本命この世に唯一人

「……………もう、いいです。」

ななしは大粒の涙を零しながら電話の電源を切る。ほんの、ほんの些細な事だった。今から思えば自分の方が悪いなんて思い始めてしまって、終いには自責の念に駆られるという悪循環。明日は年に一度の重大なるイベント、バレンタインが待ち構えているというのに。

「法正さんと、喧嘩してしまうなんて……。」

謝らずに電話を切ってしまった故、これで直接渡すのは気まずいというもの。大好きな彼の為に道具や材料を全て揃えたというのにとんだ災難である。袋の中の板チョコを手に取っては小さく溜息を吐いた。

「……作るだけ作って、明日の夜に渡せなければ自分で食べてしまおう……。」

そんな僅かな希望を胸にななしは板チョコを真っ二つに割った。














「………………………。」

法正は未だ携帯のディスプレイを見つめ、眉間を歪ませていた。どうにも出来ない苛立ちの所為か、携帯の背面を指で不規則に叩く。

ああ、あれは俺が悪かったのか。

「……………ちっ。」

とはいえ、仕事上仕方のない事だった。怨むなら仕事を押し付けた奴を怨め、休日に無理矢理割りませた上司を。

が、明日会えないという事は、直接チョコを貰えないという事、ましてやこの喧嘩した状態でなど到底不可能か。

「面倒な事になったものだ。」

法正は何度目かの溜息を吐き、ソファに向かって携帯を放り投げた。












日付は変わり、虚しくもバレンタインはやって来る。

「うう……今日、渡せるかな………。」

ななしの手の平よりも少しばかり大きい箱、中身は彼の好みに合わせたビターチョコを詰め込んである。見た目はそこそこ完璧なのだが、味の保証が出来ないのが不安だ。

「……………………。」

しかし問題は味ではなく気持ち。ごめんね、と一言添えて渡したい。私の我儘の所為で気まずい思いにさせしまって。

でも、それで許してもらえなかったら?本当はこんなチョコを受けとりたくない位に怒ってたら?

ギッと睨まれて、振り払われたら、きっと立ち直れない。

「……やっぱり…………駄目、かな。」

きっと会社の女の子からも幾つか貰う筈だ。彼は仕事も出来て格好良いから、私が渡さなくても十分に事足りる。気持ちに整理がついてから近い内に言葉で謝罪をしよう、チョコを渡せなくても、嫌われたとしても、せめてこの思いだけは伝えたい。

そっと机の上に置いて、ななしは静かにリビングを出た。


一方法正の勤務する会社では、まるで学校で起きる甘酸っぱい青春のようなバレンタイン祭が繰り広げられていた。机に座る男性社員は無駄に腕脚を組み替えたりと誰もがそわそわし、見慣れぬ袋を持った女性社員はいつになく爛々と目を輝かせている。

そんな中、このインテリ悪党だけは心ここに在らずである。

「法正さん、良かったらこれ食べて下さい。」

「あの、手作りなんですが……宜しければ。」

正直、その言葉は聞き飽きた。朝から一体何人の女が同じ様な告白とチョコを持ってやって来た事か。下手すれば一切面識のないであろう社員まで押し掛ける始末だ。

「折角の手作りで嬉しいのですが、俺、甘いのは食べられないんですよ。」

げんなりとした顔付きで法正は、これで何度目なのか分からない、機械の様に心ない丁重なお断りを繰り返した。その嵩張る疲弊が目元をみるみる鋭くさせていき、言葉も次第に早口になっていく。

これでも俺には女がいる。喧嘩はしてるもの、誰よりも純粋に愛してくれる女が。

「や、やぁ……法正さん。」

「………ああ、そんなご丁寧に貰っていると、後が災難だぞ……徐庶。」

後ろから声を掛ける徐庶の腕に抱えるは大小不揃いのラッピングされた箱。それを見るだけで何処かうんざりしてくる。

「あはは、こんな俺にもくれる事が嬉しくて……いや、何より断る勇気がなくて……。」

「やれやれ……ま、俺には関係ないがな。」

ホワイトデーが楽しみだな、お前がどんな顔するか。口元を吊り上げて笑う法正。

「そんな法正さんも声掛けられてるじゃないですか。ええと、肝心のチョコは何処にも見当たらないのですが………。」

「ああ、こんな悪党でも一応彼女持ちでね、他人の贈り物は一切貰わない主義だ。」

「なるほど……一筋なんですね。」

「それに後で返すのも面倒だろ、本命は一人で結構。」

今その本命を貰えるかも危ういがな。

「じゃあ、楽しみですね、今日。」

失礼します、落とさないように立ち去る徐庶を尻目に携帯のディスプレイを眺める。あれから電話もメールもない、相当怒っているのだろうか。

「やれやれ。」

地獄のような休憩時間が終わり、漸くチョコアタックから解放される。そうして安堵するのも束の間、ふらつく身体で自分の机に戻るなり、こめかみに青筋を立てる光景が目に飛び込んだ。

無造作に積み上がる箱の山、非常に迷惑極まりない行為。

「あのですね…………。」

人がいない間に机の上に置いていくのやめて下さい。ホワイトデーには怨みを倍にして返しますよ。













「ただいま………。」

気分転換に一人で買い物や映画を見てきた。ありきたりなラブストーリーだけれども、涙を流すには十分に効果はあった。

「………………。」

薄暗いリビングにぽつんと置かれた箱を見るなり表情が曇る。半日立っても結局渡しに行く決心がつかなかった。手に取って暫く眺めていたが、こくりと頷いて

「やっぱり、食べちゃおう。」

箱を開けようと手に取った瞬間、携帯のメロディが響き、液晶には【法正】という字が浮かび上がる。慌てて応答ボタンをスライドさせると、開口一番とびっきり低い声が。

『ななし……………。』

「え、あ……!その、法正さん………。」

やっぱり怒っている、そうして不安が募る中、彼の弱々しい声が漏れた。

『今、貴女の家の前にいるんです。』

「………………!」

まさか、彼がすぐ目の前にいるなんて。ななしはうっかり携帯を滑り落としそうになり酷く狼狽えてしまった。

「ま、待って下さい……今開けますので……!」

コートを脱ぐ事すら忘れて玄関に向かって行く。鍵を開けて目の前に立ち尽くすは、今にも倒れそうで無表情な法正の姿。鋭い筈の目つきはすっかり虚ろで、疲労困憊という字が正しく合っている。唐突に入った労務が応えているのか、そう思うと尚更自分のした事が浅はかだったと後悔した。

それもそうだが、何故ここに来たのか。

「えっと、とりあえず、上がってください……。」

その冷たい素手を引くのが久しく感じる。ついこの前まで散々触れ合っていたのに。

「法せ………。」

するり、滑るようにその手が解けて

「…………すみません。」

謝罪と共に優しく抱かれる身体、ななしは目を見開いて全身を硬直させた。今彼は何と言ったのか、すみませんと囁いたのか。何故彼が申し訳なく謝っているのだ、謝るのは自分の方なのに。

「何、言ってるんですか……謝るのは、私の方ですよ……。法正さんは仕事で忙しいのに、無理を言ってしまって。」

「いえ、むしろ仕事断れば良かった。」

愛に飢えた女の怒涛なる波に埋もれずに済んだだろうしな。お陰様で一人一人返す作業に時間を掛けた所為でとっぷりと日が暮れてしまった。本来帰れる時間にも帰宅出来ず、この有り様だ。

「ああ………やっと本命を抱けた。」

ぎゅう、と力強く抱擁を受け、ななしの身体に火照る位の熱が生まれる。

「……………えっと、チョコ……ですよね…。」

「……空腹に我慢出来ず一人で食べてしまいましたか。」

「ち、違います……!ちゃんと用意してあります。……ただ渡しに行く決心がつかなかったので、今頃法正さんが来なかったら……。」

「なるほど、俺が怒っていると思いました?」

「はい……だから、返されるのが怖くて……。」

「まさか。」

腕の力を緩めて彼女と共にリビングへ行くと、机の上に置かれた可愛らしい箱を早速目にする。法正はそれを手に取り箱の中身を確認すると、ほんのり香るカカオが鼻を燻った。

「ビターか。」

「苦い方が好きかなと思いまして。」

「分かってるじゃないですか。」

「法正さん、コーヒーはいつも無糖ですし、砂糖を使うのあまり見た事が無かったので。」

コロコロと真ん丸チョコを手に一つ、そのまま口に放り込むと一気に苦味が広がり、口内の熱によってゆるりと溶かされていく。この位の甘さなら好みの範囲内だ。

「ななし。」

指をくいっと軽く曲げて招き

「はい……………んっ……!?」

振り向いたななしの唇に口付けると、そのまま舌で溶かしたチョコを彼女の口内に流し込む。ななしはどろりと流れてくる感触に甘い痺れを覚えながら、法正のシャツの袖をギュッと握り締めた。離れるかと思いきやその延長線で、チョコを喉に流す間もなく舌を絡め取られ、すっかり彼のなすがままに行為は続けられていく。
ちゅっ、とリップ音を立て、離れると漸く口の中で混ざり合ったチョコが喉を通った。

「ありがちなシチュエーション、だな。」

「………っ………それはドラマとか本だけですから………!」

口元を押さえて顔を真っ赤にすると、法正は今日初めての笑みを浮かべた。それを見てななしもつい嬉しくなり、小さな笑みを綻ばせる。

「チョコ、気に入って頂けて良かったです。」

「貴女のキスがあると尚更味は良い。……意味、分かりますか?」

「………あの……もしかして……ですよね。」

顎を指で軽く上げて互いを見つめる形にすると、法正は鋭く目を細くして舌舐りをした。先程までの疲れなどすっかり吹き飛び、萎れていた声が生き生きとしている。

「そのもしかして、だ。これを全部食べるまで、とことん付き合ってもらいますよ。」

待ってと制止をかけるよりも早く、舌の先で彼女の唇につくチョコを舐め取ると、再び口に放り込んで甘いキスを繰り返したのだった。




月曜、残ったチョコを会社に持って行き、昼休みに口直し。それを見た徐庶が声を掛けた。

「彼女さんからですか?」

「ああ、手作りだ。」

「いいですね、本命。義理ばかりなので、俺もいつか貰いたいです。」

「………そうか。」

大半が本命で来ているのを気付いていない地点で、当分は無理だろうな。法正は二つ目のチョコを口に入れるとななしにメールをする。次の休みに二人で映画でも出掛けないか、と。横で微笑ましく見ていた徐庶に一蹴り入れると、そのまま残りも平らげる法正だった。




(いたた……それもそうなんですが……貴方の机の横にあるこれってもしかして……)

(…………徐庶、お前が食え)