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(※前話「拙い」からお話が続いていますので、そちらからお読みください。)
あれからあっという間に三週間が経ち、いよいよ明日の夜にはバトルが始まろうとしていた。
その間に啓介と七子は、彼のホームコースで日夜練習を重ねていた。
いくらプラクティス中だけとはいえ、それはドライバーとナビゲーターという信頼関係の構築のためでもあるし、啓介のドライビングテクニックを磨くためでもあった。
そして彼の癖を知ることで、啓介により的確なアドバイスができるとともに、メカニックたちにも個癖に合わせたチューニングをフィードバックすることができる。
そうやって地道に積み重ねてきたのだ。
もちろん彼の運転技術が格段に上がったわけではないが、この三週間の間に彼はかなり自信をつけたようだった。
しかし二人の関係は、どこか一線を引いたままだ。
七子はそれを仕方ないと思っている。
それは啓介と初めて会った、あの日に言われた言葉が原因だ。
――働きっぷりを見せてもらってからだな。
七子はその言葉を反芻し、そっと息をつく。
啓介の言葉は正しい。
ならば今は目の前のバトルを見据えて全力で彼をサポートするだけだと、その気持ちを新たにした七子だった。
そしてプロジェクトDのメンバーたちは、宿泊先のコテージのリビングに集合していた。
「いよいよ明日の夜、バトルが始まる」
涼介が真剣な表情で言うと全員が無言のまま頷いた。
「相手チームのドライバーは、正直言うとお前たち二人でも……十分に通用する」
涼介の言葉に啓介は無言だったが、わずかに眉を寄せた。
それはまるで、そんな奴らと戦うのかよと言わんばかりの態度だった。
涼介はそれを察してか釘を刺すように言った。
「だが、甘く見るな。何が原因で負けるかは分からない……勝つことが決まっている勝負なんて、存在しないんだ」
確かに啓介の実力であれば、相手が誰であろうと負けることはないかもしれない。
だが油断や慢心は、必ず事故に繋がるものだ。
それに何より、啓介は自分の力を過信するあまり頭に血が上りやすいタイプであることを涼介はよく知っていた。
だからこそ、あえて厳しい現実を突きつけたのだ。
「マシンやドライバーのコンディション、路面状況、天候……あらゆる要素が影響してくる。それら全てを加味した上で、それらを味方につけた奴が……勝つんだ」
涼介の言葉を聞きながら啓介は何かを考え込んでいる様子だった。
だがすぐに視線を上げると、いつものように不敵な笑みを浮かべて言った。
「上等だ……やってやるよ」
その瞳には強い意志が込められている。
涼介はそれを見て満足げに笑うと、今度は七子の方を見た。
彼女は少し緊張しているようだが、それでも不安そうな顔は見られない。
それどころか気合いが入っているように見える。
彼女もまた、自分がサポートすることで勝利を掴むのだという決意が見え隠れしていた。
「と言うことで……今から、全員でコースの下見に行くぞ。十分後、駐車場に集合するように」
涼介の指示を受けるとチームは解散した。
すると七子は、ソファに座る啓介の元へと駆け寄った。
「啓介さん、よろしくお願いしますね」
「ああ。言っとくけど、このプロジェクトに男も女も関係ねえからな」
啓介は相変わらず、ぶっきらぼうな態度だ。
しかしそれが彼の性格なのだと知っている七子は、特に気にすることなく笑顔を見せた。
「もちろん、承知の上です!」
そんな素直に答える彼女の様子を見て、啓介は何とも言えない気持ちになった。
そう思うと、つい余計なことまで口走ってしまう。
自分の中にある複雑な感情をぶつけるように、啓介は吐き捨てた。
「……。で、なんだよ?」
「今日のプラクティスで私、こんな感じで指示出そうと思ってて……」
七子は、テーブルの上に一枚の紙を置いた。
そこにはコース図と共に走行ルートのポイントとなるところに数字やアルファベットが書かれているものだったが、それは今回のバトルフィールドとは違うものだった。
それを目で追っていた啓介は、あることに気がついた。
「あーこれ、ラリーのペースノートのか?」
「はい」
啓介の問いに七子はこくりと首を縦に振って答えた。
ラリーとはモータースポーツにおいてサーキット走行ではなく、決められた一般道でのコースでタイムを競う競技である。
その競技ではコース上に設定されたチェックポイントを順番に通過していくのだが、その際にコ・ドライバーはペースノートと呼ばれるコースに関する独自の情報を記したメモを持っている必要がある。
なぜなら一般道とはいっても狭い林道や不整地も含まれ、細かな路面状況やコーナーの緩急をドライバーに伝えなければならないからだ。
これはコ・ドラの仕事の一つで、主にドライバーに口頭で伝えるべき重要な事項を文字にして書き記しているのだ。
そしてそのノートを元に、夜でも濃霧の時でもハイスピードで走ることができる。
「なるほどな、赤城ン時もこれ使って……。ああそっか、コ・ドラ目指してんだよな」
「はい。赤城の時よりも用語が増えそうなので……それで、これを覚えるところからしてほしくて」
「……んまあ、できる限り頑張るわ」
「はい、よろしくです!」
そして七子は、啓介に一礼すると足早に去っていった。
その場にいた賢太や拓海が、物珍しそうに彼の持っている紙を覗いてきた。
啓介は二人に先ほどの七子との会話を掻い摘んで説明する。
「はえー……俺ラリーのことさっぱりっスけど、すごいなあ」
「確かに。でも何か、楽しそうですね……ラリーって」
「……でもよ、あいつなんかに務まるかってンだ」
二人の言葉を聞いて、啓介は不機嫌そうな表情になる。
だがそんな彼にお構いなしという様子で二人は話を続けた。
「良いじゃないスか〜、ようやくこのチームにも華が来たんですよ?」
そう言って賢太が茶化してくる。
啓介はそんな彼を睨みつけるが、当の本人はどこ吹く風といった様子だ。
「……ふん、俺は興味ねえな」
するとその言葉を聞いた拓海が、あっけらかんとした様子で言った。
「そうですか? 僕、あれくらいハッキリしてる人好きですけどね」
その発言に啓介は、思わず眉間にシワを寄せた。
確かに七子の性格には好感を持てるが、それとこれとは別問題だ。
だがそんな啓介の気持ちなど知る由もない拓海は、いつものように飄々としている。
「ひゅ〜!」
すると賢太が冷やかすように口笛を吹き、啓介の不興を買ったことに気づいていないのか彼は呑気に笑っていた。
「はあ……拓海、お前と居ると調子狂うわ」
「……?」
首を傾げる拓海をよそに溜息混じりに呟く啓介だったが、その視線は七子から渡された紙へと戻っていった。
彼女は、ナビゲーターとしての仕事はしっかりとこなすタイプだ。
それは今日に至るまでの短い期間の中で分かっていることだ。
啓介は七子の真剣な眼差しを思い出しながら、再びため息をつく。
(……ま、やれるだけやってみるか)
彼は深呼吸をひとつすると、もう一度紙に目を落としたのだった。
そしていつの間にか日は暮れて、時刻は夜の十一時を回ろうとしていた。
「じゃあ、ミーティング始めるぞ」
涼介の声かけにより、啓介たちは車の周りに集まる。
今日の走行ルートの図上での細かい説明が始まった。
「まずヒルクライムのスタート地点はここ。初めこそなだらかで、コーナーが少ないが中盤から徐々にRがキツくなっていく……」
涼介は、車のボンネットに置いた紙に書かれたコースラインを指しながら説明する。
「そこからは低速のテクニカルセクションの連続で、視界からの情報量も多くダレがちだ。特にヘアピンカーブは終わりが見通せないから、その後のライン取りに影響する」
そう言いながら、彼はコースラインに斜線を引くように指を走らせる。
「そして最後は、トンネル前のストレートでフィニッシュだ」
そして啓介は、これから登っていく峠の頂上付近を睨むように顔を上げる。
その目線の先には、何人も寄せつけないような真っ暗な闇が広がっていた。
夜になると昼間とは全く違う顔を見せる場所。
それが峠である。
「……ああ、分かった」
啓介が納得した様子で頷くと、涼介も安心したのか表情を和らげる。
しかしすぐに真剣な眼差しに戻ると、拓海に向かって言った。
「次にダウンヒルだが……こっちは序盤がテクニカルセクションで、そこからは一気に下り坂が続く」
彼が続けて今度はダウンヒルの説明を始めると、それを拓海は黙って耳を傾けていた。
「中盤まではS字やタイトコーナーが多いのも特徴で、マシン差も出づらい代わりに振り返しのテクニックなどが要求される」
しかしながら先ほどと違い、やや険しい表情を浮かべていた。
その理由は簡単だった。
スピード感はもちろんのこと、急ブレーキをかけた時の車体への負担も大きい。
それに路面の状況によっては、ガードレールや電柱などの障害物もある。
つまりプラクティスとは言えど、事故のリスクが大きいのだ。
しかしそんなことは百も承知だという風に、涼介は話を続ける。
「どこの峠でも一緒ではあるがスピードに乗る分、やはりブレーキングポイントを見極めるのが難しい」
涼介の言葉に拓海は小さくうなずく。
それは今まで何回も言われてきたことだったからだ。
そして彼の反応を見てから、涼介はさらに言葉を続けた。
「逆に後半はストレートや高速コーナーが多い、マシン差で追いつかれないように気をつけろ……藤原の勝負は、終盤までで決めろ」
今度は少しだけ口元に笑みを見せながら言った。
拓海の緊張をほぐすためなのか、それとも単に彼の腕に対する自信があるのか。
どちらにせよ、涼介の言っていることが正しいということは分かったようだった。
そして彼は地図上のコーナーをなぞるようにして指を動かすと、一呼吸置いた後に言葉を続けた。
「まあ、要するに……ここはかなり神経使うコースだってことだな」
しかし拓海は顔色一つ変えずに口を開く。
「はい」
相変わらずの淡白で掴みどころのない態度だったが、そこには微塵も臆している様子はなかった。
そして次に涼介は手元にあるラップタイム表を指差すと、そこに書かれている数字を読み上げた。
「これは計算して求めた値だから、実際に走ってみた時の感覚とは違うだろうが……大体お前たちの腕だとこんな感じになると思う。一応、頭の片隅に入れておいてくれ」
「了解だぜ」
「はい、分かりました」
啓介と拓海が返事をすると、涼介は小さく微笑んだ。
「じゃあ、プラクティスを開始する。ドライバーとナビゲーターはそれぞれ乗車して、俺たちが山頂付近のゴールに到着した報告を受けたのちに……ヒルクライムの啓介からスタートしてくれ」
「おう!」
そして啓介は、自分の車の運転席に乗り込んだ。
「藤原は啓介が帰ってくるまで、俺たちと頂上で待機。それからは、交互に走り込みをしてくれ」
「はい!」
拓海が元気よく答えるのを聞きながら、啓介は自分のシートのフルハーネスを締めた。
そして七子も助手席に乗り込み、ハーネスを閉める。
その様子を横目に見ていた啓介は、思わず彼女の方を見た。
その瞬間、目が合う。
七子はその視線の意味を察し、啓介に向かって笑いかけた。
「啓介さん、よろしくお願いします」
「……ああ」
啓介はなんとなく気まずさを感じながらも、ぶっきらぼうにそう答えた。
「
「はいはい、了解。女だからって、ビビってたら承知しねぇぞ」
啓介が冗談交じりにそう言うと、七子は目を丸くさせた。
だがすぐに笑顔になると、はっきりとした口調で答えた。
「はい! 任せてください」
その表情には、自信が満ち溢れているように見える。
啓介は思わず息を飲むが、それを悟られないようわざとらしく鼻で笑った。
「……ちなみに、午前中に渡した資料見てくれました?」
だがそんな啓介の様子に気づくことなく、七子は話を続けた。
啓介は内心舌打ちしながらも、素直に応じる。
「おう……何とか、覚えてきたよ」
「良かった……!」
その言葉を聞いて、七子は安心したように笑みを浮かべる。
啓介はそんな彼女を見ていると、ますます居心地が悪くなった気がしたが、そんなことを気にしている場合ではないと自分に言い聞かせた。
「それじゃあ、一発目は七割で構わないのでコースに慣れていきましょう」
すると七子は啓介の方に向き直り、真剣な眼差しを向ける。
「おう」
だがそんな風にやる気を見せる彼女に、啓介は少しだけ拍子抜けしてしまった。
(もっとこう……おどおどするかと思ったけど)
そしてそれは、彼にとって意外だった。
彼女は見た目通り、大人しくて控えめな性格なのだと思っていたからだ。
しかし今目の前にいる彼女は、まるで別人のように強い意志を感じる。
(意外と肝据わってんのか?)
だがそれでも啓介にとっては好都合だ。
なぜならこの方が、余計なことを考えずに済むからである。
彼がそう考えている間にも、七子はノートを広げてルートの確認を始め、そして最終的な要点を確かめ終えると、ゆっくりと伸びをした。
そんな彼女を横目に見ながら、啓介はふと口を開く。
「なあ……一つ聞いていいか?」
すると七子は不思議そうな顔をして、こちらを見つめた。
その瞳は、透き通るように澄んでいる。
だがその目を見るとなぜか妙に緊張してしまうが、啓介はそれを振り払うようにして質問を投げかけた。
「お前さ、怖くねえの? レースとか、峠道走ること……」
啓介が尋ねると、七子は驚いたような顔を見せた。
そして数秒の間を置いてから小さく笑うが、その表情はどこか寂しげなものへと変わった。
それが彼の目にはとても悲しそうに映り、なぜだか分からないが胸が締め付けられる思いがした。
しかしそれも一瞬のことだったようで、すぐに七子は再び笑顔に戻る。
「怖くないです。私が、ちゃんとしてなきゃ……ドライバーは不安になるので」
そう言って彼女は微笑むと、さらに言葉を続けた。
「それにラリーと違ってバトル本番は乗れないから、それまでにどれだけドライバーの本領を引き出してあげて、コースに対する不安を払拭できるかが……私の役目だと思うんです。だからそのためなら、私はなんだってします」
その声は、はっきりとしたものだったが同時に覚悟のようなものを感じさせる。
啓介はその言葉を聞きながら、彼女が今までどんな経験をしてきたのだろうかと考えた。
「お前……すげぇよ」
思わず口をついて出た言葉に、七子は首を横に振る。
そして、静かに言った。
「私のエゴになっちゃうんですけど、後悔はしたくないんです」
「そうか……」
啓介はそれ以上何も言えなかった。
自分の知らないところで、様々な想いを抱えながら走っているんだろうということだけは分かっていた。
すると七子の持っているトランシーバーに連絡が入った。
『七子か? 頂上に着いたから、出発してくれ』
「……了解です」
涼介の声が聞こえると、七子は啓介の方を見た。
「それじゃあ、行きましょう!」
「はいよ」
啓介もそれに応えるようにして、ハンドルを強く握り直す。
クラッチを踏み込むとシフトレバーを一速に入れて、アクセルを煽り回転数を合わせていく。
するとエンジン音がうねりを上げ始め、車体が小刻みに揺れる。
そして狙った回転数に落ちた時、素早くサイドを下ろしてアクセルを思い切り踏んだ。
「行くぜッ!」
同時に後ろから押されるような感覚を覚えながら、タイヤがアスファルトを噛み締めて車が鋭く走り出す。
啓介が身体に染み付いた素早い動きでギアを上げていくと、FDはどんどん加速していく。
やがてトップギアまで上げると、エンジンの回転音がさらに高鳴る。
その勢いのまま、アクセルを踏む足に力を入れるとより一層スピードが増していった。
「スタートして初めは100、フラットレフト! 50、3ライト……!」
七子が自身のペースノートを読み上げ、啓介はそれに合わせてステアリングを切る。
最初のコーナーは、イン側の縁石を目安に車体を滑らせながらクリアする。
「60、4レフトロング! ここはできる限り突っ込んでも大丈夫」
啓介は言われた通り、そのままの速度で長めに頭を突っ込むとコーナーを曲がっていく。
そしてこのコーナーではアウト側に少し膨らむが、それも七子の想定済みだった。
「啓介さん、そのラインで行きましょう!」
そして再び、アクセルを踏んでスピードを乗せる。
「80、フラットライト!」
彼女の指示を聞きながら、啓介はある程度のコースの形状を把握することができた。
夜間走行となると頼りになるのは、ヘッドライトと己の感覚のみだ。
しかしコースを見通している七子が居るプラクティスでは、路面状況の確認やコーナーリングスピードの調整などを入念に行うことができる。
そのため啓介は、今までよりも冷静にコースを捉えられていた。
(これなら……いけそうだ)
啓介は小さく口角を上げると、次のセクションへと車を走らせていった。
「50、3レフトロング……オーバーフィフティ! コーション、フェンス・アウト! スピードの落ち込みとコーナー終わりの膨らみに注意して!」
「……」
啓介のドライビングに迷いはなく、彼の集中力が高まっていることが見て取れる。
七子はそれを感じ取ると、自分も負けていられないと思い自身も意識を研ぎ澄ませた。
「次は50、ショート4レフト……でも路肩の幅があるからアフォン、インカット!」
その指示通りに彼は、アクセルを踏み込んでスピードを乗せていった。
路肩に生える草木を揺らしながら、七子の指示通りのラインを描いていく。
「啓介さん、良いライン取りです!」
その様子を確認した七子は、小さくガッツポーズをした。
そして、すかさず次の指示を出す。
「100、4ライトタイトゥン……! キープインで! 本番は相手のノーズを入れさせないように!」
「ああ……!」
七子の指示に、啓介は力強く返事をする。
その声に気合いを感じた彼女は、思わず頬が緩んだ。
啓介は七子の言葉を聞き逃すまいと、神経を張り巡らせる。
そして彼女の言うことに従いながら、自分の走り方を変えていった。
「その調子です!」
そんな彼の変化に気づいたのか、七子は嬉しそうに微笑む。
頂上の駐車場付近では、啓介たちを待つメンバーたちの姿があった。
資材を積んだワンボックスカーや拓海のハチロクの近くに居るメカニックたちは、すでに最終的なチューニングを済ませたようで、工具を片付けている途中だった。
そして山の遥か下の方で微かに響く啓介のFDのエキゾーストノートが聞こえてくるくらい、辺りは静まり返っていた。
「涼介さん」
ふと、賢太が口を開いた。
その声に反応するように涼介は顔を上げる。
「どうした?」
「俺、七子の兄貴のことがなんか引っ掛かると思ってパソコンで調べたんスけど……」
そう言って、彼は一冊のノートを取り出した。
「あいつの兄貴……昔、ラリーのコ・ドラの方をやってたっぽいすよ」
ノートには、ラリーに参加していた頃の彼の経歴などが書かれていた。
「いやぁ俺、てっきりラリーストかと思ってたんスけど……」
それを見ていた涼介の顔色が変わる。
彼の近くに居た拓海も、そのノートに気付いて近寄ってきた。
そして彼らはそのノートを覗き込む。
そこには彼がかつて所属していたチームの名前や所属期間などが書かれているのだが、その中には見覚えのあるような有名ラリーチームの名前もあった。
「そうなんですね」
「なーんか聞いたことある名前だと思って調べたら、雑誌とかの取材も受けてたみたいで……それで聞いたことがあったんスよ!」
興奮気味に言う賢太だったが、涼介たちは黙り込んだままだった。
そんな彼らを見て、不思議そうにする。
涼介はそのノートを手に取ると、パラパラとそのページを捲った。
するとそこに書かれた文面を見つけたのか、手を止めた。
「引退してたのか……」
「本当ですね。去年の話ですか?」
「そうなんだよ。レース中に事故を起こしてから、引退してるみたいで」
その言葉を聞いて涼介は眉間にシワを寄せて目を閉じていたが、少し間を置いて目を開くとゆっくりと息を吐いた。
「そうだな……」
彼はそれだけ呟くように言うと静かに瞼を閉じる。
その様子を見ていた拓海も、どこか不安げな表情を浮かべていた。
「彼は、巧緻を極めたドライバーでもあったんだよ……」
「え! 涼介さん、知り合いだったんすか?」
涼介の言葉を聞いた賢太が驚きの声を上げた。
しかし涼介は何も答えなかった。
ただじっと何かを考え込んでいるようだった。
拓海もその様子に気付き、首を傾げる。
「……いいや。俺と所属していた時は入れ違いで、聞いた話になるが……コ・ドラになるにあたってドライビングテクニックも身につけたいと言ってレッドサンズに入ったらしい」
「へえ〜、そこまでしてたんスね」
「……」
「ああ。ただ、引退してラリーからは離れているようだし……今は何をしてるか」
「でも……きっと、諦めたくなかったでしょうね」
拓海がポツリと言うと、涼介は再び目を閉じて考え込んでしまった。
だがすぐに目を開けて小さく笑みを浮かべる。
その表情を見た拓海は彼の考えていることを察した。
「だから、妹の七子さんに託したんですかね?」
拓海の一言に、涼介は驚いたような顔をする。
「どうだろうな。引退した詳しい理由も分からないし、七子の意思なのか兄貴の意思なのかは……俺たちには分からないさ」
涼介はそう言いながらノートをパタンと閉じた。
「どちらにしても七子さん、健気なんですね……」
ふと拓海が零すと、涼介はその横顔をちらりと見た。
すると、彼も同じことを考えているんだということがその瞳を見て分かった。
理由は何にせよ、心半ばでラリーから退いてしまった兄を追ってきた妹。
そんな彼女が今どんな気持ちなのか、それは想像するしかできない。
だが彼女はもうモータースポーツの世界に戻ってこない兄を追いかけて、一人この世界に飛び込んできたのだ。
その覚悟たるや、並大抵のものではないだろう。
拓海の言葉を聞いた涼介は何も言わずに視線を再び前に向け、啓介と七子の到着を待った。
啓介がハンドルを握るFDは、激しいスキール音を響かせながらコーナーを駆け抜けていく。
車内の横揺れに必死に耐えながら、七子は手にしているノートを握りしめていた。
すると七子は、落ち着いた口調で話し始めた。
「ここから中盤ですからね」
先程までとは打って変わって真剣な表情を見せる彼女に、思わず啓介も息を飲む。
そんな彼の様子を横目に見ながら、七子は言葉を続けた。
「70……3ライトオープン5!」
啓介は七子の合図に合わせて、ブレーキングから素早くギアを入れていく。
そしてそのままドリフトしてイン側へと近づきながら、コーナーの出口に向かって加速していった。
その動きはまるで、流れる水のように滑らかだ。
「100、スルーナローブリッジ、サドゥン4レフトに繋げて……ギャップでラインを乱されないように!」
啓介はその指示を聞くと、すぐさま反応しアクセルを吹かした。
後ろから押されるように加速する車の中で、彼はハンドルを握る手に力を込める。
すると七子の言った通り、橋が見えてくる。
コーナー途中にあるジョイント部に差し掛かると、若干ステアリングを取られるが啓介は億することなく突っ込んだ。
その勢いのまま、コーナーをクリアしていく。
(確かに……これは難しいな)
啓介は、ミーティングの際に涼介が言ったことを理解した。
序盤こそコーナーの入り口と出口を交互に見ることで対応していたが、中盤になると視界に入ってくる情報量が増えていく。
それにより、ドライバーは混乱してしまうのだ。
(こりゃ、疲れるぜ……)
しかし啓介は、それを嫌だと思わなかった。
むしろこの状況を楽しんでいる自分がいることに驚く。
そして彼は、七子の期待に応えようと必死になっていた。
それは今まで感じたことの無い感覚だった。
啓介は七子の指示を待ちながら、コーナーを攻め続ける。
彼女の指示を聞いてから動くという安心感が、啓介の集中力を更に高めていた。
「キープレフト……50、3ライト!」
啓介がコーナー手前から少しアウト側に車を寄せると、流れるようにシフト操作をしてハンドルを切る。
車は一気に減速すると、コーナーの内側ギリギリを駆け抜けていく。
「60、2レフトアンド……コーションブレーキ! ここからタイトな低速セクションです!」
しかし啓介は、慌てる様子もなく冷静に対処した。
七子の言葉を聞き取り、アクセルワークで速度を調整する。
コーナーの立ち上がりでも、タイヤのグリップ力を意識してコントロールしていた。
(いける……!)
啓介は自信を持ち始めると、七子の次の指示を待つ。
彼女はそんな彼の気持ちに応えるかのように、的確なアドバイスを飛ばしていった。
「2レフトイントゥ2ライト! ここライン取り注意!」
啓介は言われた通りに、コーナーへと侵入していった。
彼の目には先程よりも景色がクリアに見える。
そのことに啓介は驚きながらも、冷静さを保って走り続けた。
「40、アンスィーンヘアピン、レフト……! 出口見づらいので、ここは特に形覚えて次のコーナーに繋げて!」
啓介は七子の指示通りに車を走らせる。
するとコースの形状や路面の状態などが、スっと頭の中に流れ込んできた。
彼は、この瞬間を待っていたかのような高揚感を覚える。
今までに無いほど、車が自分の手足のように動いている気がした。
そのせいか啓介はアクセルを踏み込んで、イン側の縁石ぎりぎりを掠めながらコーナーを立ち上がっていった。
「ここは幅狭いからキープミドルで大丈夫。100、5レフトタイトゥン3、アットミラー! カーブミラー目印でコーナーがキツくなってます!」
啓介は七子の言葉を聞きながら、ブレーキングし一気にシフトダウンしていく。
そしてカーブミラーを一瞥すると、ステアリングを切り足しながら突っ込んでいった。
「啓介さん! フィニッシュ近いけど、 気を抜かないで!」
すると彼女の声に熱が入る。
その言葉には強い意志が込められていた。
啓介はその言葉を噛み締めるように、アクセルを強く踏み込んだ。
「さっきのコーナー抜けたら最後はキンクス! アフォン、200……!」
啓介は、七子の合図に合わせてアクセルを踏む。
するとFDは、それに応えるように一気に加速した。
「啓介さんのFDの全力……魅せつけてくださいッ!」
そう言って笑う彼女を見て、啓介も笑みを浮かべた。
「任せろッ!」
そして最後の直線を走り抜けると、ゴール地点が見えてくる。
(よっしゃあッ!)
啓介はラストスパートをかけるようにギアを上げた。
するとその動きに呼応するように、エンジン音が高鳴っていく。
彼はシフトレバーを操作すると、力強くアクセルペダルを踏んだ。
その瞬間、さらに車体が加速する。
啓介は自分のFDが今までにないくらい調子が良いことを感じた。
そしてそのまま、啓介はフィニッシュを迎えた。
車から降りてきた啓介と七子の元に、涼介が歩み寄ってくる。
「お疲れ、調子はどうだ?」
彼は笑顔を見せながら啓介に問いかける。
その表情からは、満足そうな様子が伺えた。
啓介は少し考え込んだ後、小さく息を吐いて口を開く。
しかしそれは、いつもの啓介とは違った口調だった。
「七子のおかげで、そんなに走り込みしなくても明日、イケそうだぜ」
それを聞いた涼介は驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうな顔を見せる。
そして彼は、七子の方を見た。
「啓介さん、絶好調でしたよ!」
七子が興奮気味に言うと、啓介は照れ臭そうに頬を掻いた。
涼介はそんな二人の様子を見て微笑むと、
拓海に声をかけた。
「じゃあ、藤原……スタートしてくれ」
すると拓海の目つきが変わる。
真剣な眼差しでコースを見つめると、 ゆっくりと車に乗り込んだ。
その様子を見た啓介は、思わずゴクリと唾を飲み込む。
普段の拓海の印象とは違う、別人のような雰囲気を感じ取ったのだ。
そして拓海の乗った車は、スキール音と共に走り去っていく。
啓介はそんな彼の後ろ姿をしばらくの間、目で追っていた。
すると七子が、啓介の肩をトントンと叩く。
振り向くと彼女はニッコリと笑って、啓介の顔を覗き込んでいた。
「一回目、お疲れ様でした」
七子は啓介に労いの言葉をかけた。
その声はとても優しい響きを持っていて、啓介の耳元に心地よく響く。
しかしそれを悟られないよう、 啓介は視線を逸らす。
「お前も、疲れただろ?」
「まだ行けますよ! 私もすごくいい練習させてもらってるんで」
七子はクーラーボックスから取ってきたミネラルウォーターを差し出すと、キャップを開けてから彼に手渡した。
「はい、どうぞ」
「すまん、貰うわ」
啓介はそれを受け取ると口をつけ、喉の奥へと流し込む。
冷たい水が喉を通り抜けていく感覚が気持ちいい。
啓介はその水を半分ほど飲み干すと、大きく息をつく。
「……ナビ、ありがとな」
ふてぶてしい言い方だったが、 啓介なりのお礼だった。
すると七子は一瞬驚いたような表情を見せたが、またすぐにニコッと笑いかける。
「走ってみて、どうでした? 分かりづらいとか、ありました?」
啓介は腕を組み、考える素ぶりを見せてから答える。
「うーん……思ったより、悪くなかった」
彼の頭の中には、先程の走行中の景色が浮かんでいた。
そして啓介は再び口を開く。
「なんか、今までより集中できてた気がするんだよな」
啓介は自分でも驚くほど冷静に運転できたことを思い出していた。
コーナーに入る前にクリアできるラインが見えていたし、出口付近の路面の状態やカーブミラーの位置なども把握できていた。
それに何よりも、自分が今どのくらい走れているのか、そして次の行動までの判断ができていたことが驚きである。
啓介は自分の変化を実感しながらも、 まだどこか半信半疑だった。
すると七子は啓介のその言葉を聞いて、安心したように胸を撫で下ろす。
「それなら、良かったです!」
その仕草が不覚にも可愛らしく見えてしまい、啓介は目を背けた。
「ギリギリまでスピード上げていくようなら、補助的な指示はやめて端的にしますね」
彼女の言葉を聞きながら、啓介はチラッと彼女の方を見る。
すると七子は真っ直ぐに啓介の顔を見て微笑んだ。
彼はその笑顔を見て再び顔を背けると、口を開いた。
「……頼んだ、七子」
しかしその口調は、いつもの意地悪な啓介の口調ではなかった。
七子は少し驚いたように目を見開いたが、 嬉しそうに笑みを浮かべる。
「もちろん!」
それは今までに見せたことのない、無邪気な笑みだった。
To be continued...
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