01


世の中はいよいよ梅雨入りを迎え、傘の手放せない空模様が続くとテレビの天気予報士がそう告げている。

ここ羽生蛇村も梅雨に入り雨ばかり降っており、初夏の太陽を拝むのはいつになるなのだろうと考えてしまう。

そういう天気だと言われればそれまでなのだが、やはりこの季節になると夏が待ち遠しくなるのはそれも確かなのである。

天気予報を知らせ終えたテレビでは三隅郡のローカルイベントの生中継がされており、宮田はぼーっとその様子を眺めている。


最近はといえば、継続的に灰色の雲が立ち込め、朝から夕までなかなか途切れることがなく、雲間が切れ白く輝いたと思うとすぐさま新しい雲が太陽を覆い隠していく。


そしてふと気がつくと窓の外では雨音が耳を打ち、ぽたぽたと小気味いい音を響かせながら雨垂れとなり窓を叩いている。


「なかなか気分も晴れないものだ……」


テレビから目線を落とした宮田がそう呟く。

リビングに置いてある無垢材でできている木製のテーブルの上で、湿気で少し柔らかくなっている回覧板の書類へ目を通しながら、同じ足を組み続けて痺れそうになっている足を戻した。


そしてキッチンに設置してあるコーヒーメーカーへと向かい、カップに八割ほど注ぐ。

するとコーヒーポットを傾けた瞬間、苦味を含んだ芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。


十分に温まっているそれを啜ると、香り、苦味、酸味に至るまで、バランスのとれた正統派ないつもと変わらないものであった。

コーヒーの王様と呼ばれるブルーマウンテンだが、ここまでいい香りと味わい共に極まるものは他にない。

体へと自然と染み入ってくるようである。


宮田がコーヒーを啜っていると、リビングへと繋がる七子の部屋の扉が開かれた。

どうやら七子の目が覚めたようで、ルームウェアであるワンピース姿で現れた。

宮田にとって同居人がいるというのは、彼女がここに越して来てからある程度経つものの少し慣れない様子である。


「おはよう、七子さん」


コト、とコーヒーカップがテーブルの上に置かれ白く長く湯気を昇らせている。


「おはようございます」


「いよいよ、羽生蛇村も梅雨入りだそうだ。今、コーヒーを注ぐから待っててくれ」


「じゃあ、雨が多くなりますね……。ありがとうございます」


そうして宮田は言うが早いか、真っ白な陶器のソーサーとカップを食器棚からひとつ取り出して再び香り高い飲み物を注いだ。


彼女の座る所まで運び、しなやかにソーサーの上へカップを置いた。

そして続けざまに喫茶店で出てくるようなシュガーポットと小さなミルクピッチャーが七子の前に置かれた。


「好きに使っていいぞ」


「なんだか、カフェみたいですね」


「そうだな。自分の家くらいは、くつろげる場所にしたかったからな」


そして七子の前の椅子へと座り、ひと口またひと口とゆっくり啜っていった。

彼女も目の前にある角砂糖二つとミルクを少し垂らし、その香りに舌鼓を打った。


「美味しいです」


七子が素直に感想を言うと、宮田は嬉しかったのか微笑みを浮かべた。

そんな宮田を見て、少し照れ臭くなった彼女は話題を変えた。


「ところで今日は何をするんですか?」


「ん? ああ、ちょっと買い物に出ようと思っててな。ついでに七子さんも、何か必要なものがあったりしないか?」


「確かにもうすぐ無くなりそうなものがあって……お言葉に甘えてもいいですか?」


「構わないよ。俺も買い出しをしないといけないところだったから」


宮田は黒のスラックスと白いワイシャツを着て、玄関で革靴を履いている。


彼が履き終えると七子が着替え終わったのか、ふわりとしたワンピース姿でその後ろ姿を追いかけた。

そして扉を開ける前に彼が振り返ると、ちょうど彼の目線と七子の目線がぶつかり、彼女は少し頬を赤らめた。

すると、ふいに彼は目を細め手を差し出した。


「さあ、行こうか」


差し出された手に視線を落とすと、それは手を繋ごうという意味だと理解した。


「はい」


七子はそう呟きそっと指先を伸ばすと、大きな手が包み込むように優しく握りしめてくれた。


その瞬間どくんと心臓が大きく跳ね上がり、全身の体温が一気に上昇していくような感覚に襲われる。

しかしそれは決して嫌なものでなく、むしろ心地よいものであった。


そして二人は駐車場に止めてある車に乗り込むと、出かけて行った。

天気があまりよくないせいなのか、それともこの村自体が過疎化が進んでいるせいか、すれ違う人の姿はほとんど見当たらなかった。


二十分ほど車を走らせると、ようやく村の中心部にある商店街へと辿り着く。

ここの村は三方を山に囲まれており、特に村外れに行くにつれて深い森が連なる。

そのため生活に必要なものは、大抵ここで事足りてしまう。

ここには食料品店を始め日用品雑貨屋、電気機器販売店や衣料品店などが軒を連ねていた。

また、この村の名物である羽生蛇蕎麦を扱う大衆食堂もあるため、昼食はこの店で済ませるという村人も少なくない。


二人がまず向かったのは、スーパーマーケットであった。

店内に入るとひんやりとしており、湿気を吸った肌に心地よかった。

宮田がカートを押して店内を巡り、商品を眺めつつ、時折会話を楽しんでいた。



そうして買うべきものを全て買い終えると、再び車に乗り込んで帰路についた。

行きよりも雨足が強まったようで、空一面が灰色に覆われ、雨粒がばらばらとフロントガラスを叩き続けていた。


「これは止みそうにないな」


宮田はワイパーを動かし、窓の外の景色を覗く。


「天気予報では、夜遅くから晴れるって言ってましたけど……」


「ならそれまでの辛抱だ。それにしても……」


「はい?」


「まるでデートみたいだなと思ってね」


七子は、どきりと心臓が高鳴った。

今まで宮田と二人きりで買い物に出かけたことは何度もあったが、改めてそう言われると意識してしまうのも無理はない。


だが彼女は、平静を装い言葉を返した。


「そ、そうですかね?」


宮田はハンドルを切りながら、苦笑する。

そんな彼を横目に七子は、どこか安心感を覚えている。


自分にはもう帰る場所がないと思っていたが、今こうして彼と共に過ごす時間が何より幸せに思えたのだ。

きっとそれは宮田も同じなのだろう。

でなければ、こんなにも穏やかな表情で運転などできないはずだ。


それから車は村の中心を抜け、家路へと向かう。

雨の音が一層強くなっていく中、七子はふと思ったことを口にした。


「このままずっと、二人で暮らしていけたらいいな……」


思わず口をついて出た言葉に、七子自身が驚いた。

すると、隣の運転席から小さく笑う声が聞こえてきた。


「ははっ、それは光栄だな」


どうやら彼の耳には届いていたようで、彼女は恥ずかしくなり、つい誤魔化すように言った。


「い、今の! 聞かなかったことにしてくださいっ!」


宮田は、くすくすと笑いながらもしっかりと返事をした。


「わかったよ。でも、俺も同じ気持ちだな……家に帰った時に待っていてくれる人がいるのは、ありがたいからな」


その言葉に七子は胸の奥が熱くなるのを感じた。

自分の存在が、誰かにとって必要とされていることが何よりも嬉しかった。




夜になると予報通り、雲間から月明かりが漏れ出してきた。

まだ少しだけ小降りではあるが、朝方に比べればだいぶ弱まっている。


自室で布団にくるまりながら、七子は天井を見つめていた。

そして昼間の出来事を思い出すと、自然と口元に微笑を浮かべてしまう。


あれは紛れもなく幸せな時間だった。

これからもずっと、あんな時間が続けばいいのにと心の底から思った。


しかしながら幸せを感じると同時に、不安が募ってくる。


自分は、本当にここにいてもいいのだろうかと。

そもそも何故自分がこの村にやって来たのか。

その理由すら思い出せないというのに。


記憶が戻るまで居座っているのは迷惑ではないのか。

考えれば考えるほど、悪い方向へと考えが巡ってしまう。

そしてその思考はやがて最悪の結末を迎える。


もしも、このまま記憶が戻らなかったら?

もしそうなってしまった場合、自分の居場所はどこにあるのだろう。

仮に宮田との生活を続けていくとして、そこに自分の居場所はあるのだろうか。


そう考えた途端、ずきんと頭が痛んだ。

まるでこれ以上先を考えることを拒んでいるかのように。


「い……い、たっ……」


痛みは次第に増していき、七子は耐えながら部屋の電気をつけようと手を伸ばす。

だがその手は宙を掻くばかりで、何も掴めずサイドテーブルに置かれている物が倒れ、次々に床に落ちていった。


呼吸も浅く早くなり、次第に恐怖によりままらなくなっていく。


すると突然部屋の扉が開いた。

慌てて顔を上げると、そこには心配そうに見下ろす宮田の姿があった。


「おい! どうした!」


彼はすぐさま駆け寄ると、七子の肩に手を当てて顔を覗き込んだ。

彼女の目には涙が浮かんでおり、過呼吸を繰り返しているためか指先が強ばっていた。


拭う余裕もないくらい、頭の中で何かがぐるぐると渦巻いているような感覚に襲われ、吐き気さえ覚えるほどであった。


宮田は七子の身体を抱き寄せると、背中をさすり始めた。


「……大丈夫だから。大きく息を吸ってから……ゆっくり吐いてごらん」


その行動がきっかけになったのだろう。

初めはぎこちなく深呼吸をしていた七子だったが、だんだんと落ち着いた様子を見せた。

それを見て安堵した宮田は、ゆっくりと彼女から離れると、背中を支えながら布団の上に寝かせると、ベッドの上に座った。


ようやく落ち着きを取り戻した七子だったが大きく深呼吸を繰り返し、まだ頭痛が残っているようで額には汗が滲み出ている。

そんな彼女を労わるように、宮田は優しく語りかけた。


「落ち着いたか?」


そう問いかけると、彼女はこくりと小さく首を縦に振った。

宮田は、そんな七子を安心させるように頭を撫でる。


「良くないことを考えてしまったんだろう?」


その問いに、七子は黙って目を伏せる。


宮田は七子の頬に手を添え、親指で目尻に浮かんだ涙の粒を拭ってやった。

そして優しい口調でこう続けた。


「俺はね、七子さんがいてくれて良かったと思っているよ。確かに最初は戸惑うことばかりだったけど、今では一緒に暮らすことができていることに感謝している」


「でも……」


「それに七子さんは、知らず知らずのうちに俺のことを救ってくれたんだよ」


「え……?」


「俺の過去を受け入れて、寄り添おうとしてくれた」


「……」


宮田の言葉に、七子は思い当たる節があるようで、どこか申し訳なさげな表情を浮かべている。

すると、宮田は小さく笑って言った。


「俺も七子さんと同じなんだ」


彼もまた、過去に囚われている人間だった。

彼が抱えている苦しみは、他人では到底理解できないものであろう。

だからこそ、自分と同じように苦しんでいる人間を救いたいと思っていたのだ。

そして、その相手が七子だったというわけである。


「だから君が記憶を失っているとしても、これからゆっくり取り戻していけばいい」


宮田は七子の手に自分の手を重ねると、ぎゅっと握りしめた。

そして穏やかな笑みを浮かべながら言葉を続けた。


それはまるで、誓いを立てるかのような言葉だった。



「焦らずに、二人で前に進んでいこう」



その言葉に、七子は静かに涙を流した。

そうしてそのまま彼の胸に顔を埋めると、そっと抱きついた。

宮田も彼女の背中に腕を回すと、包み込むようにして抱きしめた。

二人の距離はより一層近づき、お互いの体温を感じ合う。


「もし辛いことがあれば、いつでも頼ってほしい。俺にできることなら何でもするから」


それは彼なりの優しさであり、精一杯の気持ちの表れでもあった。

そんな想いに応えるべく、七子は彼の胸の中で小さく呟いた。


「ありがとう」






翌朝、雨は完全に止んでいた。

七子は起きてから、リビングの遮光カーテンを開ける。

すると、眩しい日差しが部屋に差し込んできた。


そしてベランダに出てみると、そこには青々とした空が広がっていた。

その景色を見た瞬間、七子は思わず歓声を上げた。


「わあ、良い天気……」


天気が良いだけで、こんなにも気分が変わるのかと思うほど晴れやかな朝を迎えていた。

すると宮田の部屋の扉が開き、寝起きでいつもよりも気怠げな顔をした宮田が出てきた。

彼は軽く伸びをすると、七子の姿を見つけて声をかけた。


「おはよう」


その挨拶に、七子も屈託のない笑顔で返す。



「おはようございます、宮田先生!」




To be continued…





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