ジェニュイン・ハート


時系列としては、ハチロク対シビック戦のあと慎吾のEG6が修理終わって車屋から返ってきた時くらいの話です。


「はあ、疲れた」

七子は仕事を終え、最寄り駅から自宅に向かって歩いていた。

いくら日中に比べると暑さが和らぎつつあるとはいえ、まだ夕方の日差しには熱が残っている。
そんな湿気を孕んだ空気の中を歩きながら、彼女は小さくため息をつく。

「誰か送ってくんないかなあ」

今日も一人かと肩を落としていると、後ろの方で車のクラクションの音がした。

振り向くとそこには、一台の赤い車がハザードを焚きながら止まっていた。
それは何度も見たことのある車で、七子はすぐにその車の持ち主に気がついた。

助手席側の窓が開き、そこから声がかけられた。

「よう、七子。今、帰りか?」

運転席に座る精悍な顔つきをした痩身の男がこちらを見つめていた。
その男はセンターパートにした栗色の前髪を夏の風に揺らし、薄い唇の端を持ち上げて笑っていた。

「慎吾! シビック返ってきたの? ていうか、腕は?」

「いや……普通に運転する分には、そんな問題ねえよ」

そう言うと慎吾は、右手首をぐるりと回して見せた。

彼はつい二週間前に秋名山でバトルをした際に事故に遭い、右手首を捻挫してしまっていた。

だが今は、ほとんど捻挫しているようには見えないほど彼の動きは滑らかだった。
その様子に七子はホッとした表情を浮かべた。

「良かった。心配したんだからぁ」

「あんがとよ。つか、乗ってけよ……送るわ」

慎吾は親指で助手席を指すと、七子に乗るよう促す。

「え、本当? ラッキー!」

それを見て彼女は嬉々として乗り込むと、車はゆっくりと走り出す。

車内に流れるBGMは以前と同じように洋楽のユーロビートばかりではあるものの、その中に少しだけ邦楽の曲が入っていた。

それは最近人気が出てきたロックバンドの歌である。
その曲を聴きながら、七子は思い出したかのように口を開いた。

そう言えばねと前置きすると、彼はどうしたと尋ねる。

「事故する前の日から会ってなかったけど、やっぱ結構酷かったよね?」

「……おう、まあな。ガードレールに衝突した時のキックバックで手首捻挫した」

慎吾は正面を向いたまま、右手首を擦りながら答える。

「あとコイツのフレームは何とかもったけど、左サイドとバンパーが特にやばかったな」

彼からの返事が返ってくると、やっぱりかーと苦笑しながら七子は続けた。

「慎吾が来なくて大丈夫だって言ってたから、電話でしか話をしなかったけど……」

ハンドルを操作しながら答える慎吾の横顔をちらりと見やり、七子は彼の怪我の状態を確認する。

「元気そうにしてて、ちょっと安心したかな」

特に痛みなどは無いようで、本当に問題はなさそうだ。

彼が事故に遭ったという話を高校からの親友である沙雪とチームリーダーの毅から聞いた時、正直七子は生きた心地がしなかった。

彼が好きでやっていることは知っていたが、それでも危険な目に遭ってほしくなかった。

だからこそ、こうして元気そうな姿を確認できて安心していた。
ふっと頬を緩ませて笑みを浮かべていると、慎吾は彼女の方へ視線を向けた。

「今はだいぶ良くなったけどな。重いモン持つ以外なら、日常生活にも支障ねえしな」

彼はそう言って、くしゃっと笑う。

七子はその笑顔を見ると、胸の奥が締めつけられると同時に切なくなった。
どうしてこんな気持ちになるのか分からないまま、彼女はただ黙って彼の横顔を見つめていた。

「そっか、良かった」

「ドライブもできっから、前みたいにまたどっか行こうぜ」

「うん、行こう!」

以前のように彼と二人で出かける約束をすると、七子は弾むような声で答えた。

そんな彼女を横目に見つつ、慎吾は再び口を開く。

「なあ、七子……」

その時ちょうど赤信号に引っかかり、慎吾はブレーキとクラッチを踏みながらゆっくりと停止させた。

「なあに?」

そのままギアを一速に入れ直すと彼はハンドルに手を添え、前を見つめたまま言葉を続ける。

「このあと、暇だったらさ展望台まで行かね? 久々に、コイツ動かしてやりてぇし」

点滅する歩行者用の青信号を眺めながら慎吾が提案すると、七子は驚いた表情を見せた。
まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだ。

しかし今日は平日で、いつものように仕事を終えた後なので時間はたっぷりある。
断る理由もないため、二つ返事で了承する。

「いいよ、行こ。妙義山?」

「ああ」

そして歩行者用信号機が赤になると同時に慎吾は左へとウィンカーを出して、車は青信号を左折して再び走り出した。

「つっても……今日は、攻めねえけどな」

「私は、峠攻めてなんて言ってないからね! いつも慎吾が勝手に……!」

七子が話している途中で、慎吾が彼女の口を手で抑えてきたため、彼女はそれ以上話すことができなかった。
突然の行動に目を丸くしながら彼を見つめていると、慎吾は小さく笑いながら手を離した。

「お前も楽しんでんだから、同罪だろ?」

その顔にはどこか悪戯っぽい表情が浮かんでいる。

まるで子供のような無邪気さに呆気に取られつつも、彼はこういう人だったと思い直したのだった。

「もお!」

そして彼の左腕を軽く叩くと、彼は悪びれる様子もなく笑って見せた。

「痛っ! お前のせいで、シフトチェンジできねえわァ」

そう言いながらも、彼は楽しそうに笑っていた。

その後しばらく二人は他愛のない会話をしながら、夜の妙義山へと向かったのであった。



妙義山へと向かう道は混んでおらず、比較的スムーズに登っていくことができた。
やがて山道を登りきると駐車場があり、そこに車を止めた二人が降りてきた。

展望台は週末になると多くの走り屋たちが集結し賑わいを見せる場所だが、今は平日ということもあり人の姿はほとんど見られなかった。

太陽は遥か地平線の彼方へと沈み、空は藍色の夜に染まっており、街灯の明かりだけが周囲を照らしていた。
そのせいで辺りには薄暗さが漂い、普段とは違う雰囲気に包まれている。

すると涼し気な風が吹き、木々の枝葉を揺らす音だけが辺りには響いた。

「俺、飲みモン買ってくるわ。七子は微糖のコーヒーで良かったか?」

慎吾がそう尋ねると、七子はこくりと首を縦に振った。
すると彼は、自販機のある方へ向かって歩いて行く。

その姿を見送った七子はふっと息をつく。

彼と一緒にいるだけで、心臓の鼓動は早まり身体は熱くなるようだった。
こんな風に感じるようになったのはいつからだろうか。

少なくとも、少し前まではこうではなかったはずだ。

彼と過ごす時間が増え、一緒にいるうちに変わっていった気がする。
最初は沙雪から紹介された友達としてしか見ていなかったはずなのに、今は違う。

一人の男性として意識していることを自覚していた。

そんなことを考えていると、頬を赤く染めたまま七子はその場に立ち尽くしていた。

「ほらよ」

その時、自販機から戻ってきた慎吾が缶コーヒーを手渡してきた。

「ありがとう」

「ん……」

それを受け取ると、七子は彼に礼を言いながら微笑んだ。

そして静寂に包まれる中、二人は肩を並べてゆっくりと歩き始める。
その足取りはゆったりとしており、二人の間に流れる空気は穏やかだった。
お互い言葉を交わすことなく、しかし同じ時間を共有しているということが二人の心を落ち着かせていた。

そして数分もしないうちに、展望台へと辿り着く。

そこには、普段の景色とは違う光景が広がっていた。
満天の星々が輝く漆黒の空間に無数の小さな光が散らばっており、それらは瞬きながら煌めいている。

二人にとってこの場所は、特別なものだった。
沙雪と彼女と仲の良い真子の車に乗って三人で妙義山を訪れた時に、ちょうどチーム活動をしていた慎吾を紹介され、ここは正に二人が初めて出会った場所であった。

その時のことを思い出しながら、七子は慎吾の方へ視線を向ける。

「あそこ座ろうぜ」

「うん」

彼はいつもと変わらない様子で、展望台の中央にあるベンチへと腰掛けた。
七子も隣へと座り、星空を見上げる。

「良かったね、シビック直って」

「本当にな。毅にもチームの皆にも、めちゃくちゃ迷惑かけちまったわ……秋名のやつらにも」

慎吾は苦笑いを浮かべて、頭を掻いている。

「そんなに強かったんだ。秋名のハチロク」

「……ありゃ、バケモンだぜ。手ぇ固定されてFRのくせにビビりもしねえで、ドリフトしてやがんの」

「え、なにそれ!」

慎吾の言葉に七子は思わず声を上げた。

その話を聞いただけでも、かなりの腕前だということがわかる。
実際に戦ったという慎吾の話を聞けば、それは尚更のことだった。

「だろ? 俺もワケ分かんねえよ」

「そこもだけど……片手固定してハンドル握ってたの!?」

慎吾は、その問いかけにこくりと首肯する。
七子はその事実に驚愕した。

峠を攻める上で特にダウンヒルではスピード感が増し、恐怖心が増すものだ。
そんな中で、片手を固定している状態でステアリングを握っていたというのだから驚きである。

「ああ。ガムテープデスマッチ、ってな」

得意げに話す慎吾だったが、それを聞いていた七子の顔は青ざめているように見える。
そして彼の怪我を思い浮かべてしまう。

もしも、自分が同じような状況になったらと考えてしまったのだ。

「本当に、あんたってさ……すごいよ」

慎吾の無事を喜びつつも、その行動力には脱帽するばかりだった。

「え、やっぱり?」

「褒めてないわよ! 呆れてんのっ!」

彼は七子の反応が意外だったのか、ぽかんとした表情を浮かべている。

だがすぐに、ニヤリと笑みを漏らす。
その顔はどこか嬉しそうであり、彼女にはそれが不思議でならなかった。

「んだよ、たまには褒めろよお」

慎吾は冗談交じりにそう言いながら、七子の肩を抱き寄せてくる。

突然のことに彼女は身体を硬直させ、動けずにいた。
心臓は早鐘を打ち始め、身体の熱が上がっていくのを感じる。

「い、今のところ褒めるとこないし!」

彼女がそう言うと、彼は何事も無かったように身体を離した。

「お前、相変わらずキビシーなあ」

すると慎吾は買ってきたコーヒーを開けると、そのまま口をつけた。
その様子を横目で見ていた七子は小さく息をつく。

(なんなのよ、もう……)

そんな彼女の気持ちなど露知らず、慎吾はコーヒーを飲みながら空を眺めていた。

そして彼女も彼に倣うように、少しだけ温くなった缶のプルタブを起こしてコーヒーを口に含む。
コーヒー独特の香りが鼻腔を刺激し、心地よい苦味が舌の上に広がっていった。

しばらく無言のまま二人は夜景を見つめていたが、彼女は再び彼に話し始めた。

「……てか、直すのにどれくらい掛かったの?」

「修理代か? まあ……保険抜きだと、給料三ヶ月分くらい飛んだな。婚約指輪じゃねえんだから勘弁しろよなって感じ」

「あはは、確かに! まあでも、派手にやったね」

慎吾の話を聞いて、思わず笑いが込み上げてきた。
しかし想像以上に金額が掛かっていることが分かり、改めて事の大きさを知ることになる。

「走り屋やってたら、いつかはこうなると思ってたけどよォ……正直、ショックだよな。まあ、俺が悪いんだけどさ……」

彼は苦々しく呟きながら、溜息をついた。

その様子から察するに、今回のことでかなり落ち込んでいるようだ。
そして同時に、彼がどれだけ車を愛していたかということも分かる。

七子は彼の心情を理解しながらも、敢えて明るい口調で言った。

「そうだよね。慎吾、あのシビック普段は・・・大事にしてたもんね」

「普段は……って。まあそうか、俺の悪ぃところよな」

普段乗っているシビックは大切にしているものの、バトルとなると別らしい。
それは車に対する愛情というよりも、勝負に対しての意識が強いということだろう。

だからこそ、今回の出来事は彼にとって大きな痛手となったに違いなかった。

「そうだよ。慎吾のレース見てて心臓もたないよ……」

今まではレース中に事故が起きても、当事者同士の問題だと思っていた。

しかし今回ばかりは違う。
彼から無理な勝負を仕掛けた上に、プライドを守るためにダブルクラッシュを狙った結果、単独事故を起こしてしまったのだ。

それは彼のことを大切に思ってくれている人間がいるということを、自覚していない証拠でもあった。
彼の性格上、そういう部分があるのも理解していたが、いざ目の当たりにしてしまうと複雑な心境になる。

七子はそんなことを考えながら、眉根を寄せた。

「すまん。そうか……やっぱ操るテクニック、だよなあ」

慎吾は七子の言葉に反省したのか、気まずそうな表情を浮かべる。
どうすれば良いのか分からないという、困惑の色もあった。

それを見た彼女は、ふっと微笑む。

「そのために皆、チームで頑張って腕磨いてんでしょ?」

それはチームに所属しているメンバー達と仲の良い七子だから言える言葉だった。

一人だけでは限界があるが、仲間と一緒なら乗り越えられるものがある。
それを慎吾にも分かって欲しいと思ったのだ。

彼はその言葉を噛み締めるように、こくりと首肯する。

「……だよなァ」

「じゃあ尚更、正々堂々と勝負しなきゃ納得しないよ。しかも、チームのナンバーツーなんだし示しつかないよ」

諭すように言った彼女の声色は優しく、穏やかだった。
慎吾はその言葉に、ハッとした表情を浮かべていた。

「……」

「それに毅さんもきっと、慎吾のテクニックを買ってチームに置いてくれてるんだから……ね?」

その一言で慎吾の目つきが変わる。
何か思うことがあったのか、彼は静かに俯くと小さく息を吐いた。

「ああ」

それからしばらくして、慎吾は顔を上げる。
まるで自分に言い聞かせるような仕草に、七子は小さく笑みを漏らした。

「ごめんね、なんか説教くさくて。慎吾には強くいてほしいし、走ってる時……ちょっと、かっこいいし」

すると彼はバツが悪そうに頭を掻くと、照れ隠しなのかぶっきらぼうな口調で言う。

「あー、はいはい。ちょっと、な」

それが妙に可笑しくて彼女は堪えきれず、クスリと笑う。

「ふふ……せっかく褒めてんのに」

そんな彼女を横目で見た慎吾は、どこか満足げな表情を浮かべていた。

「でも今回は、ハチロクの坊主に負けたら地べたに手ぇついて謝るとか言っちまったけど……それどころじゃなかったけどな」

慎吾は右手をゆらゆらと揺らしながら、小さく笑って自嘲気味にそう言った。

「……」

「おい、今の笑うところだろうがよ!」

沈黙に耐えられなくなった慎吾が冗談交じりにつっこんでも、彼女は黙ったままだった。

「馬鹿……」

「あ? なんだよ」

その様子に違和感を覚えた慎吾が視線を向けると、七子は顔を真っ赤に染めて彼を睨んでいた。
その反応を見て、ようやく自分の失言に気付いたらしい。

「慎吾の馬鹿! 本当に心配してたんだから!」

「す、すまん……」

七子は慎吾に食って掛かると、勢いよく立ち上がる。

「もう! 慎吾の分からず屋!」

そしてそのままベンチから離れようとしていた。
しかしすぐに慎吾は、彼女の手を掴む。

「お、おい! 待てって……!」

振りほどこうとしても、びくともしなかった。
それどころか、逃さないと言わんばかりに強く握られてしまう。

その力強さに七子は観念したのか、ゆっくりと振り返る。
慎吾は申し訳なさそうな、それでいて真剣な眼差しをしていた。
その表情に胸が高鳴ってしまうのは、惚れている弱みなのだろうか。

彼が何を考えているのか分からず、不安になってしまう。
七子は恐るおそる口を開いた。
その声色からは緊張している様子が伺える。

「慎吾ってさ、少し馬鹿なところあるけどさ……」

「馬鹿って……」

慎吾は苦笑いしながらも、続きを促すように彼女を見つめた。
その視線を感じながら、七子は言葉を続ける。

「でも、見た目に反して繊細なところがあるのも知ってるよ」

「……」

「自分を守りたいから、相手を傷つけちゃう弱いところもある。それは分かってる」

彼女が何を言い出すのかと思えば、思いの外真面目な内容だった。

慎吾は一瞬驚いた表情を浮かべたが、その言葉を噛み締めるように耳を傾けていた。
それは今まで慎吾が否定してきたことであり、自分でも認めたくないことだったからだ。

だが、今は違う。
彼は七子の言葉を素直に受け止めることができた。
それは彼女が自分のことを信頼しているのを理解しているからであった。

「でも慎吾の……好きなことに一生懸命になれるところ、私は好きだよ」

彼はその言葉を聞くと、息を呑んで目を見開いた。

それから彼女はどこか寂しげな笑みを浮かべて、彼を見つめる。
その瞳は、微かに潤んでいるように見えた。

それはきっと、彼自身が気付いていない感情を彼女から向けられているのかもしれないからだと彼は思った。
だからこそ彼女は真っ直ぐに、こんなにも伝えてくれているのだ。

彼はそう考えると、無意識のうちに掴んだ手に力がこもっていた。

「だから、無茶はしてほしくないよ」

すると彼女は困ったような表情を浮かべ、眉尻を下げていた。
その表情を見た彼の心は酷く痛む。

「七子……」

彼女を悲しませてしまったという罪悪感と、自分自身への怒りでいっぱいだった。

自分はまた、同じ過ちを繰り返すのか。
そんな気持ちが彼の心を支配する。

「……だって、慎吾に居なくなって欲しくなんかないもん」

すると彼女は、今にも泣き出してしまいそうな声でそう言った。

「な、泣くなって……」

その瞬間、慎吾の中で何かが崩れ落ちる音がした。
それと同時に、彼の中にある想いが強くなっていく。

それは七子に対する強い愛情だった。

彼女を泣かせてしまうくらいなら、いっそのこと嫌われた方がいい。
彼はそんな風にさえ思うようになっていた。
それほどまでに彼女の存在は、彼にとって大きなものになっていたのである。

そんな彼女の泣き顔に耐えられなくなった慎吾は、そっと七子を抱き寄せた。

「……!」

腕の中にいる彼女の存在を確かめるように優しく抱くと、平静を装いながら冗談交じりに言った。

「七子、お前……そんなん言うって、俺のこと好きすぎだろ」

それが精一杯の強がりだと気付かれないよう、必死に虚勢を張っていた。

しかし彼女は突然の行動に驚きながらも、抵抗する様子を見せなかった。
それどころか、まるでそれを待っていたかのように、ぎゅっと抱きついてくる。


「……好きだよ!」


涙混じりの声ではあるものの、はっきりとした口調で言う。
その言葉を聞いた慎吾は目を大きく見開くと、何も言わずにただじっとしていた。

それは予想外の展開すぎて、どうすればいいか分からなくなってしまったのだろう。

彼の心臓の鼓動は激しく脈打ち、思考回路はショート寸前だった。

「え?」

ようやく絞り出した声は情けないもので、慎吾は思わず顔をしかめる。
そしてすぐに、今のは幻聴ではないのかと思い始めた。


「好きなの! 慎吾のこと! 気づいてよ、馬鹿っ!!」


しかし、その考えはすぐに否定される。
七子は語気を強めているものの、さらに力強く慎吾に抱きついていた。

「……は、嘘だろ?」

「こんなとこで誰が嘘言うよの……!」

七子はそう言って、潤んだ瞳で睨みつけるような明らかに挑発的な態度だったが、それでも慎吾は戸惑っている様子だった。

しかしそれは普段の彼女からは想像できないほど大胆で、とても愛らしく見えた。
その姿に胸が高鳴ってしまうのは、どうしようもないことで、彼女の行動ひとつひとつから目が離せなかった。

しかしながら、それだけではない。

彼女は自分に好意を抱いていると分かったからこそ、こんなにも嬉しいのだ。
その事実が慎吾の心を揺さぶる。

すると今まで感じたことのないほどの幸福感に包まれ、慎吾は七子を強く抱きしめ返した。

それは、自分のものだと確かめるように。
もう二度と離さないように。

その行動は七子にとって予想外だったようで彼女は一瞬驚いた表情を浮かべたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。

そして身体を離して慎吾が彼女の顔を見ると、今まで見た中で最高の笑顔を浮かべていた。

「ンだよ……七子も素直じゃねえじゃん」

慎吾はニヤリと笑うと、からかい混じりに言った。
その言葉が気に障ったようで、彼女はムッとした表情を浮かべる。
だが、すぐに顔を綻ばせると言い返す。

「うっさい!」

それはいつもの調子を取り戻したような、楽しげな表情だった。

慎吾はそんな彼女の姿を見て安堵すると、自然と頬が緩んでいた。
その笑みを見た七子はどこか恥ずかしそうにしているものの、同じように口元を綻ばせていた。


すると、ふと視線が重なる。


そして慎吾は彼女の柔らかな頬を優しく両手で包み込むと、七子の瞳に溜まる涙を指先で拭った。

「俺も七子のこと、ずっと好きだった。初めて会った時から……一目惚れだよ……」

そう言って彼は額をくっつけ合うと、お互いを見つめ合った。

「……嬉しい」

彼女を見つめるその瞳はどこか熱を帯びていて、吸い込まれてしまいそうなほど綺麗で魅力的だった。
そんな彼を見た彼女は照れくさそうにしながらも、幸せそうに目を細めるとゆっくりと瞼を閉じる。

七子のその仕草が可愛くて仕方がなかった。


そして彼女が目を閉じたのを合図に、彼は唇を重ねた。


柔らかな感触を確かめるように、そっと触れるだけのキスをする。

少しして慎吾は七子の腰に手を回すと、優しく引き寄せた。
すると彼女の身体は簡単に傾いてしまい、そのまま彼の腕の中に収まる形になる。

それは、彼が今まで付き合ってきた女性にしてきたキスとは違った。

甘く蕩けるようでありながら、それでいて優しい気持ちになれる。
心が満たされていくような感覚に酔い痴れると二人は夢中になり始め、息継ぎを忘れるほど何度も角度を変えて唇を重ね続けた。

そしてどちらからともなく舌先を伸ばすと、口内で絡み合わせる。
時折漏れる吐息さえも逃さないというように、二人は深く繋がり合った。

その瞬間、ぞくりと背筋が震えるような快感に襲われる。

それは今まで経験したことがないほど、甘い痺れを伴うものだった。

それ故にもっと、もっと欲しいと思った。
今までの想いをぶつけ合うように、お互いの繋がりを感じるように、その感情のまま強く求め合っていた。

七子も慎吾の首筋に両手を回して抱きつき、その身を委ねている。
やがて互いの呼吸音だけが聞こえるようになると、ゆっくりと唇を離した。

二人の間を銀の糸が繋ぎ、すぐに途切れてしまう。


すると慎吾は、愛おしそうに七子の頭を撫でる。
彼女は恥ずかしいのか顔を赤く染めると、目を逸らしてしまった。

「……あー」

しかし慎吾の方はそれどころではないようで、天を仰いで声を上げたかと思うと、再び彼女の方を見下ろした。

「やばい……」

耳元で囁かれる言葉の意味がわからず、七子は彼の胸の中で首を傾げる。
そんな彼女を見て小さく笑うと、慎吾は言った。

「すげぇ幸せだわ」

心の底から出たような彼の一言に、彼女の胸はきゅっと締め付けられるようだった。

すると彼は、さらに言葉を紡ぐ。

「でも男として情けないよなァ、お前に言わせるなんてさ……」

慎吾は自嘲気味に呟いた。
その表情には自分の過去を否定する後悔と、どうしても変わることのできない自分に対しての諦めのような色が浮かんでいる。

「そんなことないよ」

彼女が頭を横に振ると、月明かりに照らされた艶やかな黒髪がさらさらと揺れ動く。
その動きすら、とても美しく見えた。

慎吾はその光景に見惚れながらも、さらに続ける。

「こんな俺でも、一緒に居てくれるか?」

その声音は、ひどく切なげなものになっていた。
七子は顔を上げると、まっすぐに慎吾の目を見る。

そこには不安げに揺らぐ瞳があった。
それは彼が初めて見せる、弱々しい姿だった。

彼女はその目を見ると、安心させるように柔らかく微笑み、その問いかけに彼女は迷いなく答える。

「うん、当たり前じゃん!」

その言葉を聞くと、慎吾はすぐに顔をほころばせ、再び強く抱きしめる。
七子の体温を感じながら、彼は自分が欲しかった言葉を得られたことに喜びを感じていた。

「ありがとな、七子」

「ううん」

そう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

そして二人は見つめ合い、お互いの存在を確かめ合うようにもう一度キスをした。
今度は触れるだけの優しい口づけだったが、それでも気持ちは十分すぎるほど伝わってくる。

やがて二人の唇が離れると、慎吾はぽつりと言った。

「……あれ飲み終わったら、帰るか?」

「うん、そだね」

そう言って慎吾はテーブルの上に乗っている缶コーヒーを顎で指す。
それを横目に見た彼女は少し名残惜しそうな声で返事をする。

そんな彼女を見た慎吾はくすりと笑うと、優しく頭を撫でた。

「そんな顔すんなって……またいつでも会えるだろ?」

彼が手を差し出すと、七子はやはり寂しいのか慎吾の手を握り、ぎゅっと力を込めた。
そんな彼女に彼は再び笑いかけると、手を握り返す。

「俺だって、寂しくないわけじゃねえし」

ぽつりと呟かれた言葉を聞き逃さなかった彼女は、彼の顔を覗き込みながら尋ねる。

「ほんとに?」

「ああ……そりゃあ、な?」

「ふふっ、そっか良かった」

慎吾の言葉を聞いて、ようやく笑顔を見せた彼女を見て安堵したのか、つられて彼も笑った。

そうして温くなってしまったコーヒーを飲み干すと、二人はベンチに背を向けて歩き出した。

「行くぞ」

「うん!」

そうして二人は、車へと歩いていく。


互いの指を絡ませて手を繋いだまま、決して離れることはなかった。

これからも二人は同じ時間を歩んでいけると、そう確信していた。





fin.

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彼女ちゃんの働きかけがあったおかげで、ハチロク対シビック戦のあと慎吾の性格が丸くなったと考えたら胸アツでした。




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