02


とある日、回診を終えて七子の病室を退室した宮田は、一階の中程にある診察室へと戻ることにした。

その日は午後からも診察が残っているので、その準備と休憩室での昼食そして休憩のために足早に向かった。


そして簡素な肘掛け付きの椅子に腰を落とし、足を組みながら思案していた。

カチ、コチと規則正しい秒針の音が流れ時が進んでいくことを知らせている。


「記憶がなくなるなんて、運命も酷なことをするものだな……」


静かな部屋に誰に言うでもない独り言が吸い込まれていく。

ふぅ、とため息をつくと彼は机の上にあったコーヒーカップを手に取り口元に運ぶ。
すっかり冷めたコーヒーを口に含むが、味覚が鈍くなっているのか苦みしか感じなかった。


運命などと信じている自分ではないが、自分とその兄のことを思うと信じないわけにもいかない。


不入谷教会の求導師として村民から慕われている彼と、いち町医者である自分。

拾われた家で自分の人生が決まってしまう。

抗ったとしても、それはもう決して覆せない。


そんな自身の身の上の運命を考えると、七子の気持ちも分からなくはなかった。

彼女は今、不安を感じながらもその環境に適応しようとしている。

その精神力の強さは、彼女が元々持っている気質によるものなのか。


その間宮田は、机上に整理してあるカルテの入ったファイルを見つめていた。

速筆された文字の書いてある七子のカルテだ。


ふと手に取りそれを眺める。
持て余した右手で、近くにあったボールペンを回した。


原因は心因性と記してある。


「……そうか」


再び静寂が訪れるが、先ほどよりもどこか重く感じる。

七子の両親の生家がこの村にあり、よく帰省しては遊んでいたということと自然の中で療養してほしいと言うことらしいが。


「確かにここなら療養するのには適してはいるが、根本的な解決になるかどうかだろうな……」


彼女の心の闇を晴らしてあげることができればいいのだが。

簡単に言うものの、それは詰まる所七子のトラウマを掘り起こすことにも繋がる。

それが彼女にどれだけの苦痛となり影響が出るかを考えると、慎重を要さないはずがなく宮田もこれには頭を悩ませる。


しかし、医師本意で事を進めてもそれは治療でもなんでもないことは火を見るより明らかであるのは百も承知である。


(……まあ、俺が気を張ってもしょうがないか)


窮屈になる足を組み変える毎に、古い椅子がキーキーと音を立て軋む。


「さぁ、どうしたものかな」


そう言って、宮田はまた冷たくなったコーヒーに口をつけた。


そこで自分の迷いを拭うように、カルテから目線をはずし窓の外を見遣る。


朝までの陽気な天気とは違い、鈍色の低い雲が空に立ち込めている。

ものの数時間も経たないうちに降り出しそうな雲模様である。

確か、夜には雨が降ると言っていたような。




そして診察のピークである昼間を過ぎ、いつものように静かな時間が戻ってきた。

今のように曇っていなければ夕陽が空を茜色に染めている頃、宮田は几帳面と言わんばかりに机の上の整理をしながら考えていた。


彼女のことだ。

宮田は彼女の名に、聞き覚えがあったのだ。

初め名前を見た時と変わらない、この説明のしようがない違和感を。

そしてそれは、宮田がずっと探し求めてきたものでもある。


しかし、その違和感の正体は未だに掴めていない。


─何年前だったろうか……?


しかし記憶の引き出しから引きずり出そうとしても、肝心なことにはなかなか結び付かない。


それもそのはずである。

思い出そうとするのは先代の求導師が亡くなった年のことで、宮田がまだ中学にも上がっていない頃のことである。


「はぁ……」


仕事の疲労からか思い出せない虚しさからか、それとも両方なのか溜め息をひとつ吐く。


─やはり、勘違いなのだろうか?


そんなはずはない……恐らく。


しかしあの母親に隠れて何かをしていても当然のように見破られ、自分の心を踏みにじられる。

あの布切れのようになったぬいぐるみがいい例だと言わんばかりに鼻で笑う。


そんな中で何かあっただろうか?


思い出すのは心に影を落とすような暗い思い出ばかりで、何も解決しそうになかった。


今日は徒労に終わった、とでも言うようにいそいそと片付けを始めた。

そうして粗方の用事を終わらせたその後、宮田は二階の病室へと向かった。


日は疾うに暮れていた。

どんよりと厚い雲が広がっているせいで確認はできないが、鈍色にさらに無彩色を重ねたような彩度も明度も無い色が空を覆っていることでかろうじて判別できる。


雲は抱え込んだ雨粒を今にも、地面に向かって撒き散らそうと陰鬱そうに垂れ込めていた。


いつもこの時間に夕日の差し込む廊下を歩いていると目の前の自分の濃い影を踏んで歩くことになるのだが、暗いせいかそれもない。


蛍光灯がチラチラと音を立てて廊下を照らしており、薄い影が足を着くと踵を踏み鳴らす音が木霊し消えていく。


そうして扉の前に立つと、静かにノックをする。


「宮田です。今、大丈夫ですか?」


中からの返事を伺っていると、すぐに返答が来た。


「はい、どうぞ」


儚げな声が聞こえたためドアノブを押し、病室へ入った。

いつもより早い時間から病室には明かりが点り、無機質に部屋を照らしている。


ドアノブに手をかけ開けると、ベッドの上で上半身を起こしている七子がいた。

どうやら暇な病院生活の時間を持て余している様で、持ち込んだ小説を読んでいた。

ぱたん、とハードカバーの単行本独特の厚みのある音を立てて本が閉じられ表紙に彼女の白く透き通った手が置かれる。


「こんばんは」


「ああ……調子はいかがですか」


「はい、特に変わりないですよ」


七子は微笑みながら、手元にある本をサイドテーブルに置いた。

そこには他にも数冊の小説が置かれてあり、どれもこれも分厚く古びている。


蛍光灯に照らされて、昼間より幾分か真っ白に見えるシーツに包まれたベッドの端へ宮田が腰掛ける。

ギィ、と古い椅子が軋む。

耳を澄ませば二人の呼吸する音や、針の落ちた音まで聞き取れそうなくらいに静まっていた。


「退屈でしょうね……」


宮田が苦笑しながら呟くと、彼女は少し困った顔をした。


「まあ、少しだけ……」


彼女はちらりと手元に目を落とし、か細い指で掛けていた眼鏡を外してベッド脇のサイドデスクに置いた。


「でも毎日に追われなくて、とっても楽です」


それからまた、ふわりとした柔らかい笑顔を見せた。

宮田はその表情を見て、胸が締め付けられるような思いが込み上げてきた。


「もうすぐ雨みたいですね。降ってくる前に帰ろうと思ったんですが……」


窓の外を見遣る宮田の横顔は、どこか寂しげに見えなくもなかった。

雨が降り出す前に帰りたい気持ちは山々だったが、宮田はどうしても彼女に訊いておきたかったことがあったのだ。


「名無さん、一つ聞いてもいいだろうか?」


宮田が改まってそう切り出したため、彼女も何かを察して背筋を正す。


「はい、何でしょうか?」



「やはり、記憶が戻らないことに不安を感じてはいないか?」



その言葉を聞いて、一瞬だが七子の顔から感情が消えた。

しかしそれは本当に刹那の出来事で、次の瞬間には元の穏やかな表情に戻っていた。



すると七子は少しばかり考えを巡らせ、ぽつりぽつりと宮田の問い掛けに答え始めた。



To be continued…





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