04
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八月も下旬に差し掛かり、残暑が厳しい季節となった。
そんな日々の中、今日は珍しく晴れており雲一つない青空が広がっている。
空は高く、青々としていて美しい。
太陽の日差しが眩しく、見ているだけでも清々しい気分になる。
まさに絶好のお出かけ日和と言えるだろう。
そんな中で七子はいつものように、教会へと続く坂を登っていた。
ここ最近、毎日のように通っている道だが、未だにこの坂道を登るのには慣れることができない。
それに加えて、暑さも相まって体力が削られている気がする。
しかし、それもあと少しの辛抱だ。
ようやく見えてきた教会の屋根を眺めながら、外で作業をする牧野の姿を見て頬を緩ませる。
彼は、教会で育てている植物に水をあげているところだった。
「おはようございます!」
元気よく挨拶をしながら駆け寄ると、牧野は嬉しそうに笑って出迎えてくれた。
「七子さん、おはよう。お待ちしていましたよ」
「すみません。遅くなってしまって……」
「いいえ、大丈夫ですよ。暑かったでしょう? 中で少し休んでください」
「ありがとうございます」
牧野に促されて中に入ると、ひんやりとした空気が身体を包む。
この瞬間がとても心地良いと思うのは自分だけだろうか。
そう思いつつ、七子は長椅子に腰掛けた。
「どうぞ、麦茶です。良かったら飲んで下さいね」
そう言って渡されたグラスを受け取り、礼を言うと一気に飲み干す。
喉を通る冷たい感覚が気持ち良く、火照った身体に染み渡るようだった。
その様子に、隣に座っている牧野は可笑しそうに笑っていた。
「そんなに慌てなくても誰も取りませんから、ゆっくり飲んで下さい」
「あっ、ごめんなさい! つい……」
恥ずかしくなり俯くと、今度は声を出して笑い始めた。
七子がバツの悪そうな顔で見つめていると、牧野は慌てて謝罪の言葉を口にした。
「いえ、こちらこそすみませんでした。そんなつもりで言ったわけではないんです。ただ、七子さんの様子があまりにも可愛くて……」
牧野はそう言うと、にこりと笑みを浮かべた。
その笑顔は慈愛に満ちていて、思わずどきりとする。
しかしすぐに我に返ると、気まずさを感じて目を逸らす。
そんなことを言われても、どんな反応をすれば良いのか分からない。
そもそも、可愛いなんて言われたのは初めてだ。
一体、自分はどうしたら良いのだろう。
そんなことを考えながら視線を彷徨わせていると、不意に窓辺に置かれた鉢植えの花が目に入った。
それは初めて見た時よりも随分大きく育っており、鮮やかな黄色の花びらを開いている。
「……綺麗ですね、向日葵」
その言葉を聞いて、牧野も七子が見ている方へ顔を向けた。
そして納得したように笑みを深めると、優しい声で語りかける。
「教会の近くの畑で、育てていた物なんですよ」
その声音はとても穏やかで、心から喜んでいるような響きがあった。
「そうなんですね」
「毎年、五月に信者の方たちと種まきをして、この時期に向日葵畑を解放しているんです」
そう言いながら牧野は立ち上がり、向日葵へと近付くと優しく頭を撫でた。
そして七子の方に振り返ると、穏やかな笑みを浮かべる。
その笑顔を見て、何故だか胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
何故だろう。
その笑顔を見ると、温かな感情が溢れてくるのだ。
しかし同時にその瞳に見え隠れする寂しさのようなものが、七子の心を揺さぶっている。
それが何なのか分からず、七子は戸惑うばかりだった。
「七子さん、見に行ってみますか?」
そんな七子の様子に気付いたのか、牧野はそう問いかけてきた。
「はい、行ってみたいです!」
その誘いを断る理由もなく、七子は笑顔で答える。
すると牧野は嬉しそうに微笑んだ。
「今は暑いから、日が落ちるまで待って行きましょう」
「はい!」
こうして二人は、夕方から一緒に向日葵を見に行くことになった。
辺りはすでに茜色に染まっていて、遠くに見える山々が紅く染まっている。
昼間の暑さは和らぎ、涼しい風が頬を掠めていく。
十分ほど牧野について歩くと、丘の上に辿り着いた。
「足元が悪いので、よろしければ私に掴まってください」
そう言って差し出された手を取ると、牧野はゆっくりと歩き出した。
その温かく大きな手に包まれて、安心感を覚えると同時に何故か鼓動が速くなるのを感じる。
この不思議な感覚は何だろう。
そんなことを考えながらも、牧野の後に続いて歩いていく。
足場の悪い道を進んでいくと、一面に広がる黄色と橙色の世界が現れる。
その光景を見た瞬間、七子は息を飲む。
牧野が言っていた通り、そこには沢山の向日葵が咲いていた。
目の前には、まるで絨毯のように広がる大輪の花が広がっていた。
その光景に圧倒されながらも、七子はその美しさに見惚れていた。
この景色は、写真では味わえないものだ。
実際に目にして、肌で感じなければ感じることのできない感動がある。
そんな風に思えた。
しばらく眺めていると、牧野が口を開いた。
「どうです? すごいでしょう?」
その声に反応して、牧野の顔を見る。
彼はとても幸せそうな表情をしていた。
きっと、彼もこの美しい風景に魅せられてしまったのだろう。
そう思うと、なんだか嬉しい気持ちになった。
「もう少し近づいてみましょうか」
それから二人はしばらくの間、黙ったまま向日葵畑の中を歩いた。
その間、繋いだ手が離れることはなかった。
ふと牧野は足を止めるてこちらを振り返り、手を離した。
そして、七子をじっと見つめる。
夕日に照らされた彼の姿に、思わずどきりとする。
こんなにも真剣な眼差しは、今まで見たことがない。
その様子に戸惑いつつも、七子は牧野の言葉を待つことにした。
「七子さん、私はあなたに伝えなければならないことがあります……聞いてくれますか?」
牧野はそう言うと、真っ直ぐに七子の目を見据えた。
その瞳からは、強い意志が感じられる。
「はい」
七子が返事をすると、牧野は一度深呼吸をした。
「私と宮田さんは、双子の兄弟だという話は聞いてますよね?」
その問い掛けに対して、七子は無言のままこくりと首肯した。
それを確認してから、牧野は再び語り始める。
それは、彼にとっての懺悔だった。
牧野は物心ついた時から、求導師として育てられていた。
それは両親と死別したことが原因で、当時の牧野はまだ赤ん坊だったこともあり養父に引き取られることになったのだ。
「きっと七子さんは、眞魚教に纏わる権力関係についても聞いてるんでしょうね」
牧野は笑顔を取り繕いながらそう言った。
しかし、彼が何故そんな話をし始めたのか分からず、七子は困惑していた。
「はい、宮田先生から……」
すると、牧野は悲しげな笑みを浮かべる。
それが自分のせいだと言うように。
その笑みを見て、七子の胸が締め付けられる。
一体、どうしてそんな顔をするのだろうと思っていると、牧野は静かに語り始めた。
「元は兄弟なのに、残酷なものでしょう? 私も私で頼りないから、余計に宮田さんを苛つかせてしまうんです」
牧野は自嘲気味に笑う。
「慶さん……」
その姿はどこか痛々しく、見ている方が辛くなるようなものだった。
そんな彼の様子を見ながら、七子は話に耳を傾けていた。
「私は今まで、盲目的に神を信じていました」
すると牧野の法衣を揺らすように、夏の湿った風が吹いた。
木々の葉が擦れ合う音が響く。
その音を聞きながら、彼は続けた。
この村では誰もが信仰心を胸に秘めていて、それこそが生きる支えでもあった。
だからこそ自分にとって神とは絶対の存在であり、何よりも尊いもののはずだった。
「ですが今となっては、神の正しさに疑問を持っています。結局のところ、私は掌の上で転がされて……何も知らない道化だったのです。そして素知らぬ顔で、気高く高潔に振る舞い続けていた……」
牧野はそう言い終えると、ゆっくりと息を吐いた。
そうして、何かを決意したかのように再び口を開く。
「だから、もう嘘はつきたくないんです。本当のことを、全て話したいと……そう思いました」
牧野の話を聞き、ようやく話が繋がった気がした。
彼は求導師ではあるものの、同時に牧野慶というひとりの人間なのだ。
牧野が求導師でいなければならないからこそ、彼は自分を偽って生きてきたのだろう。
それが偽りの姿だと自覚しながらも、牧野はその仮面を被ってきた。
そのことに、彼自身が一番苦しんでいたのかもしれない。
彼の苦悩を想像し、七子は唇を噛みしめる。
「……村のために儀式を執り行う牧野家は、その実は人柱を捧げることで村の安寧を願っているだけで、要は賊害をするような……崇められることの対極にある家系なんです」
牧野は淡々と言葉を続ける。
それを聞いて、七子は黙ったまま続きを促した。
牧野はその視線に応えるようにして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それに気づいた時、私は愕然としました。そして、この村に渦巻く狂気に気づかなかったことを恥じました」
牧野は淡々と、言葉を選びながら語る。
その声には、深い後悔の色が滲んでいるようだった。
「だから、今まで犯してきた罪を償うために求導師を続けることが私の贖罪です」
求導師という立場に苦痛を感じたからこそ、彼はこの立ち位置に居続けるということだろうか。
彼はそう言うと、寂しげな表情で微笑んだ。
「そんな……」
七子は呟いたきり、それ以上何も言えなくなってしまった。
彼の苦しみも葛藤も、彼女には推し量ることしかできないが、それでも胸の奥底から込み上げてくるものがある。
そして彼が語ってくれた内容は、確かに衝撃的なものだった。
彼は自分よりも遥かに長い間、この狂った世界に身を置いていたのだろう。
牧野はずっと、真実を知りながらも目を背けていたのだ。
だからこそ、彼は苦しみ続けてきた。
それは彼にとって、どんな苦痛だっただろうか。
そんなことを考えていると、牧野は少しだけ表情を和らげて微笑んだ。
その笑顔に、七子は目を奪われる。
こんなに苦しくても穏やかに笑える人だったのかと、そう思った。
「慶さん、私はあなたを責めることなんてできません……」
牧野の告白を受けて、七子は彼の手を握り締める。
そうしなければ、彼が消えてしまいそうな不安に駆られたからだ。
その手は冷たく、そして震えていた。
彼の緊張がこちらにまで伝わってくるようだ。
どれほどまでに勇気を振り絞っているかが分かる。
そして彼が真実を知った時、どれだけ辛い決断をしたかも。
彼は今まで、自分が信じてきたものを否定され続けた。
それでも、逃げなかった。
きっと、彼は誰よりも強い人だ。
彼が背負ってきたものの大きさや重圧を考えれば、そんな彼を誰が咎められるというのだろう。
七子は、真っ直ぐに彼を見つめた。
牧野はそんな七子の瞳を見つめ返すと、僅かに眉尻を下げた。
それは、彼がよく見せる困り顔だった。
いつもこうして、優しく笑ってくれた。
その笑顔を見ると、心が温かくなって安心できたのだ。
牧野は、七子のことを家族のようにとても大切にしてくれた。
だから、きっと彼も迷っていたはずだ。
本当のことを打ち明けるべきか否か。
きっと打ち明けるべきだと判断したからこそ、彼は真実を語ったのだろう。
「……だから、これからも一緒にいましょう」
七子は、牧野に向かって頭を下げる。
彼がどんな選択をしようとも、彼の傍にいるつもりだった。
彼女が初めて彼と会った時、家族のように迎えて受け入れてくれたのが嬉しかったから。
そして今も、同じ気持ちでいると伝えたかったのだ。
彼はしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「ありがとう……」
その声は微かに掠れていたが、確かな意志を感じさせた。
「……そろそろ、教会に戻りましょうか?」
茜色に染っていた辺りは少しずつ薄暗くなり始めており、空には星が瞬き始めていた。
「はい。宮田先生もそろそろ迎えに来る頃ですよね」
牧野はそう言うと、教会の方へ足を向ける。
彼の背中を追いかけるようにして、七子は歩き出した。
そして彼女の物語はいよいよ秋を迎え、急展開を迎えることになる。
To be continued…▼▲▼
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