(※前話「愛」からお話が続いていますので、そちらからお読みください。)


次の日の夜、二十三時。
遂にプロジェクトDの威信をかけた、遠征での初バトルが始まろうとしていた。

啓介はチューニングの済んだFDに乗り込むと、エンジンを始動させた。
すると辺りにはマフラーから出る、低く太いエキゾーストノートが響く。

そしていつものように暖気を済ませ、ロータリーエンジンのパワー感触を確かめる。

「どうです? マシンの方は」

七子が傍へと駆け寄り、啓介に訊ねる。
彼はニヤリとした表情で、親指を立てながら答えた。

「いいんじゃねえか」

それは自信に満ちた一言だった。
返事を聞いて彼女は安心したのか、ホッと胸を撫で下ろす仕草を見せる。

しかしそれも束の間、すぐに真剣な顔つきになると彼に言う。

「昨日の啓介さんの調子なら、きっと大丈夫です」

その言葉を聞くと、いつもの余裕ある笑みを浮かべた。
そして彼女の肩に手を置くと、軽く叩くようにしながら言った。

「まあ、見てろって!」

彼の力強い言葉を聞き、七子も微笑む。

「二人とも、こっちへ来てくれ」

涼介の呼ぶ声が聞こえたので、二人はそちらへと向かう。

するとプロジェクトDのメンバーの他に、相手チームの面々も集まってきていた。

まずはこちら側から自己紹介を始めるようだ。
リーダーである涼介が最初に口を開く。

「今日は依頼を受けていただき、ありがとうございます。こちらのドライバーは、ヒルクライムが高橋啓介で……ダウンヒルが藤原拓海です」

そう言って相手側は、彼らに視線を送る。
啓介は片手を上げて応える一方で拓海は、いつものように飄々とした様子で丁寧に会釈をした。

そんな二人の様子を見ると、相手のチームのリーダーらしき人物が話し始めた。

身長が高く体格の良い強面の男で、年の頃は二十代半ばといったところだろうか。
見た目だけならかなり迫力があるのだが、口調や雰囲気はとても穏やかだった。

おそらくこの男がリーダーであり、峠最速の称号を持つ人物なのだろうと啓介は思った。

そしてドライバーの紹介を終えると、ルール説明に移った。

ルールはこうだ。

先に伝えられていた通り、峠バトルではベーシックな先行後追い方式で行われることになった。

初めにヒルクライム、そしてダウンヒルを順番に行い三戦しても決着がつかなければ、タイムアタックで順位を決める。

こちら側はアウェイのフィールドであるが、先行することになった。

「先行ですか! 驚いたなあ……」

相手のリーダーは、心底驚いているようだった。
涼介は相手チームに対して、余程自信があるように見えた。

「本当ですか? 私たちにとって、これはハンデにはなりませんよ」

そう言って涼介が微笑むと、彼は一瞬ひるんだような表情を見せた。
だがすぐに気を取り直したのか、強気に言い返してきた。

「楽しみにしてますよ」

お互い譲れないものがあるようで、言葉の端々に棘があった。

またコースアウトによるクラッシュなどがあった場合は、即刻中止になる。
ただしレース中の事故などによる死亡・負傷については一切責任を取らない。

これらのルールを確認すると、いよいよバトル開始となった。

「あっちのリーダーよぉ……こちらは後追いで結構・・・ですよなんて、ナメられたもんだぜ」

「相当、自信があるんですね。離されるよりも、抜かれる方が格好つかないですしね」

「ブッちぎってやるから見てろよ、マジで……」

スタート地点へ向かう途中、啓介と拓海が会話を交わす。

すると背後から涼介が近づいてきて、二人に声をかけた。
振り返った啓介に向かって、彼は告げる。

「啓介、速く走るコツはなんだ?」

唐突に問われたことなので一瞬戸惑ったが、啓介はすぐに答えることができた。

なぜなら彼自身も常に意識していることだからだ。

「そんなん、速く走ることに決まってんだろ!」

それはまるで禅問答のような回答だったが、それで良かったらしい。
彼は満足げに笑うと、啓介の肩を叩きながら言った。

「よし、行って来い。俺たちはお前が先にゴールするのを上で見届けてやるよ」

「おう! 待ってろよ」

啓介はゆっくりとFDに乗り込みエンジンをかけると、スタート位置へと並んだ。
そしてステアリングを握り、深呼吸をすると目の前に伸びる峠道を睨んだ。

「よし……!」

彼は車の後方に立っている七子の姿をサイドミラーで確認する。
そして彼女が自分のことを信じているということを思い出すと、気持ちを引き締めた。

道の両脇に所狭しと並ぶ多数のギャラリーたちが見守る中、相手チームの車も啓介の後ろへと並んだ。


すると涼介は相手チームのリーダーと再び会話すると、戻ってきた。

「よし、皆……これから、車に乗ってゴールまで移動する」

「はい!」

全員の声が揃う。
そして涼介の指示に従い、各自の車に乗車した。

七子と拓海が乗る車は、助手席の窓を開けて外の様子を眺めていた。

すでにコースの至る所に多くのギャラリーが集まり、興奮した様子で見守っていた。
その中にはプロジェクトDを応援する声も多くあった。

「お願い……!」

七子は祈るような思いで、啓介の勝利を願っていた。

先行方式のレースとはいえ、バトルの勝敗はドライバーの腕次第であることに変わりはない。
特に今回の場合、アウェイのバトルフィールドということもあって啓介には不利な状況である。

それでも彼がいつも通りの走りを見せてくれることを、彼女は信じていた。

「七子、あいつなら大丈夫だろう。信じて待とう」

涼介の言葉を聞いて七子は小さく微笑むと、力強く答える。
そして啓介の無事を祈りつつ、バトルの行方を見守ることにした。



一方、峠の入口では涼介たちがゴールの方へ到着し、コースがクリアになったと報告を受けたスターターを務める人物が、カウントダウンを始めた。

十秒前、九秒前……。

カウントが進むにつれ、ギャラリーたちの歓声が大きくなっていく。

五秒前、四……。

そこで啓介は自分の身体に緊張が走るのを感じ、それと同時に不思議な高揚感を覚えた。
啓介はその感覚を楽しむかのように、静かに笑う。

三、二……。

そして両者はアクセルを煽りながら、エンジンを吹かすとクラッチを繋ぐ。

一、ゼロッ!

その掛け声と共にスターターが勢いよく腕を振り下ろすと同時に、両者はサイドを下ろしスタートを切った。

最初に飛び出したのは啓介のFDで、彼はギアを上げると一気に加速していく。
しかしそれを相手チームも追走する形で続くと、そのまま最初のコーナーへ突入し姿を消した。

山の木々の間を縫うように、テールランプが見えたと思うと消えていく。
それを見てギャラリーたちは、興奮した様子でざわついていた。


啓介は、順調にコースを消化していった。

序盤こそ相手との距離が近かったものの、次第に差が出てきたようである。

バトルは終始、こちら側のペースで進んでいた。
しかし相手も引き下がることなく、食いついてくる。

この辺りは、さすが地元でも有名なチームなだけあるなと啓介は思っていた。
サイドミラーにチラつく相手のヘッドライトを恨めしそうに見ていた。

「くッ……! しつけぇな!」

啓介は、昨日の夜に七子とプラクティスをしていた時のことを思い出していた。

その時にも思ったが、やはり彼女のナビゲーションのテクニックはかなりのもので、適切なタイミングで的確な指示を出してくるのだ。

初めて組んだとは思えないほどスムーズな連携が取れていたし、もちろん自分が彼女を信頼しているのもあるが、それ以上に彼女の実力が抜きん出ているのだと感じた。
おかげで啓介が迷うことはほとんどなく、スムーズにコースを走り抜けることができた。

しかしバトルが長引けば、それだけ手の内を明かしてしまうことになり、相手に対策を立てられてしまうリスクもある。


「なら、ここのへんで腹ぁ括るしかねえだろッ!」


『100、スルーナローブリッジ、サドゥン4レフトに繋げて……ギャップでラインを乱されないように!』


頭の中に響く七子の声に従って、啓介はドリフトでコーナーをクリアする。

タイヤのグリップの限界ギリギリまで使い、オーバースピードにならないよう気をつける。

それでも相手も負けじと食らいついてきた。

(コイツ、シャレになんねえ! まあでも、こんなの俺だってまだ序の口だっつーの!)

啓介は内心で相手チームのレベルの高さに舌を巻いた。

だが、ここで諦めるわけにはいかない。
自分はこんなところで立ち止まっている暇などないのだから。
そんな彼の想いに応えるかのように、FDはどんどん加速していく。

『40、アンスィーンヘアピン、レフト……! 出口見づらいから、ここは特に形覚えて次のコーナーに繋げて!』

ギリギリまで頭を突っ込んでブレーキを踏み込み、ヒールでアクセルを煽りながら一気にギアを下げクラッチを繋ぎ、カウンターを当てる。
次のコーナーへと繋げるために、プラクティス通りの最短ラインを取る。

そしてまた、限界ギリギリのところを攻めていった。

ルームミラーで相手を確認すると、コーナー入口の手前数十メートルで三秒ほど遅れ気味になっていた。

その隙を狙って、啓介は相手に揺さぶりをかけ始めた。

ヘアピンコーナーのインを塞ぐようにしてドリフトし、コーナーの立ち上がりでわざと少しだけ内側に入り込んでいく。

相手は啓介のラインを必死に追いながら、なんとかクリアしていく。

しかし啓介は、その動きを読んでいるかのようにさらにイン側に車を寄せた。

「地元のチームだろ! 次のコーナー分かってんのかよッ!?」

啓介はバックミラーに映った相手の車を見た。

彼の脳内の七子のナビゲートは、まだ終わっていなかった。

『100、5レフトタイトゥン3、アットミラー!』

そして相手の車が彼の車より内側に入り込んだのを確認し、左コーナーの少し手前に差し掛かった瞬間、啓介は右側へ切り込むようにハンドルを切ったかと思うと、すぐさま左へ切り直す。

(フェイントモーションでも、ここならまだ間に合うッ、ラインを繋げッ!)

するとFDのイン側のサスペンションが縮み、その復元力を利用してアウト側に大きな荷重をかけていく。

そのままハーフスピンの状態でドリフトを決めながら、コーナーへ進入していった。

啓介のインを突いたライン取り、それは相手への完全なる牽制だった。

「次も、左だろうがよッ!」

彼にしては珍しい、フェイントモーションからのドリフトだった。
確かに高速域を保ったまま、タイトなコーナーに挑む際には有効な手段だ。

そして啓介のマシンにとっても、それは好都合だった。
なぜならロータリーエンジンは高回転に強いエンジンではあるものの、それ故の弱点である低圧縮比から来る低速ギアでのトルクの細さをテクニックでもカバーできるからであった。

なおかつコースの初めからブレーキングドリフトでコーナーを攻めている啓介を後追いで見ていた相手にしてみれば、今の彼の走りに驚きと恐怖を覚えたに違いない。

案の定、その動きを見てイン寄りにいた相手は焦ったようにステアリングを切り減速したが、間に合わず大きくラインを外しながら曲がっていく。

啓介はその隙を見逃さず、それを後ろに見ながらニヤリと笑うと、そのまま一気に引き離しにかかりそのまま走り抜けていった。

啓介の土壇場での決死の駆け引きを見たギャラリーたちは、今まで以上に盛り上がっていた。

『最後はキンクス! アフォン、200!』

最後のストレートに入ると、啓介は今まで以上に速度を上げた。



そしてゴール付近で待機していた七子は、聞き慣れたマフラー音が遠くから響いてくるのを感じ取った。

「涼介さんっ!」

彼女は隣の涼介の腕を掴むと、コースを見つめる。
そこには、FDが凄まじい速度で走ってくる姿が見えた。

「啓介……してやったな」

まるでロケットのような鋭い勢いで接近してくる彼に、ギャラリーたちは驚きの声を上げる。

彼がアクセルを踏むと、エンジン音がさらに高鳴る。


『啓介さんのFDの全力、魅せつけてよねッ!』


「これで! どうだッ!」


七子の声援が聞こえているかのような錯覚を覚えつつ、啓介はさらに加速していく。

そのまま彼はゴールラインを超えると、中央でドリフトをしながら減速し、スピンすることなく無事に停車した。

そして一瞬の間を置いて、ギャラリーたちから大きな歓声が上がる。

それに遅れること約七秒後、相手のマシンがゴールラインを超えた。

同時に、ギャラリーたちの興奮は最高潮に達した。
それは、地元チームが負けたことに対する悔しさや落胆といったものではなく、純粋にバトルを楽しんでいる喜びや感動によるもののようだった。

しかし、啓介にとってはそんなものは関係なかった。
今は自分の走りに満足感を得るので精一杯だ。

バトルを終えたFDは、ゆっくりと駐車場に戻ってきた。

そこでようやく、啓介は一息つくことができた。

シートベルトを締めたまま天井を仰ぎ見ると、ゆっくりと深呼吸をする。

正直かなり疲れていたが、不思議と心地よい疲労感でもあった。
そして、何よりも爽快な気分だった。

バトル前にあった重苦しい気持ちはいつの間にか消え去っていた。

車から降りると、啓介は後ろ手でドアを閉めた。

するとこちらに向かって走ってくる足音が聞こえる。
振り返ると、七子が満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。

「啓介、さんっ!」

彼女はジャンプして、啓介の首に飛びついた。
突然のことに驚いた彼だったが、なんとか倒れずに受け止める。
不意に抱きしめたことで、彼女の柔らかさと温かさを感じる。

「これは、文句ナシで勝ちですよっ!」

七子は啓介から身体を離してそう言うと、彼の勝利を自分のことのように喜んでいた。

啓介は少し照れ臭くなって顔を背けると、小さく礼を言う。

「ありがとう」

その言葉を聞いた七子は嬉しそうな表情を見せた。
すると次々にプロジェクトDのメンバーが集まってきたと思うと、それぞれが笑顔を見せながら二人に声をかけていく。

その中で拓海だけが無言だったのだが、啓介は気にしなかった。

むしろそれが一番ありがたかった。
今はただ、この余韻に浸っていたかったのだ。


それからしばらくして、啓介はメンバーと共に拓海のハチロクの元へやってきた。

「……お前のテクニックと、ハチロクのこと信じてやれ」

「拓海くん、気楽にね」

啓介と七子の言葉に拓海は静かに頷いた。
彼の目には迷いの色はなく、真っ直ぐに啓介を見つめていた。

そして、ダウンヒル戦が幕を開けた。

拓海が先行する形でスタートしたバトルは、予想通りというべきか序盤は静かな立ち上がりとなった。
だが中盤に差し掛かると、徐々に拓海のペースが上がり始めてきた。

その証拠に、相手の車が徐々に離れてきている。

それでもなお彼はいつもと同じように冷静に、そして淡々とハチロクを操っているようにしか見えなかった。
拓海はその高度なテクニックと抜群のセンスをもって、自身のペースに相手を巻き込もうしているように見えた。

そしてそれは功を奏したようで、相手は徐々に後退していき、やがて最終コーナー出口付近で完全にその姿が見えなくなった。

それを確認した啓介は、バトルが終わったことを悟る。

それと同時に、ギャラリーたちが一斉に騒ぎ始めた。
それはまるで祭りのような雰囲気となり、誰もが声を上げて盛り上がっている。

啓介も思わず苦笑いしながらその様子を眺めていると、拓海が帰ってきた。
その顔には、達成感のようなものが滲んでいるように見える。

彼はすぐに車を降り、自チームの元にやってきた。
二人は互いに視線を交わすと、啓介は拳を突き出した。

「お疲れさん」

互いの拳が軽くぶつかり合う。

「ありがとうございます」

そう言った拓海の顔はとても清々しいものだった。

その後ろでは、ギャラリーたちが拍手を送っている。

そうしてこのバトルは、プロジェクトDの勝利に終わったのだった。



日付も変わり夜も更けてきた頃、コテージのテラスに七子の姿があった。
彼女は板張りの床に座って芝生に足を投げ出し、朧気に霞んだ春の月を眺めながら、一人静かに物思いに耽っていた。

しかし少し寒かったのか、羽織ったブランケットの端をぎゅっと握りしめる。

今夜は、小さな星までがよく見える。
ここは街灯の明かりが少ないせいだろう。

つい二、三時間前までの喧騒が嘘のようで、ふと寂しさを覚える。
それはこんな夜中に一人でいるせいなのだろうが、不思議と嫌な感じはしない。

静かで穏やかな時間が流れていくのを感じながら、彼女は目を閉じた。
心地よい春の夜風が頬を撫でていき、自然と心が落ち着く。

(……でもなんか、眠れそうにないな)

しかし眠ろうと思えば思うほど、目が冴えてしまう。

今日一日、色々なことがありすぎた。
朝からレースの準備で走り回っていたせいもあるかもしれない。

結局昨日もほとんど寝ていないのに、今日は今日で興奮してなかなか眠りにつくことができなかったのだ。
このままベッドに入っても、きっとゆっくり眠ることはできないだろう。

そんなことを考えながら、彼女はゆっくりと目を開いた。

すると、背後からリビングに繋がるフレンチドアが開く音が聞こえた。
振り返ると、そこには片手にショート缶を持った啓介が立っていた。
春とはいえど肌寒いため、彼の肩には厚手の上着がかけられている。

そしてお風呂上がりなのだろうか、普段と違って前髪を下ろしている彼はどこか幼く見えて新鮮だった。

啓介はテラスに出て来るなり、手にしていたビールを一口飲んだ。

「よう、お前も寝れねぇの?」

「あはは……まあそんなところ、です」

そう言って笑う彼女を見て、啓介は何となく事情を察する。

そしてそのまま彼女の隣に腰を下ろした。

しばらくの間、沈黙が流れる。
しかし、不思議と居心地の悪さはなかった。

どちらからともなく、自然と会話が始まる。
それはプロジェクトDのことやバトルの感想など他愛もない話だった。

そんな時間がしばらく続いた後、啓介がおもむろに口を開いた。

「俺さ……七子が初めてこのチームに挨拶に来た時、めちゃくちゃ試すようなこと言ってたよな」

その言葉を聞いた七子は、当時のことを思い出す。

「あー……働きっぷりをってやつ?」

そして啓介の言う通り、最初はとても冷たい態度だったと思う。
しかし今となっては、懐かしい思い出だ。

啓介は小さく息をつくと、苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

「そうそう。すげぇ、失礼なこと言って申し訳なかったな……ごめん」

そして少しバツが悪そうな顔をしている。
七子は慌てて首を横に振った。

「えー、そんなそんな! 大丈夫ですよ」

その様子に啓介は安堵した表情を見せると、再び夜空を見上げた。

すると春独特のゆるやかな風が吹いて、啓介の亜麻色をした柔らかな髪を揺らしていく。

月明かりで浮かび上がったその横顔は、どこか切なげに見える。
何かを考えているようにも見えたが、その心中を推し量ることは難しかった。

「でも今日、啓介さんが勝ったってことは、そういうことでしょ?」

そして得意げに言う七子の言葉を聞いて、彼はニヤリと笑みを見せた。

「いやぁ? 俺のテクニックだろ?」

自信満々な彼の返答に、七子はクスッと笑って答える。

「ひどっ!」

そして二人は静かに笑い合った。

こうして二人きりになる機会はあまりなかったので、こういう何気ないやり取りが妙に新鮮だった。

「いやいや、ウソ。ごめん……お前のおかげだって」

普段の彼ならこんな風に笑い合うことはないはずで、それはきっと彼が少しだけ酔っているせいだろう。

「でしょ?」

「でも……あのコースを走るまでは走り慣れた赤城で練習してただろ? だから正直なことろ、そんな信用はしてなかった」

そう話す啓介の顔は真剣だった。

「うん……」

しかし、七子は特に気にしていない。
むしろ自分が役に立ったのだと知って嬉しかった。

それに啓介は七子のことを疑っていたわけではなく、純粋にナビゲーターとしての力を見極めようとしていただけだ。

それが分かっていれば、別に怒る理由なんてない。
彼は七子の実力を信じてくれていたのだから。

啓介は視線を空に向けたまま、言葉を紡ぐ。

「でもよ……昨日隣に乗ってもらって、指示くれてただろ?」

その言葉に七子はコクリと小さく頷いた。
啓介は横目でそれを確認してから、ゆっくりと口を開く。

「あれさ、本当に走りやすかった……的確だし、タイミングももちろん」

「そう?」

それはまるで、自分の気持ちを整理するように。
そして自分に言い聞かせるように。

一言ずつ丁寧に言葉を選びながら、彼は続ける。


「今んとこ、お前が一番かもしんねぇわ」


そして最後にそう呟いて、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
その仕草に七子はドキリとする。

彼から素直に褒められることも珍しいのに、まさか一番と言われる日が来るなど思ってもみなかった。

胸の奥がくすぐったくて、思わず頬が緩んでしまう。
それを隠すように、彼女はわざと明るい声で答えた。

「本当かなぁ?」

「マジだって」

すると啓介も笑顔を見せてくれる。

その屈託のない表情は、やはりいつもの彼と違う。
いつものクールな雰囲気はなく、年相応というよりも少年のような無邪気さが滲んでいた。

「そっか……信じますっ」

そう言って、七子はニッコリと微笑んだ。
啓介の言ったことが嘘ではないことくらい、分かっている。
きっと彼は本気で言っているのだと、そう確信していた。
そして彼は、七子の返事を聞くと安心したように大きく息を吐く。

七子はそんな彼の方を向くと、月明かりに照らされた啓介の髪が淡く金色に光っているようで……そんな彼の横顔がとても綺麗で、見惚れてしまっていた。

彼は再び夜空を見上げると、独り言のようにポツリと言う。

「これからもプラクティスは、お前と走りてぇ……そう思ってる」

その瞬間、彼の纏う雰囲気が変わった気がした。
隣に座る啓介との距離が少しだけ近付いたような、そんな感覚だった。

そしてその言葉は、決して大きな声ではなかった。
しかし静まり返った夜の空気に、不思議と響いたような気がする。

それから少し間を置いて七子が口を開いた。

「じゃあ、啓介さんの相棒として……認めて、くれる?」

その瞳は、真っ直ぐに啓介に向けられている。
そして彼女の問いに、彼はしっかりとした口調で答えた。

「……当たり前だ」

そのたった六文字の言葉が、とても重たく感じる。

今までずっと待ち望んでいたはずなのに、いざ口にされると嬉しさよりも不安の方が大きかった。
啓介が自分を認めてくれたことはとても嬉しいが、果たして自分は彼を失望させないだろうかと心配になる。

だがその迷いを振り払うように、啓介は強い眼差しを向けた。

「俺もお前に負けないようにしないとな」

そしてふっと小さく笑う。
その笑みは、普段の啓介からは想像できないほど柔らかいものだった。

彼のこんな顔を見たのは初めてかもしれない。

それはつまり、彼が七子を認めてくれたということで間違いないだろう。
それが分かっただけでも彼女は、この世界に飛び込んで良かったと思えた。

「そうだね、私も頑張ります」

二人は互いに見つめ合うと、自然と笑い合った。

七子にとって、今日という日は決して忘れられない一日になったに違いない。

きっと一生忘れないだろう。

啓介がこんなにも優しく笑ってくれたことを。
そして彼が、自分の実力を認めてくれたことも――。


「七子……」


啓介は彼女の名を呼ぶと、右手の拳を差し出した。


「これからもよろしくな、相棒」


それは彼なりの誓いだったのだろう。
その手の意味を理解し、彼女もまた自分の手をゆっくりと伸ばす。

「ふふっ、もちろんです!」

お互いの拳が、小さくぶつかる。
こうして二人の関係は大きく前進し、新たな一歩を踏み出すことができたのだった。

「あと……そのまどろっこしい敬語は、もう無しにしろよなぁ」

啓介は冗談交じりに言うと、悪戯っぽく微笑む。
どうやら彼はまだ酔っているらしい。

そんな啓介を見て、七子も同じように微笑んだ。

きっとそれは、彼なりの照れ隠しなのだと彼女は知っていた。
だから、素直じゃない彼の言葉もちゃんと聞こえていた。

彼の言葉に、七子は小さく答える。


「そうだね。こちらこそよろしくね、啓介」


そしてその言葉は、星降る夜に溶けていったのであった。



To be continued...




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