01
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夢を見た。
それは宮田の心の奥底にしまってあった、忘れていたはずの癒えない苦しみだった。
――――
「司郎、あんな他所から来た子と遊んじゃ駄目だって母さん言ったわよね?」
病室のベッドの背を起こして座っている涼子が宮田を睨みつけている。
彼女の枕元には花瓶があり、活けられた百合の花が甘い香りを振りまいていた。
いつものように不機嫌で、そして少し怒っていた。
彼女はいつもそうなのだ。
父の目がないときは、特にそうだった。
「確か――ちゃんって言ったかしら?」
「……!」
「母さんに知らないことなんてないのよ」
宮田の半袖から覗く二の腕を強く掴んで離さないその指は、まるで何かにすがりつくようでもあった。
彼女は彼の腕の見えない所に爪を立てて、皮膚の下に血を流し込むように強く握りしめるのだ。
痛みを感じない彼でさえ、思わず顔をしかめてしまうほどに強く。
そんな時、彼は決まって無言になった。
「……」
涼子は宮田の答えを待たずに、そのまま続ける。
「あなたは、宮田医院を継ぐためにお医者さんになるんでしょう? 現を抜かしていると、周りの子に負けてしまうわよ」
それは、いつもの決まり文句だ。
彼女はそれを言わないと気が済まないのだ。
だから、宮田もいつものように答えるしかない。
彼は小さく息を吸うと、努めて冷静な声を出した。
「ごめんなさい、お母様……」
しかし、それでもわずかに震えた声音になってしまったことを自覚する。
そんな自分の心の動きにも苛立ちながら、宮田はそれを押し殺すようにゆっくりと口を開いた。
「もう、他所の子とは遊びません」
涼子の目を見ずに、視線を落として言う。
すると彼女は大きくため息をつくと、そっと彼の手を取った。
「そうね。偉いわ、司郎」
優しく労るように握る手からは、微かに温もりを感じる。
だが宮田は反射的に、その手をすぐに振り払った。
驚いたような顔で見つめてくる彼女に、彼は再び謝った。
「ごめんなさい」
その時、初めて彼女の表情が歪んだ。
眉間にシワを寄せ、唇を引き結び、瞳を大きく揺らす。
それは彼女が泣く時の前兆であった。
だが涙を流すことはなかった。
なぜなら彼女は、泣かないからだ。
どんな時でも決して、人前で本当の涙を流したりしないのだ。
それが彼女にとっての強さであり、同時に弱さでもあった。
彼は知っていた。
宮田涼子は、決して強い人間ではないということを。
ただ、強情なのだ。
だからこうして、宮田の言葉ひとつで簡単に傷ついてしまう。
泣きそうになる自分を必死に押し殺して耐えようとする彼女を見ていると、胸が締め付けられるように痛む。
しかし、それでも彼は何もできなかった。
「ごめんなさい。勉強があるので、戻ります……」
宮田は逃げるようにして部屋を出た。
彼は自室に戻ると部屋の隅にある姿見の前で足を止め、そこに映る自分を見た。
彼はいつもと同じように、綺麗にプレスされた白いシャツを着て、センタープレスがなされたスラックスを履いている。
しかし鏡の中の自分はそんな小綺麗な服装に似合わず、少しだけ疲れているように見えた。
(……僕には、感情がない)
宮田は自分の両手を見下ろす。
そこには、確かに体温がある。
脈もある。
心臓だって動いている。
しかしそれらは、全て仮初めに過ぎないのだ。
彼が本当に感じているのは、痛みだけだった。
だけど、あの子の前では違ったんだ。
まだ小さなあの子は、こんな僕の手を握ってくれた。
笑顔を向けてくれた。
それだけのことなのに……。
宮田はきつく目を閉じた。
目頭が熱くなる。
彼は今になってやっと気づいた。
あの子の前では、自分が自分でいられるということに。
「ごめんね、見送りには行けそうにないや」
そう呟くと彼の瞳からは、一筋の雫が流れ落ちた。
「……っ!」
宮田が目を覚ますと、そこはいつもの自分の寝室だった。
彼は額に浮かぶ汗を拭いながら、ベッドの上で上半身を起こした。
どうやら夢だったようだ。
宮田は安堵のため息をついた。
時計を見ると、針は午前二時を指していた。
窓の外はまだ暗く、街灯の明かりだけがぼんやりと光っている。
彼はベッドから降りると、水を飲むためにキッチンへと向かった。
喉はカラカラに渇いていたが冷蔵庫の中にミネラルウォーターのストックが無かったため、仕方なくコップ一杯の水を飲み干すと、再び寝室へと戻った。
宮田は先ほどまで見ていた夢のことを思い出しながら、ベッドに横になった。
あれは、子供の頃の記憶だ。
彼がまだ小学校の高学年くらいの頃だろうか。
その頃の彼は、母親に内緒でよく近所の女の子と遊んでいた。
その子はとても大人しく、引っ込み思案な性格をしていた。
そのため、あまり外で遊ぶようなタイプではなかったが、宮田はそんな彼女とも仲良くしていたのだった。
「名前は、なんて言ったか……」
宮田は、自分の記憶を辿るように小さく呟く。
しかし遠い記憶ゆえ、いくら考えてもその答えは思い出せなかった。
まぁ、いいか。
彼は寝返りを打つと、そのまま眠りについたのだった。
次の日、宮田はいつものように七子を教会へ送ると医院へと出勤して行った。
その道中、彼は昨夜の夢のことを思い出す。
あの少女は、確か……
そこまで考えたところで、宮田は首を振って思考を中断した。
もう昔のことだし、それに忘れてしまったということは、きっと大したことじゃないんだろう。
宮田はそのまま普段通りに午前中の診察を済ませると、院長室で昼食がてら調べ物をすることにした。
書棚から彼が個人的に集めた医学書を取ったその時、題名のない一冊の本が床に落ちる。
それは日記帳のようで、紺色をしたレザークロスの表紙にはタイトルの代わりに『Diary』の文字がある。
彼はそれを拾い上げると、パラパラとページを捲った。
そして最後の方の白紙の部分に差し掛かった頃、ようやく目当ての名前を見つけることができた。
「……!」
彼は本を閉じると、それを机の上に置いた。
そこには丁寧な文字で『宮田司郎』と書かれていた。
「これは……俺の、日記だ」
彼はそう言うと、自分の名前が書かれた部分を指でなぞった。
その部分だけインクが滲んでいるように見える。
宮田は不思議に思いながらも、表紙をめくった。
すると、最初の数行が目に飛び込んできた。
三月二十七日(日)
今日、家の近所に女の子が引っ越してきた。その挨拶に家族三人でうちに来ていた。
四月から一緒な学校に通うみたいだ。
仲良くできたらいいな。
宮田は無意識のうちに、自分の頬に触れていた。
なぜだろう?
なぜか無性に泣きたいような気分になる。
胸の奥のどこか深いところで、何かが疼いている気がした。
宮田はその気持ちを押し殺すように、次のページをめくる。
四月二十五日(月)
一緒の登校班で通うから、すぐに仲良くなれた。
今日は遊ぶ約束をした。
ちゃんと宿題をして、こっそり裏口から出よう。
お母様にばれたら大変だ。
宮田は日記を読み進めるごとに、どんどん表情が強張っていく。
まるで自分のものではないかのような、そんな感覚だった。
彼は、次々にページをめくる。
六月三日(金)
求導師様が亡くなったらしい。
村のみんなが代替わりだと騒いでいた。
どんどん離されていく気がする。
僕は、取り残されていくんだ。
お母様からも逃げられない。
どうして僕なんだ。
宮田はそこで読むのをやめると、大きく深呼吸を繰り返した。
心臓が激しく脈打ち、息苦しさを感じるほどだった。
だが、読まないわけにはいかないと思った。
覚悟を決めると、再び日記に視線を落とした。
そして日記が書いてある最後のページを捲った。
三月八日(水)
今日、学校に行く時にあの子から引越しの話を聞いた。
どうやら上みすみに家が建ったから、そっちに住むらしい。
だから、学校も変わるって言ってた。
再来週の金曜日のお昼に出ていくらしくて、見送りしてほしいって言われたから、こっそり行こうかな。
三月十九日(日)
お母様に全部ばれた。
あんなに怒られたら、もう行けないや。
最後にさよならしたかったけど、ごめんね。
本当にごめんね、ななしちゃん。
宮田はしばらく呆然としていたが、やがて椅子から立ち上がると窓辺へと移動した。
カーテンを開けると、外には羊雲の浮かぶ真っ青な空が広がっていた。
「……そうか。そうだったのか」
宮田は呟くと天を仰いだ。
今になって、あの時の違和感をようやく理解することができた。
彼女の名前に、聞き覚えがあったのも当然だ。
かつて、宮田が遊んでいた少女と同じ名なのだから。
今まで聞いていた話からも辻褄は合う。
彼女は、ずっとこの街に住んでいたのだ。
そして再びここへ戻ってきた。
宮田はゆっくりと目を閉じた。
すると瞼の裏に、かつての光景が浮かび上がる。
小さな手を握りながら、こちらを見つめる彼女。
そして、その隣にいる自分。
「……っ」
宮田は拳を強く握った。
「俺は、なんて酷いことを……!」
彼は、自分の愚かさを呪った。
自分の感情を優先して、何も考えずに彼女を突き放してしまった。
それは、あまりにも身勝手すぎる行為だったのではないか。
懺悔するように両手を握り締めると、そのまま額に押し当てた。
「すまなかった……!」
その声は震えていた。
宮田はしばらくの間、そのままの姿勢で動かなかった。
いや、動けなかったという方が正しいかもしれない。
それからどれくらい経っただろうか。
宮田は顔を上げると、机の上の日記を手に取った。
そしてそれを大事そうに机の中にしまうと、部屋を出て行ったのであった。
場所は変わって、下粗戸にある県道の歩道を牧野と七子が歩いていた。
二人は上粗戸のスーパーで買い物を終わらせた帰りらしく、荷物を抱えて並んで歩いている。
いつの間にか夏も終わって幾分過ごしやすくなり、夕方になると最早肌寒さを感じるようになったこの頃だが、二人の間には穏やかな空気が流れており、どこか心地よさそうにしている。
そして路地の曲がり角に差し掛かった時だった。
「あ、おっと……すみません!」
牧野の肩が、前方から来た男性とぶつかる。
「いえ、私の方こそ……」
男性は申し訳なさそうな表情を浮かべて謝った。
「大丈夫ですか?」
「ええ、お気遣いありがとうございます」
「ああ、よかった」
そう笑顔で答えると、牧野は相手の姿を見た。
この辺りでは見かけない顔で、やけに小綺麗な格好をしている。
年齢は二十代後半から三十代前半といったところだろう。
背は高めで、やや童顔気味な風貌だがアップバングのツーブロックにしており、落ち着いた雰囲気が漂っていた。
上質な生地を使ったジャケットを着ていて、どこかの企業のサラリーマンのように思えた。
しかしスーツのラペルホールの近くには小さなバッチが付けられており、それは紅色の旭日を中心として菊に似た白い花弁と金色の葉のような模様があしらわれている。
そしてその男性は、七子の方を見ると一瞬だけ目を大きく見開いた。
しかし何も言わず、すぐに会釈をして通り過ぎていった。
「それでは失礼します」
すれ違いざまに、男性の香水の香りがふわりと鼻腔をつく。
それはほんの少し甘くて爽やかな、心地のよい匂いだった。
その後、牧野たちはその背中をじっと見送っていたが、しばらくしてから七子が口を開いた。
「あの人、誰なんでしょうね」
「うーん、分かりませんね。 バス停の方から歩いてきてらしたから、営業かなにかでしょうか?」
「そうかもしれませんね」
七子は同意すると、牧野の手を取った。
「さぁ、早く教会に戻りましょう! 明日の準備で忙しいんですよね?」
「ふふ、そうですね」
牧野は微笑むと、彼女に手を引かれるようにして歩き出した。
To be continued…▼▲▼
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