04


「七子さん、おはよう」


「おはようございます」


彼女にとっていつもの日課となった回診に宮田が来ていた。

羽生蛇村に来る前には身体の不調が多く精神的にも不安定性が目立ち、それは記憶が無くなってしまった時から始まっていた。

しかしここ羽生蛇村での落ち着いた暮らしは着実にその不調を取り除いてくれているのは間違いなかった。


「最近、体調の方はどうです?」


「お陰さまで、嘘みたいに良くなりましたよ」


「では、今週末にでも退院できるよう手続きをしていきます。宜しいですか?」


「はい……」


「詳しい話は、次の診察でお話ししますので」


七子は素直に喜べずにいた。

彼は記憶の無い彼女に前を向いて歩けるようにそっと背中を押してくれた、言わば恩人のような存在であった。

そんな心の支えを抜きにして、全てを忘れてしまった元の生活に戻るのはこの上なく不安に思われた。

帰らなくてはいけないのに、ここでの暮らしが充実していていつまでも居たいと強く願ってしまう。


七子は自分でもわかるくらいに複雑な心境になっていた。

何か言わなくてはと思えば思うほど、自分の感情が絡みつき喉から言葉が出てこない。


すると宮田は傍らの看護師へ先に戻るようにと指示した。

そうして病室に二人きりになったところで、宮田は口を開いた。


「元の生活に戻りたくないんだろう? 記憶を失くしたままで」


七子は目を見張り、宮田の顔を見つめた。

こくんと小さく頷くと、そのまま俯いて病室の白い床を見つめる。

どうしたものか、と宮田は小さく呟くと少しの思案の後、彼女の思ってもみなかった言葉を口にした。


「私の家に来ますか? 七子さん」


「えっ!?」


思わず顔を上げると、宮田は真剣な眼差しを向けている。

七子の頭の中で宮田の言葉が何度も繰り返され、その意味を理解しようと必死になる。

そうしてその意味をようやく理解した彼女は、途端に様々な思いが駆け巡っていく。


「え……? えっと、その……」


その一言を口に出すだけでも精一杯であった。

オロオロとしている彼女の様子を見兼ねた宮田は、更に続けた。


「記憶喪失のまま元の生活に戻っても、きっとまた辛い思いをするだけだと思うからな。それならば、いっそのこと私の家で一緒に暮らす方が安全だと思ったのだが……嫌なら、構わない」


「そんな、嫌だなんて。本当に良いんですか?」


「こういう時に嘘をつくほど、まだ根は腐ってはいないから安心してくれ」


「それなら、お願いします……!」


七子は大きく頭を下げて、ありがとうございますと付け加えた。

無事に退院の手続きが終われば、週末には彼の家に行くという約束を交わした。

帰る家を見つけることができたのは七子にとっては何よりだったのだろう、とても嬉しそうにしていた。


「後はどうにかしておくから、待っておいてくれ。私が出勤している時は……知り合いにでも世話を頼んでおくから」


すると彼は、踵を返し扉へ歩いて行った。


「あの……!」


扉へと手をかけた宮田の背中へと、七子は咄嗟に声をかける。


「宮田先生、何もかもありがとうございます!」


「いや、気にしなくていい……」


そう言った宮田の顔には、微かな微笑みを湛えているように見えた。

扉がパタンと閉められ、七子は一人、宮田の優しさを噛み締めていた。


彼女は両親を亡くした後から遠い親戚に引き取られ、迷惑にならぬよう自分の気持ちを言わないようにしていた。

それはここでも例外ではなく、しかし彼は七子の心を読めるかの如く言葉にしてくれた。

抑圧された幼い頃を過ごしてきた宮田は人の感情というものに一番敏感であり、波風を立てないように暮らしていからと言う皮肉めいたものであるかもしれない。

どちらにせよ二人には似たような不遇の過去によって、惹き付けられているかのようだった。


「お礼、ちゃんとしないとなぁ」


ベッドの上に座りながら、ぽつりと呟いた。


すると半分ほど開けられた窓から青嵐が吹き込み、カーテンを揺らす。

それに呼応するように、窓辺に置かれた花瓶の花も揺れた。


「……」


七子は、その風につられるように視線を上げると晴れ渡った蒼空が見えた。

いよいよ風薫る清々しい初夏の季節である。


夏至がすぐ目の前に迫っているためか、太陽はすでに高く昇っていて夏の様相をしていた。






あれから数日が経ち、退院の手続きが終わったようで荷物をまとめて病院を出ると、そこには宮田が待っていた。


「すみません、お待たせしました」


「いや。じゃあ、行こうか」


「はい」


二人は車に乗り込み、宮田の自宅へと向かう。

その間、会話らしいものはなく静かな時間が流れる。

しかし気まずさはなく、むしろ心地良ささえ感じていた。


「着いたぞ」


車を降りると、そこには村で唯一のアパートがあった。

最近の羽生蛇村は開発が著しいようで、村の中心部にはコンビニや公園などができ始めていた。

そのためこの辺りでは、比較的新しい建物が多い印象を受ける。

その中でも一際目立つのがこのアパートで、築年数はそれなりに経ってはいるものの、綺麗に保たれており、管理が行き届いているのがわかる。


「ここの2階です。どうぞ上がってください」


階段を登り、部屋の前に立つと宮田が鍵を取り出しドアを開ける。


「お邪魔します……」


玄関に入ると、そこは小奇麗にされており、宮田の性格が伺えた。


「適当に座ってくれ」


「わかりました」


宮田は台所でお茶の準備をしている。

七子はソファーへ腰掛けると、部屋を見渡した。

本棚には多くの本が並んでおり、医学書らしきものも見受けられることから、宮田は医者としての仕事を全うしていることが窺われる。


「どうした?」


「いえ、何でもないですよ。ただ、凄いなと思って」


「ああ、これか。仕事柄、どうしても増えてしまうんだ」


宮田は表情を変えずに答えると、テーブルの上にカップを置いた。


「ありがとうございます」


「今日はもう遅いから、風呂に入って寝ると良い。明日は土曜日だから、ゆっくり休めるはずだ」


「はい」


「そこの部屋は誰も使っていないから、自由に使ってくれていい」


すると宮田はリビングに面するドアを指差した。


「ありがとうございます」


そう言うと、七子は深々と頭を下げる。


「実家から持ってきた生活必需品はあるはずだが、足りないものがあればまた買いに行こう」


「はい、お願いします」


「それじゃあ、ゆっくり休むといい。私は隣の部屋に居るから何かあれば呼んでくれ」


「はい」


七子が返事を返すと、宮田はそのまま向かいの部屋へと姿を消した。


「ふぅ……」


七子は小さく息を吐くと、ソファに体を預けた。


「まさかこんなことになるなんてなぁ」


記憶喪失になった時も驚いたが、こうして宮田の家に住まわせてもらうことになろうとは思いもしなかった。


これからの生活は、今までよりもずっと楽しくなるに違いないと確信していた。




To be continued…





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