「…………………。」
会社が終わり大いに賑わう忘年会の最中、悩み続けていた思いを吹っ切らす為に浴びる程酒を飲み切ってしまった女がここに一人。案の定ぐらりと酷い目眩を起こし、とてつもなく嘔吐を催してしまい、一人では立てぬ状態になってしまう始末。
酒はそこまで強くなかったが、飲まなければ気がどうにかなりそうだったのだ。とろんと目を座らせて、否、介抱する同期を睨みつけるように彼女は瞳を鋭くさせる。だから止めた方がいいと言ったのに、そんな呆れた言葉が聞こえてきたからだ。
「うるさい、一人にして頂戴。」
「えっと………。」
彼女の機嫌を損ねる言葉を掛けた張本人である徐庶は、気まずく背を向けては携帯を取り出してある人に電話を掛けた。もしもし、と出た先にはそれはもう不機嫌そうに低い声。
ああ、こちらも何かと機嫌が良くないらしい。タイミングが悪いと嘆きながらも徐庶は簡単にななしの状況を説明して迎えに来るようお願いする。すると、彼はわざとらしく溜息を吐きながらも渋々合意をした。
「ななし、もう少ししたら彼が迎えに来るよ。」
「…………嫌、帰らない。」
「でも……こんな状況じゃ、君も辛いだろうし……。」
「勝手な事しないで…!酔いが醒めたら一人で帰るわ。」
ツンケンとした態度で言い放つななしだが、座るのもやっとの状況だ。これで今夜中に酔いが醒めるとはとても考えられない。何としてでも彼と帰ってもらわなければ、こちらが彼に怒られてしまう。
「だから………。」
暫く言い合いをしていると、扉を開けて堂々と上がり込んでくるスーツ姿の男が視界の端から入り込んだ。ギラリと鋭い目で辺りを見回し、こちらのやり取りに気付くと迷う事なく真っ直ぐに足を運んで来る。その出で立ちはサラリーマンと言うよりインテリヤクザの様な風貌と言った方が正しいだろう、他の社員は酔いも構わず震え上がらせる程だ。
彼の名は法正、働く企業は違えども、ななしと法正は高校時代からの付き合いである。後輩だった彼女とは直ぐ様恋人にまで発展し、今は結婚を前提に正式に付き合っている。
「ああ、法正さん、助かった。」
「…………………。」
近い内結婚をすると同時に会社をやめるという話を聞いて、徐庶は少しだけ寂しい気持ちになったのは言うまでもない。何せ、ななしとは幼い頃からの付き合いであり、時に頼れる友であり、何より初恋の相手だったのだ。しかし今では彼女の幸せを願う一人の友人としての立場をキープしている。これ以上は望まない、望んで二人との関係を壊したくはないから。
ななしの目の前にやって来るなり眉尻を下げて呆れた目をこちらに寄越す。当の本人はコックリコックリと舟を漕ぎだしている真っ直中だ。
「やれやれ、何をどうしたらこんな悲惨な事になるやら。」
「すみません、止めた方が良いと再三言ったのですが。」
「どうせコイツの事だ、殆ど飲めない癖にムキになって飲んだんだろ。」
「んー…………煩い、帰って………。」
夢の中でも誰かに文句言っているのだろうか、滑らかな肌の眉間に勿体無い位の皺を寄せて唇を尖らせる。そこまで来ると可愛いものだ、口にはしないもの、徐庶は何となく微笑ましくなった。
「では、お願いしますね。」
完全に動けない彼女をおんぶという形で背負う法正。鞄を腕に掛けて、落とさない様にしっかりと支える。
「世話になったな。」
そう言って賑わう人混みの中へと去りゆく二人を見つめる徐庶。自分の想いを打ち消すように、彼女の真似では無いが注がれた酒を一気に飲み干した。
「………………はぁ、少し重くなったんじゃありません?」
「………………んん……………。」
ゆらりと歩く度に揺れる身体、法正も会社帰りで疲労困憊の中、酔い潰れた彼女の為に懸命に両脚を動かしている。
「ここで下ろしてしまいたい位ですよ、全く。」
嫌味を言った所で彼女には届かない。
「………………。」
本当は、あの店まで一目散に走ってきた。電話を徐庶から受けた時、いち早く彼女を迎えに行く為に自然と足早になっていたのだ。たかが酔った程度、普通の人からすれば急ぐ必要性など微塵もなかったのだろう。しかし、酒を滅多に口にしない彼女だ、酔い潰れたと聞いて異様に不安を過ぎらせていた。
「………何を悩んでいた。そこまで飲む理由があったんだろ。」
聞こえているかはさておき、今はとりあえず問い質してみたい気分だ。やけ酒を起こす意味などこれしかない。
「不満があるなら言え、俺に何か不満があるのか?」
答えは返ってこない。それでも何度でも言葉を掛け続ける。
「嫌な事でもあったのか、何かあるのなら…………。」
「迷っているの。」
返ってくる筈もない返事が聞こえた。その声は酔いも忘れる程に凛としていて、しかし何処か不安を感じさせる程に震えている。
振り向く事が出来ないが、それでも表情は何となく分かる気がする。やはり予感は的中していたか、法正は足を止めて耳を澄ませた。
「迷っている、とは。」
「…………………会社を辞めたら、私の生き甲斐って何になるんだろう…って。今まで仕事ばかりに目を向けてきたから、いざ結婚の事を目の当たりして、不意に怖くなったの。……私の何かが変わってしまいそうで、怖いの………。」
恋愛は人並み、仕事は人一倍、故に彼女は恐れていた。この二つを両立して人生のバランスが取れていたのに、片方を失った場合、途端に自分の生き方が変わってしまうのではないかと。今の立場が最も幸福なのだ、会社で働いて生き甲斐を感じ、恋人と寄り添って幸せを感じる。
「好きだよ、本当に、孝直と結婚もしたいし子供も作りたい。だけど、その一歩を踏み出す勇気がまだ私には無い……。」
一度仕事の楽しみを知ると、なかなか変わる事は難しいのかもしれない。法正も薄々感付いてはいたが、いざこう本音を吐かれてしまうと言いたいであろう言葉が詰まる。
ななしの人生はななしの物であり、好きな生き方をしてもらいたいとは思う。しかし本音を言えば彼女には家で帰りを待っていてもらいたい。互いの仕事ですれ違ってばかりの寂しさを法正はこれ以上味わいたくはないのだ。
それでも彼は己を誤魔化すように嘯いた。
「…………それが嫌と感じるのであれば、決心するその日までお預けにしますか?俺はそれでも構いませんよ、無理強いは好みではありませんし。」
「もし、いつまでも仕事ばかりに目が眩んで、貴方が心変わりしたら?」
「愚問だな、俺の気持ちは揺らがない。もし、そんな事があったとしたならば平手打ちや殴るでもなんなりと。」
ななしの目尻には薄っすらと涙を浮かべ、今にも泣きそうだった。我儘な女でごめん、変わる勇気がなくてごめん、信じてあげられなくてごめん、と、遂には上擦った声で何度も謝るものだから、法正は今一度足を止めて言葉を繰り出した。
「迷って当然でしょう、貴女はこの道次第で変わろうとしている。だからといって無闇矢鱈に急く必要もない、俺は何時までも、必ず変わらない心でななしを待ち続けますよ。」
するり、と背負っていた重き荷がなくなり、いつの間にか背後に立ち尽くす女の姿。その足取りは未だふらふらと千鳥足で覚束無いが、閉ざさぬ瞳だけはしっかりと法正を捉えていた。頬には涙の跡を残し、耳まで紅く染まりきった彼女。
「孝直。」
「……なんだ。」
「キス、して。」
長い睫毛を揺らして、梅のように紅い唇を結ぶ。突然の申し出に法正は呆然としたが、彼女の真剣な眼差しに覚悟を見据え、両の頬をそっと包み込む。同時にゆっくりと瞼が落ちて、顎を少しばかり上に傾けた。
「それが、お前の答えなんだな。」
「………うん。」
しかと受け取った、顔を近付けて施すは深い口付け。ななしの口内は案の定酒で充満しきっていたが、良い意味でほろ酔わせる違った甘さを仕込んでおり、あっという間にこちらまで酔いの感覚を味わう。
ぬるり、と舌で追ってゆけば引っ込める彼女。逃さまいと奥まで絡め取って戯れ合えば、ななしもまたそれに乗じて拙いながらも舌を絡ませた。唾液に含まれたアルコールの苦味と法悦した甘みが丁度良く混ざり合い、二人の行為は更に過激さを増していく。
「んっ……………。」
人通りの少ない所とは言え、外での激しいキスはこれが初めてである。それ程に俺も飢えていたのか、身体は実に正直だ、法正は攻め立てながらそんな事を考えていた。それでも彼女が下した決断に有無は言わない、それが正しいのか間違っているのかは今後の二人にかかっている、それだけだ。
変わりゆくななしが苦しんだ時は、何があっても支えになる。決してその手を手放したりはしない。
「あ、孝直……………。」
気が付けば甘い吐息を漏らして恥じらう乙女の姿がそこにあった。そして酒の所為か、ななしの身体は何処か疼いて敏感に反応している。このままでは流石にまずいと判断した法正は、一旦唇を離して呼吸を与える。
「こう、ちょく………?」
「………外では流石の貴女も、嫌でしょう?」
悪戯っぽく笑うと、彼女は更に顔を真っ赤にして怒るように眉を上げた。
「ば、馬鹿!」
「ああ、やっぱりそれ位の気迫がないと、いつもの貴女らしくないですよ。」
そう正直に言えば、恥ずかしそうにななしは言葉を詰まらせて口を噤ませる。そんな変わらぬ愛らしい姿に法正も沈鬱していた気持ちが綺麗さっぱり吹き飛んだようだ。
「…………ありがとう。私の為に色々と気遣ってくれて。」
珍しく頭を下げるななしに、法正は黙ってそれを見ていた。
「………幸せにしてみますよ、誓って。」
二人の愛を確かめ合うように、再び抱き締めて優しいキスを交わした。
(どんな結果になっても、貴方と幸せでありたい)