(※前話「道途」からお話が続いていますので、そちらからお読みください。)


先日のバトルから数日後の夜、対戦相手だったチームが同じコースで再び別のチームと交流戦をするという噂を聞きつけて、七子は見物人として赴いていた。

「おい来るぞ、アレ・・が」

「うおー! 待ってました!」

彼女はギャラリーたちが指差している峠道の方向へ視線を向けると、だんだんと大きくなるエキゾースト音に胸を高鳴らせる。

そして現れたそのスポーツカーは夜の闇に溶け込むような漆黒で、まるで夜空を駆けているようだった。

「……来た! 黒の武神か……すげえ、オーラ」

「だな! マジで速ぇ」

激しいスキール音と共に白煙を吐きながらコーナーを攻めていくその車を見て、思わず七子も呟く。

「……綺麗」

彼女の視界の中で、コーナーを次々とクリアしていくその姿は、まさに流星と呼ぶに相応しいものだった。

七子はその車が走り去った後もしばらくその場に立ち尽くし、その車が消えていった闇の中を見つめていた。

(すごい……無駄がないし、完全にコントロールしきってる)

あの車を運転していたドライバーの腕の良さを感じ取った七子は、考え込むようにして腕を組む。

(これが無意識のバランススロットルだとしたら……)

自分の目の前に現れたその光景を思い出した七子は、興奮を抑えきれずに拳を握る。

「あの車、気になるよな」

すると突然、後ろから声をかけられた。

驚いた七子が振り向いた先に立っていたのは、小綺麗な格好をして佇んでいるスラリとした長身の男だった。

「涼介さん!」

彼女が名前を呼ぶと、彼は微笑みを浮かべて軽く左手を挙げた。

「七子、お前も見物に来てたのか」

「はい、ちょうどバイトが終わったところでして」

そう言って笑う彼女を見て、涼介と呼ばれた男は少しだけ口角を上げる。

「感心だな」

「いえ、そんな……。私が組み立てたラインの他にどんなコース取りがあるのか気になっちゃって」

そう言いながら照れ臭そうにする彼女を、彼は眩しいものを見るように目を細めて見下ろした。

「頼りになるナビゲーターだな全く」

涼介の言葉に嬉しさを隠しきれない様子の彼女に、彼は微笑みかける。

「そんなに褒められたら照れますよ……。あれ? 今日、啓介は来ないんですね」

彼の弟である啓介の姿がないことに気づき、七子は彼の姿をキョロキョロと見渡した。
しかし、彼を見つける前に涼介が言葉を続ける。

「ああ。誘ったんだけどな、走り込みしたいんだとさ」

「そうなんですね」

彼がここにいないことに残念な気持ちを抱いた七子だったが、すぐに気を取り直して笑顔を見せる。

そうして二人で他愛のない話をしながら両チームの練習風景を眺めていると、先ほどまで峠を下っていた車が引き返してきたようで、野太いマフラー音が近づいてくる。
その車は二人の前をゆっくりと通り過ぎて行こうとしているのだが、その様子をじっと眺めている涼介がぽつりと呟く。

「あいつ、この間の……」

彼の視線の先を追うと、運転席に座っている男の顔が目に入った。

彼はウィンドウ越しでも分かるほどの鋭い眼光でこちらを一睨みした後、視線を前に戻すと走り去っていった。

その横顔を見た瞬間、七子は自分の心臓が大きく跳ね上がるのを感じる。
それは恐怖や不安によるものではなく、どちらかというと高揚に近い感情だった。
そして彼女が初めて啓介の隣で彼の走りを目の当たりにした時と同じような不思議な感覚が、体中に広がっていく。

その男の乗った車が見えなくなるまでじっとその様子を見送っていると、涼介に声をかけられる。

「七子、バトルが始まる前にあっちのコーナーに回ろう。きっと良いものが見れると思うぞ」

「え……あ、はい!」

彼の提案に対して返事をしながらも、七子はまだ先程の男のことを考えていた。

(あの人……どうしてあんな顔をしてたんだろう)

七子は不思議に思いながらも、涼介の後についていった。

そこは段々に法面工事がなされた場所で、一番高いところにはフェンスが設けられていた。
涼介は法面の横の斜面から上へ登れそうなところまで歩いていくと、その手前で立ち止まって彼女の方へと振り返る。

「ほら、掴まってくれ」

目の前に差し出された手を見て、彼女は躊躇いながらもおずおずとそれを掴み、彼に引かれるがまま斜面を登る。

「す、すみません。ありがとうございます」

申し訳なさそうにしている彼女を見て、涼介は笑いながら言う。

「こういう時は、素直に甘えてくれて大丈夫だよ」

その言葉を聞いて安心した七子は小さく笑みをこぼすと、そのまま二人で並んで斜面の上に腰掛けた。
しばらくすると、頂上の方からエキゾースト音が聞こえてくる。

どうやら交流戦が始まったようだ。

二人が待つ場所からは、コーナーを駆け下りていく車のヘッドライトの明かりがはっきりと見える。

その光景を見て、七子は思わず息を飲む。
まるで流れるように次々と現れる車が暗闇の中を走り抜けていき、その度に歓声が上がる。

そんな状況を見ながら、隣の涼介が口を開く。

「こんな風に、あと何回も戦えるといいんだがな」

しかしその声色はどこか寂しげなものに感じられたため彼の方を向くと、その表情はいつもより大人びていて七子は少しだけドキリとする。

だがすぐに視線の先の光景に意識を戻すと、七子は呟いた。

「だから私たちは後悔しないように、その一回ずつを大切にしてるんですよね」

その言葉を聞いた涼介は彼女の方へ顔を向けると、真剣な眼差しで見つめたまま静かに口を開いた。

「ああ、そうだな。それが、いつかの自分の力になると俺は信じてる」

その瞳には強い意志が込められているように見えた。
涼介の言葉を噛み締めるように七子が黙って俯いていると、突然彼は立ち上がって言った。

「さあ、そろそろ来るぞ」

その声は先程よりも少しだけ明るくなっていた。

七子も彼につられて立ち上がると、先ほどまで見ていた峠道を見下ろした。
そこにはバトル前に練習で峠を下っていた黒のスポーツカーと、対戦相手であろう別の車がこちらに向かって来ていて、互いに相手の出方を伺うような雰囲気だった。

しかしコーナーに差し掛かった途端、先に仕掛けたのは黒の武神と呼ばれる彼の車だった。

インに鼻先を突っ込みながらスピードの減速を最小限に抑え、一気にアウトへと車体を振り切る。
その動きに合わせて相手もブロックに入るが、勢いのついた彼を止めることはできずにガードレールギリギリまで追いやられてしまう。
そして彼はそこから更にアクセルを踏み込んで相手を引き離しにかかると、タイヤから白煙を上げてコーナーを難なくクリアしていった。

それは彼が黒の武神と呼ばれる所以たるような、攻撃的なオーバーテイクだった。

その速さと迫力にギャラリーたちはどよめき、興奮の声を上げる。
しかし七子だけは、ただじっと食い入るように彼の姿を見つめていた。

「あんな速度で……ほんの一瞬の隙を狙っていくなんて、有り得ない……」

無意識のうちに口から言葉が漏れ出る。

「ああ、確かにな。やっぱりテクニックも去ることながら、メンタルの強さと集中力が凄まじいな」

涼介の言葉を聞きながらも、七子は彼の走りを目に焼き付けるかのようにじっと見続けていた。

「でも啓介は、あの人たちに勝ったんですもんね」

そう言って彼女が見下ろすと、涼介は何かを思い出すように微笑んで答えた。

「あいつは昔から負けず嫌いで意地っ張りだけど、誰よりも努力家なんだ。だからこそ、ここまで上り詰めることができたんだろう」

その言葉を聞いていた七子は、啓介の走りを初めて見た時のことを思い出していた。

(啓介の走りは、いつだって真っ直ぐで迷いがない)

それは彼の性格をそのまま表しているようで、とても眩しく見えた。
そして彼の走りを見るたびに、自分も頑張ろうと思えたのだ。

(……そんな啓介に私は惹かれたんだ)

彼女は彼の姿を思い浮かべて胸が熱くなるのを感じた。

「私、啓介の走りが大好きです」

彼女は涼介の目を見てはっきりと言うと、ふわりと笑ってみせた。
すると彼は目を大きく見開いた後、困ったように眉を下げて笑った。

「それ、本人に直接言ってくれ」

「え? あ……いや! ち、違いますよ!」

彼の言葉の意味を理解した瞬間、七子は顔を真っ赤にして慌てて否定する。

「はは、冗談だよ」

「涼介さんまで、私のこと!」

顔を赤くしたまま怒ってみせると、涼介は笑いながら謝ってきた。

「すまない、悪かった。機嫌、直してくれよ」

七子は少し拗ねながらも涼介に涼しい笑顔を向けられると、その表情に思わず頬を緩めた。

「まあ、許してあげないこともないですね」

「はは、ありがとう」



しばらくしてバトルが終わると、すでに日付が変わっていることに気がついた。

「そろそろ、降りようか」

そう言うと彼はゆっくりと立ち上がり、そのまま彼女の手を取って引き上げてくれた。

そして二人は駐車場に戻るために、再び斜面を下り始める。
道路沿いに駐車場へと向かって歩いていると、交流戦が終了したために多くのギャラリーたちも皆帰り支度を始めていた。

「他のチームのあんな攻めた走りを見てたら、なんか自信なくなっちゃいますね。逆に私は、これでいいのかなって……」

七子は目線を足元に落としたまま、ぽつりと呟いた。
彼女なりに色々と考えているものの、それでも不安になってしまう時があるのは事実だった。

「それにこれからもあんなに速い人たちとバトルしなきゃいけないんだって、考えちゃいます」

しかし涼介は彼女の言葉を聞いて、真剣な表情で言う。

「そうだな。それがレコードに挑む者の運命なのかもしれないし、ましてやプロの道に進めば泣き言を言ってる暇も無いだろうな」

「……」

その声色はいつもより少しだけ、厳しいように感じられた。
そしてすぐに小さく息を吐くと、穏やかな口調で答える。

「ごめんな、厳しいことを言ってしまって」

その声からは先程までの厳しさはなく、むしろ優しさすら感じられるものだったため七子は首を横に振った。

「いえ……涼介さんの言う通りです」

そう言って顔を上げると、そこにはいつものように優しい微笑みを浮かべている彼がいた。
その顔を見て安心したように七子も笑っていると彼は突然立ち止まり、こちらを向いて言った。

「だが……そんな奴ら相手に、俺たちが勝利を重ねているのも事実だ」

彼の瞳には、はっきりと強い意志が宿っているように見えた。
その力強い眼差しに七子が目を離せずにいると、彼は続けて口を開く。

「つまり七子は間違ったことはしていないと言えるだろうし、お前の考えにちゃんと応えて勝利を掴んでくるドライバーだって居るだろ?」

「……!」

その言葉にはどこか確信めいた響きがあり、彼のその瞳は七子の心を見透かすようにじっと見つめていた。
その視線から逃れることができずにいると、彼は優しく語りかけるように続ける。

「それだけでも十分、自信を持っていいんじゃないか」

そんな言葉を掛けられた七子の胸には、じんわりと温かいものが広がっていく。

「涼介さん……」

すると彼女は自然と、自分の中の不安が消えていくのを感じていた。
それはまるで、彼の言葉が魔法のような力を持っているかのように。

「それに、啓介も言ってたぞ」

「……?」

彼は七子から目線を外すと、遠くの方を見ながら話し始めた。

「七子の指示で負ける気はしない、ってな」

涼介はプラクティスの時のことを嬉しそうに語っていた弟の顔を思い出しているのだろうか、彼の横顔はとても穏やかで優しかった。

その表情を見た七子は、心の中で思う。

(啓介はきっと、涼介さんにも認めて欲しくて頑張ってるんだろうな)

そう考えると、自分が悩んでいる場合ではないような気がしてきた。
彼女はそんな彼の様子に励まされた気持ちになり、胸が熱くなるのを感じる。

すると涼介は再び前を向き、彼女の歩幅に合わせるようにゆっくりと歩き始めたので彼女も彼の隣に並んで歩いて行く。

「啓介の実力と個癖が分かっている上で、それに合わせたアドバイスができるのは、隣に乗ってプラクティスしているお前が一番だと思うし……」

涼介の言葉を聞きながら、彼女は静かに彼の言葉を噛み締めるように聞いていた。
すると彼は、ふっと笑うと小さく付け足して言う。

「あいつ自身もそれを理解しているみたいだからな」

それを聞いた七子は一瞬驚いた顔をした後、思わず笑みをこぼす。
そして彼女の笑顔は、だんだんと喜びの色に染まっていく。

「そっか、そんなこと言ってくれたんだ……」

「ああ。素直じゃないけど真っ直ぐで、嘘はつけない奴だから間違いない」

そう言うと、彼は満足げに笑った。
七子は彼に言われたことを思い出すと、その表情に少し照れ臭さが混じるが、同時に嬉しさの方が勝ったようで頬は自然に緩んでいた。

「そんな風に啓介が思ってくれてるなら、ここまで一緒に走ってきて良かったです」

「そうだな」

涼介はそう言うと、とても穏やかな表情を見せる。

「まあ、だからという訳でもないけど、もっと自分の実力を誇っていいんだぞ。そうしたら七子、お前は更に伸びるだろうな」

「はい!」

七子は力強く返事をすると、満面の笑みを浮かべた。
すると涼介は彼女の目をじっと見て、穏やかな口調で言う。

「俺が考えるに、迷った時こそ自分の信じる道に従うべきだと思ってるんだ。そのためなら、俺はいくらでも協力するつもりだ」

それはまるで七子の心を落ち着かせるような、静かな声色だった。

涼介のその言葉は、彼女が一番求めていた言葉だったのかもしれない。
今までの不安や迷いを吹き飛ばしてくれるような大きな力を持っていて、そのおかげで七子は自分の進むべき道を、はっきりと見据えることができたような気がしていた。

すると涼介は言葉を続けようと口を開いた。

「俺が言うのも変かもしれないが、あいつのことよろしく頼む」

その声はいつもより少しだけ真剣味を帯びているようで、その言葉の裏には何か強い想いが込められているようにも感じられた。

その言葉の意味を理解すると、七子はしっかりとした口調で答える。

「はい! 折角同じチーム組んでるので、私も啓介と一緒に勝ちたいです」

すると涼介は口元に小さな笑みを浮かべると、そのまま視線を前に向ける。
その瞳には、彼の意思の強さが表れているようであった。

二人が歩く峠道の先には、街の灯りが煌めいて見える。
それはどこまでも続いていて果てがないように思えるが、その先には自分たちの目指すゴールがあるのだ。

そうして二人は夜の闇に包まれた山道をゆっくりと歩いていく。

すると駐車場の案内が書かれている見覚えのある看板が見えてきた。
どうやら彼女の車がある目的地の駐車場まで辿り着いたようで、そこに止まっている七子の白い車を見つけた涼介は、そこで足を止める。

「俺はひとつ下の駐車場に止めてあるから、ここでお別れだな」

「あ、そうなんですね」

二人はそうやって一言だけ交わすと、お互いに顔を見合わせながら小さく微笑む。

「じゃあまたな」

「はい、お疲れ様でした」

そして、それぞれ別の方向へと進んでいく。
涼介は七子に軽く手を振ると、その背中はどんどん遠ざかっていく。

彼の姿が見えなくなるまで彼女は見送ると、自分もまた駐車場へと向かって行った。
そこには、すでに片手で数えられる台数しか車が残っておらず閑散としている。

そして七子の車のすぐ近くには、例の彼の車が止まっていた。

(終わってから、ここまで降りてきたのかな?)

彼女はそんなことを考えながらも、自分の車に近づいて行く。
そして自身の車へと乗り込むために鍵を開けようとしたその時だった。

「お姉さん、ちょっといい?」

背後から聞きなれない声がしたので振り返ると、そこには黒の武神と呼ばれる長身の男が立っていた。

その男は精悍な顔立ちをしており、自信に満ちた目つきをしている。
年齢は二十代半ばくらいだろうか、落ち着いた雰囲気と鋭い眼光からは、どこか近寄り難い印象を受ける。

しかし訝しげに身構える彼女に、両手を上げながら気さくな笑みを浮かべて彼は続けた。

「怖がらせるつもりはないんだ、ごめん」

「えっと……なんでしょう?」

突然の出来事に困惑する彼女だったが、とりあえず話だけでも聞いてみることにする。
すると彼は表情を変えずに淡々と口を開いた。

「君この間、高橋啓介の横に乗ってた子だよね?」

「そ、そうですけど」

「ああ、やっぱりな。この界隈に女の子って珍しいから、もしやと思ってさ……こんな偶然なかなかないっしょ、少し話さない?」

「え、私と?」

突然の誘いに七子は戸惑うが、彼は気にせず話を続ける。
どうしようかと悩んでいたが、彼はこちらに有無を言わせないような態度でいるので断るのも気が引けた。

「この間のバトルは、ありがとう。いい勉強になった」

彼の口から出てきた意外な一言に、七子は思わず驚く。

「いえ、こちらこそ……ありがとうございました」

あの時の啓介の走りを見て、彼が何か思うところがあったということなのだろう。

さらに彼は言葉を続けた。

「きっと君と啓介でコースを組み立てたんだろうけど、彼のことを良く理解した上でないとできないことだ」

「確かに、そうですね」

彼の表情は穏やかだったが、その目は真っ直ぐと七子を見つめていた。
その様子は彼女のことをよく観察しているようで、まるで心の内側までも見透かすような鋭さを秘めていた。

二人の関係を探っているようで、七子は少し居心地の悪さを覚える。

彼はそんな様子を察してなのか、ふっと笑うと表情を崩して続ける。
その笑顔は人懐っこいもので、先ほどまでの表情とは打って変わっていた。

「君たちは、プロの道をめざしてるんだろう?」

そう言うと、彼は少し間を置いて言葉を選ぶようにゆっくりと話し出す。

「俺も同じだったから分かるんだ。プロを目指すなら、もっと貪欲に上を目指した方がいい」

彼の言葉には重みがあり、それだけの経験を積んできたのだろうと思わせる説得力のようなものを感じた。
だがそれは決して上から押し付けるようなものではなく、あくまで相手を尊重した上での言葉のように思われた。

「はい……」

彼女の返事を聞くと彼は満足げに笑みを浮かべるが、その笑みは一瞬にして真剣なものに変わる。

「自分の力に溺れて驕るやつは、どれだけ良いテクニックを持っていても消えていくよ」

それは忠告というよりも、自分自身に向けた戒めのような響きを持っているように感じられた。

「そういう奴を俺は何人も見てきた……」

彼はそう呟くと、遠くを見据えるように空を見上げる。
そしてそのまま黙り込んでしまったので、彼女はその様子を静かに見守っていた。
すると彼は視線を落とし、再び彼女と向き合う。

その目つきは鋭く、先ほどの柔らかな雰囲気はすでになくなっていた。
それはまるで獲物を狙うような、狩人の目をしていた。
その視線は七子の目をしっかりと捉え、逃すまいとしているようだ。

「……だから俺はさ、高橋啓介みたいな才能のある奴は嫌いなんだよ」

その言葉を聞いた瞬間、七子の全身は粟立つ。

まるで心臓を直接掴まれたような感覚に襲われ、彼女は恐怖を覚えた。
彼女の鼓動は高鳴り、背筋にぞくりと悪寒が走る。

目の前にいる男の雰囲気は一変し、まるで別人のようだった。

彼の短い前髪の合間からは、あの時と同じような鋭い眼光を覗かせており、それが彼女を見つめる。
今まで見たことのないような彼の冷たい視線は、まるで自分の全てを暴かれているような気持ちになる。

「……」

「もちろん、君にだってこれ以上負けないよ」

それは宣戦布告とも取れる言葉だった。

彼の言葉を聞いた七子は、無意識のうちに拳を強く握りしめていた。
そして彼の視線から逃れるかのように目を逸らすと、静かに口を開く。

「お言葉を返すようですがっ……!」

七子は思わず声を上げる。

こんな風に他人と言い争うことなんて滅多にないことではあるものの、今の彼女にそんなことを気にしている余裕はなかった。

「……啓介だって悩んだり、上手く走れない時もあったりするけど……だから啓介なりに人一倍、努力してます」

その声は僅かに震えているようだった。

その視線に射抜かれてその声に怯えながらも、それでもなお彼女の中にある何かが奮い立たせる。
そしてその瞳には強い意志が宿っていた。

それは決して揺らぐことはない。

「それを知ってて……バトルに勝つことを、私は絶対に譲らない!」

彼女は自分自身に言い聞かせるように、その言葉を噛み締める。
その声は静かであったが、はっきりとした意思を感じさせるものだった。

すると彼は驚いたような顔をすると、そのまま笑い出した。
その顔からは敵意のような感情は消え、いつもの穏やかなものに戻っている。
その変化に七子は戸惑いつつも、彼の様子を窺う。

すると彼は楽しそうな声で言った。

「いいねえ、そういうことだよ。本当に最高だ」

その声色からは、どこか嬉しさを感じているようにも思える。
笑顔を浮かべている彼は、そのまま話を続ける。

「まあ、これから梅雨迎えるし思うように走れなくなるけど、また機会があったら宜しくな」

その表情は、どこか吹っ切れたようなものになっていた。
その様子に、七子はどこか安堵する。

そして彼は爽やかな笑みを浮かべると、彼女の肩に手を置く。

「じゃあね、可愛いナビゲーターさん」

そう言って軽く手を振ると、近くに止めていた彼の車に乗り込む。
低い音を響かせながら走り去っていく車を見つめつつ、七子はほっとしたように大きく息を吐いた。

「ふうぅ……」

まだ手のひらが微かに汗ばんでいるのが分かった。
今になって、自分が緊張していたのだと気づく。
そんな彼女の脳裏には、彼の姿が焼き付いて離れなかった。

そうして彼女は車に乗り込むと、ハンドルを掴んだ両手に額を当てて俯いた。

「なによ、あの人……」

先ほどのやりとりを思い出しながら、七子は一人呟いた。

彼は今まで彼女が出会ってこなかったタイプの人間だった。
掴みどころがなくて、何を考えているのか分からない。

そして彼は啓介のことを嫌っていると言っていたが、その言葉とは裏腹に彼のことを認めているようにも見えた。
しかしそれ以上に彼の言葉の節々からは、啓介に対する羨望のようなものを感じた。
きっと彼は啓介の才能を妬み、そして憧れているのだろう。

そう考えると、七子はなんとなく彼のことが理解できた気がした。

「でも、私だって負けないんだから」

彼女の決意は固まっていた。
それは決して揺るがず、その想いは真っ直ぐ前を向いていた。



To be continued...




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