抱きしめた。




To be continued…





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