03
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「記憶が戻らないことに、不安を感じてはいないか?」
「えっと……」
突飛な質問を投げ掛けられ、言葉に詰まる七子。
思いがけないものであったためか、何とか言葉を返そうと思案しつつ視線を空へと泳がせる。
そんな挙動不審になった七子を思いやってか、宮田が声を掛けた。
「いや、悪い。話しづらかったらいいんだ。私もそれなりに嫌な人生を送ってきたものだから……」
「……正直、何も思い出せないのは怖いです。でも、仕方がないことだと思っています。それにこうしてお世話になっているだけでも、十分過ぎるほどですから……」
そう言って、今度は申し訳なさそうに眉尻を下げて笑う。
宮田はそんな彼女を見ていると、自分が責められているような気がしてならなかった。
「辛く、ないのか?」
絞り出されたような声での問いかけに、彼女は首を傾げるだけだった。
そしてしばらく沈黙が続いた後に「私は大丈夫ですよ」と付け加えた。
しかし宮田にはそれが強がりにしか聞こえなかった。
─この子はきっと、心の奥底では泣いているに違いない。
根拠のない確信だった。
すると外からは抱えきれなくなった雨粒をいつの間にやら散らして、しとしとと音を立て大地に降り注いでいた。
「……」
宮田は何を思ったのだろうか、僅かだが眉間に皺を寄せる。
「何で無理をする?」
「……?どういうことですか……?」
「何故、そうまでして我慢する。どうして自分を偽ろうとする?」
「べ、別に……嘘なんてついてませんよ」
「いや、ついている。じゃあ、何故泣きそうな顔をしているんだ? 本当は辛いんじゃないのか」
「……」
宮田の言葉に、七子は何も言い返すことができなかった。
図星なのだ。
彼女は確かに、自分の記憶が戻ることを望んでいた。
しかし、同時に恐れてもいた。
思い出してしまうことによって『記憶のなかった七子』という存在が消えてしまうのではないかと。
だから必死になってそれを隠していた。
だが宮田には全てを見透かされているようで、七子は俯いたまま黙り込んでしまった。
宮田は彼女が自分と同じように不遇の境遇であることを知っていたためか、尚のこと放っておけなくなってしまったようだ。
「名無さん、悩みっていうのは内に抱えるものではないと思うんだ。誰かに話せば幾分か楽になることもある」
すると宮田は、七子の目を見つめて言った。
その瞳には、微かに哀愁の色が滲んでいるようにも見えた。
宮田は彼女の気持ちを少しでも軽くしてあげようと、ゆっくりとした口調で続けた。
それはまるで、自分に語りかけるかのように。
自分自身を納得させるかのようなものだった。
「信頼できる人に自分の思いを伝えてみなさい。
そうすれば、きっと受け止めてもらえる。
きっと何かが見つかる……」
宮田の口から出る一つ一つの言葉が、不思議と胸に染み渡っていく。
彼女はそんな感覚を覚えながら、宮田の話に耳を傾けていた。
そして彼の言う通りだと、彼女は心のどこかで思っていた。
「……」
そうして宮田は椅子から立ち上がり、病室から出ようと踵を返し七子に背を向けた瞬間。
彼女は無意識のうちに、宮田の白衣の袖を掴んでいた。
彼は振り返ると驚いた表情を見せたが、すぐに優しい眼差しに変わった。
そして彼女の心中を察したかのように宮田は七子の目線に合わせてしゃがみこみ、優しく柔らかな声音で言った。
「……どうした?」
彼女の顔には暗い影が落ち表情は読み取れないが、その手は微かに震えており、藁にもすがるようにも見える程痛々しいものだった。
「私……」
「うん」
「何でこうなったのか、思い出したいです!」
そう言って七子は、堰を切ったように涙を零し始めた。
「両親がいなくなった理由も聞かされないで、いつも考えないようにして笑ってるのは……嫌です!」
それは今まで溜め込んでいたものを吐き出すかの如く、止めどなく溢れてくる。
宮田は、そんな七子の頭を撫でた。
「……そうだな。きっとそれが一番いい」
そう呟くと彼女は嗚咽を漏らしながら、何度も小さく首肯する。
そんな彼女を見ていると、宮田は胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「信頼してくれて、ありがとう」
そう言って、宮田は彼女を抱き寄せた。
宮田の腕の中は温かく、とても安心できる場所のように思えた。
七子は宮田に抱きつき、静かに涙を流し続けていた。
すると宮田は彼女の背中をさすりつつ、そっと口を開いた。
そして何気ない一言が、七子の心を揺さぶる。
「俺は七子さんの想いを、ちゃんと受け止めますから」
「どうして……? どうして、そこまでしてくれるんですか?」
声を震わせながら、宮田の顔を見上げる。
そこには先程の悲しげなものとは違い、慈愛に満ちたような笑みがあった。
─この人は、本当に私のことを想ってくれている。
そんな気がしてならなかった。
そして宮田は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
それは、彼にとっては当たり前のことだったのかもしれない。
「誰にも言えないという気持ちがよく分かるからだ……」
自分の過去と重ね、未だに色濃く残る母親の存在を怖がり言いたくても言えなかった。
小さい頃からの英才教育で失ったものは、兄への羨望から嫉妬や憎しみといった醜い感情へと変化していった。
彼自身も他人へと背負わせまいと、暗い過去の中へと封じ込めていた。
しかし医者という仕事に就き様々な人と関わり合ううちに、その闇が少しずつ晴れていく。
すると自分の中に渦巻いていた負の感情が、いかに幼稚で愚かだったのかを思い知らされた。
宮田は過去に囚われていた自分を恥じ、そして後悔したのだ。
だからこそ、七子には同じような思いをさせたくないと思っていた。
「……!」
宮田の言葉を聞いた七子は、思わず息を呑んだ。
そして彼は、さらに言葉を続けた。
「泣きたい時には泣けばいい。七子さんには無理してほしくないんだ」
それは七子の心に染み渡り、心の奥底に秘められていた想いを引き出してくれた。
彼女は宮田の胸に顔をうずめ、声を上げて泣く。
宮田はそんな七子の頭を優しく撫で続けた。
彼の暖かく大きな手は、七子の心の中の冷たい氷を溶かしてくれるようであった。
記憶を失ってから今まで、誰にも言えなかった思い。
今までの楽しかったことも、辛かったことも全て忘れてしまう恐怖。
自分が自分でないような、赤の他人であるかのような感覚に陥ってしまう。
自分が築いてきたものが一瞬にして音を立てて足元から崩れ去っていった。
そして、記憶が無いが故に自身のことを自分であると認めてあげられない虚しさ。
その全てが、とても辛かった。
さらに自分が弱音を吐くことで、誰かがそれを背負い重荷に感じてしまうのが許せなくて、ずっと我慢していた。
でも本当は誰かに聞いて欲しくて、誰かに受け止めて貰いたくて仕方がなかった。
だからどれほど辛くても、どれほど苦しくても、笑ってさえいれば良いと思っていた。
そうしていれば、要らぬ心配も自分が重荷を背負っていることに気づかれないと思っていた。
それが目に見えない所で、自分自身を傷付けていても。
自分自身の心を抉り取っていても。
相手が幸せならば構わなかった。
だが宮田は、それを受け止めると優しく言ってくれた。
その一言で、七子は救われた気がした。
そこで七子は気づいた。
誰かとこんなにも近い距離で触れ合ったことがなかったことに。
そして、今まで誰とも深く関わろうとしなかったことを。
今まで誰にも打ち明けられなかったことを、吐き出すことができた。
今まで誰にも見せなかった弱い部分を、曝け出すことができた。
それは七子にとって、今までの人生の中で一番幸せな瞬間だった。
「やっぱり先生は、優しいですよ」
「そうか?」
「はい、とても」
「……ありがとう」
七子は宮田の胸に顔を埋めながらそう言うと、彼は優しそうな声で礼を言った。
そうして七子は、宮田の胸元から顔を上げた。
「すみません……もう、大丈夫です」
「そうか」
宮田は微笑むと、そっと立ち上がった。
七子は宮田を見上げ、感謝を伝えるように頭を下げた。
「ありがとうございました。おかげで気が楽になりました」
「そう言ってもらえるなら、良かった」
「あの……」
「ん? どうした?」
「また先生の所にお話をしに行っても、良いですか?」
「ああ、もちろん。診察時間外の俺がいる時なら、いつでも院長室に来るといい」
「はい!」
「じゃあ、また明日」
「はい、また明日」
宮田が部屋を出て行くまで、七子はその背中を見送っていた。
その顔には、先程までの悲痛な表情はなく、どこか晴れやかなものであった。
To be continued…▼▲▼
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