誰よりあなたが、


「すき、です……」

どれほどの時間が経ったのだろうか。
か細く絞り出す様な声が静寂の中に響いた。

晴天の空を透かしたような天色の瞳から、決壊したように大粒の雫が流れ出でた。

固く握られた修道服へと、一つまた一つと粒が落ちていく。

服から皮膚へと凋落する感覚が伝わり、それを媒介とするかのように彼女の苦悩、想い、他の全てが沁みてくるようである。


痛みを知り、分かち合えることができたならこの先もずっと一緒にいることができたかもしれない。

そんなことをふと思った。


居たたまれぬ心持ちで、彼女の華奢な体を強く抱き締めた。

はらり、と金糸の髪が彼女の身動ぎと時を同じくし重力に従い垂れる。



午後10時。

人気のない教会の教壇の下に、二人の儚げな重なり合う影があった。

色とりどりのステンドグラスから漏れる月光が、より一層柔らかく淡く照らしている。

まるで一枚の絵画のように時が止まっているような気さえしてくる。


腕の中の彼女は静かに涙を流し続けていた。

その涙は、きっと悲しみや苦しみだけではないはずだと信じていたかった。

彼は彼女を抱き寄せたまま、ただひたすらに頭を撫で続けた。


「七子さん……」


やっとの思いで出た声は彼女を気遣えるような事は言えず、ただ愛しい名前を呼ぶだけだった。


私は、彼女の気持ちの何が理解できる?

私は、彼女に何ができる?


私は一体、どうしたらいい?


頭の中を駆け巡るのは、自問自答をしても何一つ答えが出せないような問いばかりだ。


彼は聖職者として、神に仕える者として、ただ一人の人を愛することは許されないかもしれない。

それは、聡明な彼女であればとっくに分かっているはずのことだった。


しかし、自分の感情が邪魔をする。


指の間を流れる絹のような感触を楽しむ余裕などなく、ただただ優しく包み込む様に抱擁していた。


「七子さん。私も、アナタのことが……」


すると彼女が胸の中で顔を上げ、彼の顔を仰ぐようにして見つめてきた。

白い夜光に照らされ、涙に濡れ朱を差したような目元に見つめられる。

それでもなお美しい双眼からは止めどない程の慈愛の念が込められているようだった。


すると、陶器肌の細い人差し指で言葉を制するように私の唇に当てた。

それを見て、彼は全てを察してしまったのだ。


「言わなくても大丈夫、です」


苦しそうな凛とした声が耳朶を打つ。

私が想いを伝えることは、やはり彼女の負担にしかならないのか。

そう思うと、酷く悲しくて虚しかった。


「……私、何度も嫌いになろうとしたんです」


ぽつりと呟きながら、彼女はゆっくりと語り始めた。

今まで誰にも話したことが無かったであろう、彼女の心の内を。

その一言一句を聞き逃さないように、じっと聴き入った。


「でも、もう少し……少しだけこのままの気持ちでいていいですか?」


それが彼女の出した答えだった。

二人が恋に落ちる前に戻ることがでいたら、どれだけ良いだろうか?

しかし、表面張力を失った互いの想いは溢れ続け歯止めも効かない。

だからせめて今だけは、この瞬間だけでもお互いのことを想っていたいという彼女の願いなのだと感じた。

ならば、その望みを叶えたいと思う。

彼が小さく首肯すると、彼女は嬉しそうにはにかんで見せた。


「それと、私の最後のわがままです……」


「……!」


そして、そっと目を閉じたかと思えば、そのまま背伸びをして口付けをした。


触れるだけの優しいキスだったが、彼にとってはこれ以上無いほどの幸福であった。

柔らかな感触、彼女の息遣い、熱を帯びた吐息まで伝わってくるようだ。

ほんの数秒の出来事であったが、永遠とも思える程長く感じられた。


これ以上は許されない。

精一杯の二人の愛の証を確かめる。


すると示し合わせたかのように再度唇を重ねると、角度を変えて互いの感触を求め合う。

昂る感情に添うように、強く抱き締めた。


「んっ……」


彼女の口から漏れる甘い声が、より一層彼を駆り立てる。

もっと深く繋がりたいと、舌を入れると彼女は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに受け入れてくれた。

最初は遠慮がちに絡めていたが、徐々に激しさを増していく。

もう何も考えられないくらいに頭は真っ白になっていた。


言葉は何も要らない。

枷を放り投げて今だけは恋人たちのように、ただ、相手の温度を感じていたい。

触れるだけでいい、初めはそう思っていたのに。



どの位時間が経っただろう。

名残惜しむかのようにゆっくりと離れると、透明な糸が二人の間を繋いでいる。

そして彼女は、はにかみながら私に微笑みかける。


「カーターさん、ありがとうございました」


彼女の頬は上気しており、瞳は潤んでいた。

その艶やかな姿に思わずドキリとするが、悟られないように平静を保った。

そして彼女は、いつものふわりとした笑顔を見せてくれる。


(何て愛らしいんだ……)


彼女の笑顔を見ると、こちらまで自ずと笑みがこぼれる。

そう、私はこの笑顔に惚れたのだ。


「いいえ、アナタのためなら」


私は、彼女に恋をしている。

その事実だけが、今の私の全てだ。


例えこの先、どんな未来が訪れようとも、彼女と共に歩んで行くことはできない。

それでも、彼女が幸せになるのであればそれでいいと思った。


彼女のためであれば、私はいくらでも犠牲になれる。


「アナタは、強い人だ……」


彼はそう言って、もう一度だけ彼女を優しく抱きしめた。


「だから、きっと大丈夫」


彼女の耳元で囁くと、腕の中で小さく震えていた。

彼女は涙を拭いながら、こくりと首を縦に振る。

その返事を聞いて、彼は彼女を解放し、一歩後ろに下がった。


これでいい。

これが最善の選択だと自分に言い聞かせる。


「さあ、夜もだいぶ遅いです。七子さんも朝はお早いのでは?」


帰ってほしくないという思いと、終わりにしなければと言う相反する気持ちに、ここまでも葛藤させられるとは思いもしなかった。

自分が狂おしくなるほどの心の中で、渦に巻かれているのが分かる。

それでも、彼女にこれ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。

これは、彼が背負わなければならない罪だ。


「そうですね……長居してしまってごめんなさい」


すると、彼女が申し訳なさそうに謝った。


そんな顔をしないで欲しい。

そう思う反面、やはり彼女が帰ってしまうことに寂しさを感じている自分もいる。

彼は胸の奥底から湧き上がる感情を押し殺すように、ぐっと拳を握った。


「では、また」


「ええ……」


最後に笑顔を交わした。

そして、教会の大きな扉へと歩いて行く背中を見つめることしかできなかった。

恋人ならばその小さな背中を抱き締めることができるのに。


いつも彼は七子のことを想って、その背中に追いつくことができるように走り続けていた。

しかし立場を思うと、どうしても歩を進められなかった。

自分の気持ちに嘘をつき、彼女の気持ちを踏み躙っていることは分かっている。

だが、これが彼の選んだ道なのだ。


「……七子さん!」


扉の前まで行った彼女が声に気付き、彼の方を振り向く。

月明かりの届かない扉の前は、酷く暗く感じた。


「また、明日……おやすみ」


「おやすみなさい、カーターさん」


掠れたような震えた声が聞こえる。

暗闇に佇む彼女の頬に月明かりに照らされ、一筋の光を見たような気がした。



そして、ゆっくりと教会の大きな扉を閉めたのだった。



私にはこれくらいのことしか、する資格がない。

彼女の決心を揺るがせるような大層な言い訳も用意していない。


ましてや、愛することなど。


しかし、これだけは願わせてくれ。



「どうか、幸せに」



そっと、暗くも白い静寂の中で誓った。





     好きだった。



fin.




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