悲しき桜の逢瀬

「隠した想い」の続編



「…………………なんだと。」

聞きたくはなかったが聞いてしまった、ななしが婚姻をするという話を。法正の表情は一気に凍りつき、思わず話した男の首を締めそうになった。

「………………。」

あの桜の下で袂を分かった日からおよそ二年が経ち、こちらも僅かながら心身共に落ち着いてきたというのに再び淀んだ感情が緩やかに沸き出す。望まぬ婚姻を結んで精神的に不安定な中、幾度ななしの面影を瞼の裏に浮かべた事か。妻は子が欲しいと行為をせがむが、到底そんな気になれずここまで拒んできた。抱く事を想像しただけで吐きそうだった、この身体はどうやらななししか受け入れない程に依存しているようだ。

「それは何処のどいつだ。」

「劉備殿と付き合いが長い友人と聞きました。この縁談も劉備殿が持ち掛けたとの事で、それはもう大いな婚儀になりましょうな。」

気に入らん、例え殿の決めた事でもななしを想う意志には到底勝りはしない。

「そうか。」

気に食わん、ななしが俺以外に好きな男が出来る事が。

「それと、法正殿もそろそろ奥方との子をお作りになった方が宜しいのでは………ひぃっ!」

気が付けばこの手は壁にめり込んで大きな亀裂を作っていた。男の頬を掠めたものだから当然悲鳴が上がり顔面蒼白。

「余計な世話だ。」

好きでもない女と身体を重ねて子を授かろうとこの乾いた心は満たされない。何もかもななしでなければいけないのだ。

「し、失礼致しました…。」

男は逃げる様に立ち去り、その場に残されるは拳を痛い程握り憤怒に満ちた法正。それは婚姻相手なのか、ななしに向けられるものか、普段冷静な自分でも考えがまとまらない。

血が流れても然程痛みを感じないのは抑えきれぬ激情故だ。

「なら、いっそ。」

強引に奪ってしまうのも悪くない、今まで無い程に口を弧に描いてくつりと喉を鳴らした。














「………………。」

あの別れから随分の時間が流れたというのに、未だ心の底に漂う彼への感情がななしを蝕んだ。二人でいる光景に何度胸が締め付けられただろう。彼女が彼に笑いかけて寄り添う度にどれだけ涙を流したのだろう。
しかし今ではその涙も空っぽになったのか、流す事も出来なくなってしまった。

「孝……。」

孝直、と愛しい名を呼べば甦るあの時の別れ際。最後まで言ってはいけない、言ってしまえばまた流れぬ涙を零してしまいそうになるから。

「駄目、私は私で幸せを掴まないといけない。」

これから訪れる幸せを心から受け入れなくては、ななしを大切に思ってくれる彼の為にも笑顔を絶やしてはいけない。
分かってはいるのだ。どう足掻いても忘却出来ぬ、色褪せぬ記憶を。例えそれを背負っていくとしても前を向かないと。

意識があやふやな中、扉の叩く音を耳にする。彼が来たのだろうか、戸を開けようと手を掛けたその瞬間、自分の中で警鐘が狂う程に鳴り響いた。

「…………………。」

心臓の音がやけに煩く動悸が目まぐるしく激しい、首を締められたような感覚に思わず身体がよろけてしまう。するとどうだろうか、ななしは自分の意思とは関係なくその扉を開けてしまった。

「あ…………………。」

ゆっくりと開かれる扉。見たくはなかった、その首飾りに血のように赤い布、鋭く射抜くような瞳で見下ろすその姿はまさに二年前と変わらぬ面影。

「逢いたかったぞ、ななし。」

外で美しく咲き誇る桜は、風に靡かれ儚く散った。















真っ暗な世界に淡く色付いた桜、手を伸ばして掴もうとすればひらりと躱されてしまう。まるで彼の心が掴めない。

「待って、お願い。」

幾千の花弁が舞い散っているというのに不思議とその手には何も残らない。

「孝直……………やだ、嫌だよ……!」

彼の想いが、何処にもない。










「…………………。」

痛みを感じてゆっくり目を開くと手首足首に赤い布が巻かれていて身動きが一切取れない状況に置かれていた。服は所々開けていてそこから覗かせるは見覚えのない小さな紅い華。頭は殴られた様な鈍痛を感じて想像以上に息苦しい。

「目覚めたか。」

あの日以来耳にしなかった声が朦朧した頭に幾度も木霊する。自分の身に一体何が起きているのだろうか、言える事は一つ、此処は満身創痍なななしと狂気に歪んだ法正の二人だけの世界という事。

すると法正が目の前まで歩み寄り片膝をついて不敵に笑う。その瞳は光を失っていて見えぬ恐怖を植えつけた。

「………どうして貴方がここにいるの………。」

「認めないからだ、お前が他の男といる事が。」

「……………………。」

「あの時、言った筈だ。それでもななしを愛していると。どれだけ離れようと決して忘れぬと。」

「お願い…………私の前に現れないで………彼女を幸せにして…………。」

「お前以外の奴などどうでもいい。」

これでは今を幸せに生きる奥様が可哀想だ、例えななしが法正を愛していたとしても、守るべきものが出来た限りこの身は二人の前に現れてはいけない、愛されてはならない。

心が壊れてしまう前に消えてほしい、二度と愛さないでほしい、いっそ嫌いになってくれたらどれだけ楽だろう。

「私は愛していないと言った筈………思い出して。」

「嘘をつくな。」

「嘘じゃない!!全部本当………っ、折角幸せを掴んだのに……心から頼るべき人が出来たのに……自分勝手な貴方に邪魔されたくない………お願いだから放っておいて…………!!!」

嘘だ、全部嘘。折角貴方が会いに来てくれたのに、心から頼れる人に会えたのに、自分勝手な私がいけないのに、願わくばもう一度手を繋いで寄り添えればどれだけ幸福か。

聞こえますか、叫びが、痛い程求める想いが、知られてはいけない愛が。

「……………………。」

彼は胸を突かれた様に呼吸を止めて瞠目した。かつて無いほどの拒絶、本意ではないとはいえ、全力の否定は法正の心に酷く深い傷を負っただろう。
そうでもしないと彼は退いてくれまい、息を切らせながらもう流れぬと思っていた涙をぼろぼろと流した。

終わった、そう確信したのだが。






「………………っ!!」



不意に感じる唇の温もり、動けぬななしに法正は何も言わず口付けを施した。これが彼との初めての接吻、悲しいのにほろ甘く、苦しいのに何処か優しい。

「ん…………っ!!」

離れたくとも決して許さぬ両手でななしの両頬を包めば、深くなっていく唇の感触と口内を支配するざらついた舌。暗い部屋の中で厭らしく響く水音が耳に嫌という程刺激を与えた。

「ん、っ………は………ぁ……!!」



くらり、視界が回る。彼との口付けで酸欠になっているのではなく、もっと別の何か。

「………………こ、れ………。」


「とうに…覚悟は、出来ている。」

彼の表情も先とは打って変わり苦しそうに口を歪ませる。

まさか、彼は、毒を。

「相容れぬ想いならば、いっそここで終わらせたらいい………。」

「待って………っ、やだ、私、本当は孝直の事……!」

遠のいていく意識、愛しい彼が霞んで視界が少しずつ狭まっていく。最後に感じるのは手を強く握る感触と濡れた唇の感触のみ。






「ああ、知っている。ななしの言いたかった言葉は、今でも愛してる……そうでしょう?」


だから誰にも邪魔されない世界へ行くんだろ。






















丘の上から見渡す景色は変わらず心を癒やし落ち着かせる。今年も桜が見事に満開で頬を掠める花弁が擽ったい。

「孝直、手を出して。」

「…………ああ。」

大きな手を握れば伝わってくる物が沢山ある。国の為に懸命に働く姿、一緒に街を並んで歩いた日常、嬉しそうに語った色々な出来事。どれもが共に歩んできた軌跡、幼馴染以上の感情。

「凄く安心出来る、こうして繋いでくれてると。」

「そうか、ならずっと握ってやる。」

「私ね、孝直。」

「どうした。」

心の奥底に隠していた言の葉を告げよう。

「………愛してます。」

「……やっと、言ってくれたか。」

「もっと早くに伝えたかった、これが本当の気持ち。………ごめんね、遅くなって。」


どうか来世でも貴方に逢えますように。この桜の木の下でもう一度愛の言葉を捧げよう。




(冥き部屋に眠るは手を繋いだ二人)