ぱりん、ぱりん、板チョコが部屋に響いて少女は怪訝そうにその音のする方へ目線を寄越す。不思議そうな視線を送り続ける彼女に、賈充は背中越しにその疑問を受け取った。
「何しているんですか。」
「さぁな。」
その細く白い指から零れ落ちるのはマニキュアと同じ位に黒い欠片。ボウルに落ちる度にパラパラと乾いた音が両の耳にハッキリと残った。
「………気になるので、見てもいいですか。」
「駄目だ。」
そうキッパリと断られると、余計に気になる。ワイシャツにネクタイ、今日は会社は休みなのに、どうしてそんなきちんとした格好で台所に立つのだろうか。
もしかして誰かに何かをあげる為に?ななしの心は少しだけ不安の色をつけた。
「賈充さん。」
「ん。」
「料理?」
「ん。」
「甘いような……苦い匂いがします。」
「ん。」
低く短い返事を返して器用にホイッパーでその材料らしき物をかき混ぜる。牛乳を入れてさらりとした液状は撹拌して、みるみる音が鈍くなってどろりとした液状の音になる。
賈充は料理や菓子作りなどあまりしない方だ。代わりに掃除や洗濯は女であるななしよりも正直上かもしれない。彼が手を付けた時はシワ1つない真っ更なシャツやズボンが外にきっちりと干されている。
それを見て感心している自分と、ちょっと寂しい自分と、時々複雑な感情になる。
カシャン、とホイッパーのかき混ぜる音が止まり、次は小さな耐熱用の皿が出されて、濃い茶系色の液は静かに皿の中へと流された。
見ているだけも、待っているだけも、複雑だから、ななしは徐に立ち上がると鞄を用意して出掛ける支度を始める。
「おい、何処に行く。」
身体の向きは変えず、顔半分だけが振り返る。その切れ長い目尻にシワを寄せて、僅かばかり不機嫌そうな声色にななしの身体はふと止まってしまう。鞄のキーホルダーの音が微かにしただけで何をしようとしているのか気付く所が凄い。
ああやって生返事ばかりで一つの物事に集中してるのに、本当に不思議だ。どんな聴力しているんですか。
「………お出かけです。」
彼は、少しだけ独占欲が強い。……少しだろうか、いや、かなりかもしれない。自分が何処に行くかを告げないと、言うまでドアのチェーンを閉めたまま仁王立ちするものだから、首が痛くなるような見上げる形で懇願する事が多い。
更に言えば彼が会社でいない時は、頻繁にメールを寄越し、何をしているのか告白しなければいけない時も。嘘をついても彼には無意味だ。一人で買い物行っていると偽って大学の皆と飲み会に行っていたら、そこまで彼がやって来てしまった事もある。当然、静かで冷ややかな目付きが男女隔たりなく注がれて、強制的に帰った記憶もまだ新しい。
別に私は誰かに襲われたことも無い。故に過剰な心配をする必要もない訳だが、どうやらそういう意味でもないらしい。
ああ、クールに装っているけれど、案外寂しがり屋なのでしょうか。そう思うとつい彼に抱き着いて甘えるフリして彼を存分に甘やかす自分もまた然り。
すると、普段見せないような、愛おしそうに、壊れ物を扱うかのような優しい笑みを見せる事もしばしば。そんな顔が好きだから、何も言わない。
「だから、何処に。」
「内緒です。」
「……………。」
ほら、やっぱり動かしていた手を止めて振り返った。
スラリとした長身、長い脚を大いに伸ばしてゆっくりとななしに近付いて、腕が伸ばされたかと思うと、身体ごと引き寄せられて思い切り抱き締められる。
「ん。」
「………もう少し、待て。」
まさかの、行くな、ではなかった。
「待て?」
「………ああ、それが終わったら、何処にでも好きな所へ行っていい。」
嘘だ。行って欲しくないっていう目で言われたら、何処にも行けないでしょうに。
「…………じゃあ賈充さんも、一緒です。」
「…………たまには羽伸ばしてこい。俺とばかりいてもつまらんだろう。」
「……そんな事気にしていたのですか?生憎、賈充さんといて、つまらないと思った事は人生で一度もありませんから。」
首を痛める位めいいっぱい目線を上げて、満面の笑みを見せつける。すると、面を食らったような顔で瞬きを繰り返し、言葉を失い眉を顰める賈充の姿。
「………くく、変わった奴だな。」
「お互い様です。」
「好きだから仕方ないだろう。」
「私だって負けないくらい好きです!私より家事力がありますし、何でも冷静に判断出来るし、皆からも好かれて………。」
相思相愛と分かっていても、時々嫉妬してしまう事はある。賈充と外を歩く時は常に視線が気になるのだ。女の人から向けられる憧憬と嫉み、自分でいいのかと思ってしまう一時の不安。彼は気付いていない、むしろ周りに興味がないんだろうけれど、それでも感情はいつだって素直だ。こんなに愛されていても飢えは凌げない、独占欲が幾ら強くても、もっと欲しいとさえ強欲になる。
結局、私も独占欲が強いんだ。
「ななし。」
「…………え。」
「何を、考えて、いた。」
ゆっくりと低く、はっきりと耳に残る台詞。ぞくりと背筋が寒くなるが、抱き締められているお陰で熱はすぐに背へと廻る。
「………何も…。」
「くく………俺に嘘は通じない、分かってるだろう?」
「それは……。」
「俺の目を見ろ。」
妖しい笑みが一層自白しろと言ってるようだ。
「賈充さーー」
綺麗に弧に描いた唇が近付いたと思ったら、甘ったるい口付けが落とされた。歯列をなぞりあげて甘味を堪能するような濃厚なキス。気が付けば賈充の両手はななしの両耳を塞いで、艶めかしい水音だけが鼓膜に響き渡った。
「んっ…………。」
「言わなければ……ここで犯すぞ。」
彼ならやりかねないーー唇が僅かに離れた隙に、ななしは途切れがちに言葉を紡いだ。
「やき、もち……。」
「…………は。」
「賈充さん、私には勿体無いくらい完璧な人だから、いいのかなって……。」
「……………。」
「私以外の他の人だったら、どうなるんだろうって…………んっ!」
いきなり唇を噛み付かれてななしは仰天した。すると歯を立てて、舌を奥へとねじ込むように伸ばして絡ませる。息が苦しいと背中に握り拳を作ってシャツにシワをつけるが、そんな事にはお構いなし。彼女の身長に合わせつつ上から押し寄せるような強引なキス。
「ん、………ふ………。」
「ふ………悪くないが、気に入らんな。」
チュッと終いにリップ音を立てて笑みを浮かべる賈充。
「好きなら、揺らぐな。お前でなければ、俺は狂う。」
「…………………。」
「言いたい事……分かるだろう?」
「………はい。」
いい子だ、と頭を撫でる手からは苦いチョコレートの香り。するとキッチンからタイマー音が鳴って、同時に香ばしい香りが漂ってきた。
「………ああ、終わったか。」
ーーああ、私の為にそれは在ったのね。
「誰の為でもない……ななし、俺が選んだななし、だ。」
額に優しく口付けを落として賈充は鳴り響くオーブンへと向かう。未だ呆然と立ち尽くすななしは、その余韻に浸りながら、幸福な事ばかりを脳内に埋め尽くし後追うようにうんと背伸びして彼の背に抱き着いたのだった。
(背、高くて届きません)
(その分は俺が届けてやる)