「この簪、受け取ってくれませんか!」
声がした方に目を向けると男がななしに何かを渡してるのが見えた。齢的にはななしと同じか少しばかり上か。案の定彼女は困った表情を浮かべ、上手く断れずにおろおろしている。
「その……貴女を一目見た時から好いておりまして……どうか俺と!」
「あの……私、その……。」
下手くそめ、軽く舌打ちをして追っ払おうと足を動かすが後ろから劉備殿の呼ぶ声が聞こえた。殿に呼ばれたら振り返らずにもいれないので仕方無くそちらに身体を向ける。
どうやら明日の軍議についての詳細らしい、早く終わってくれと無意識に眉間の所に皺を刻む。当然気付かれないよう。
「では、頼んだぞ。」
劉備殿が去るのを見送り、先の件を片付けようとすれば二人の姿が見当たらない。辺りを見渡してみたが近くにいる気配がない。終わったのか、それとも最悪の考えだが連れて行かれたのか。
どのみちななしの安否を知りたい、屋敷内を歩き回りその姿を探す。部屋に戻っていない、しかし女中に聞けば男と歩いていたという話。
「私が知っているのはそこまででございます、では失礼致します。」
「…面倒な事になったな。」
はっきりと言えない性格故、実に頭を悩ませる。だからとは言え直せ、なんていう強要は出来ない。
「さて、次は何処に行く…。」
突如高い悲鳴が耳に響いた。刹那、自分でも分かるくらい殺気立った形相でその声の主の方へ走る。見る先に男が壁に両腕を付いてななしを閉じ込めている。彼女は青ざめた顔に涙を滲ませ肩が酷く震えている。
「孝直……!!」
その名前に後ろを振り返る男。
「何だって……この悪党と恋仲なのか!」
「よりにもよってななしに手を出したとは、お前は随分と運が悪いな。
どういう死に方がいい?絞殺か毒殺か、どちらが好きな方選ばせてやるよ…拒否はない、復讐は決定した。」
武器を取り出し虚ろに笑う法正。
眼が本気だ、本当に殺しかねないと判断したななしは隙をつき腕を上手くすり抜け法正の身体に抱き着く。法正は思いがけない事に目を見開くが後ろに退かそうと腕を掴む。しかし必死にしがみつき離さまいと粘る。
「ななし!アイツを見逃すのか、離れろ!」
「違います!貴方を、人殺しにさせたくないんです……!!」
男はあまりの覇気に腰を抜かして動けない状況。ななしは泣きながら必死に訴えるのに耐えられなくなった法正はやむを得ず力を抜いた。すれば彼女もずるずると腕の力が一気に抜ける。
「俺はもう数え切れない程の人間を葬った。今更何を言ってるんですか…。」
「それでも、私の…こんな不甲斐ない事で増えては欲しくないのです。」
法正は生涯かけて恩を返すと決めた女性。こんな不甲斐ない事でも彼にとっては決して許せる行為ではない。ななしに害を為す者は全て消すと、救われた時から決まっているのだ。純粋な彼女に到底出来はしない報復を代わりにと。
「それでも俺は報復をします。それが、俺の生き方であり何があっても曲げられないんですよ。」
「待って孝直……!」
ゆっくりと男に歩み寄り胸倉を掴む。小さな悲鳴を上げるが観念したのか抵抗はしない。怒りを鎮めて、しかし低音で
「……次は、ない。」
彼は危害を加える事なくそのまま掴む手を乱暴に離す。男は命からがら逃げ去っていくのをただぼんやりと見つめていた。
「……………。」
「これでいいですか……貴女は人が良すぎます。もう少し警戒した方が……。」
言い終わる前に抱き着くななし。違う意味で離さまいと強く、強く。くぐもった声で何かを言う彼女に耳を傾ければ、ごめんなさいとありがとうの二言。
背中をそっと撫でれば安心したのか肩の震えはすっかり消えた。
ともあれ何も無くてよかった、法正は溜息を零しながらも安堵の表情を浮かべる。
「こんな俺を救うんですか。貴女も随分とお人好しですね。……ですがこの御恩、生涯をかけて貫き通しますよ。」
彼女は笑って手を差し伸べたのを覚えている。