さくさく、軽やかな足は嬉しそうに乾いた土を蹴って頭に被った赤い頭巾は風に揺れる。ふと無垢なる少女は籠の中を確認すると、美味しそうな果物が食べてと言わんばかりに瑞々しさを主張して、思わず出しそうになった手を引っ込めた。
「いけない、私ったら。」
これはおばあさんの所に届けなければいけない大切な物だから、欲張りな少女は一呼吸置いて再び足を地面に伸ばす。母にお使いを頼まれたこの少女、道端に咲いている綺麗な花やきのこ等の珍しい物に目移りして、なかなか目的の地にたどり着くことが出来ないでいた。…日が昇って間もない時に家を出た筈なのに、気が付けば太陽は頭の真上、急がなければ帰りの道が危ういのだが。
「わぁ、これも素敵。」
しかしそんな事は気にしない、そう言わんばかりにまた道から外れようとしてしまう彼女。
すると、それは人の形をしているのに、焦げ茶の大きな耳と尻尾が目立つ男が目の前に立っていた。
「…これはお嬢さん、道草していると危ないですよ。」
鋭い目が、彼女の身長に合わせて静かに伏せられる。
「……貴方、狼さん?」
「……ええ、一応狼ですが……純粋な狼というわけではなく、後天性の人と狼の混合種……。いや、そんな事はどうでもいい。
この先は貴女が怖がる物が沢山待ち受けていますよ……。」
「本当ですか…!それは困りました。」
ああ、そうだ、と男は続ける。
「俺もそっちに用がありましてね……どうです?森を抜けるまで一緒に行動するというのは……。」
そう言えば、少女は疑うことも知らぬ、屈託のない笑みで
「いいですよ、正直一人では心細かったから…嬉しいです。」
と、彼の手を取った。骨ばった指先にある鋭く長い爪と、時々ちらつかせる牙が狼という事を強調している。しかし、彼女は恐れるどころか爛々と目を輝かせて彼をまじまじと見つめていた。
「………じろじろ見て、怖くないんですか。」
「怖い?まさか!人狼なんて生まれて初めて見たんですし、むしろ聞きたい事、沢山あります!」
嬉しそうに返事をすると、男は泡を食ったように目を丸くして
「……くく、物好きもいたものですねぇ。」
と、低く喉を鳴らした。
「凄い、そんなに速く走れるんですか!」
「ええ、人の身でありながらも身体能力は動物並みです。」
「わぁ、ふさふさな尻尾!」
「……変な感じですね、触られると。」
「耳もふわふわしてます!」
「…………楽しいですか?」
興味津々な彼女はげんなりとした彼の事もお構いなしで身体のあちこちを触りだす。……すっかりお手上げ状態の彼は、話題を切り替えようと自らの名前を口にした。
「そうそう、言い忘れていましたが、俺の名前は法正と言います…お見知りおきを。」
「法、正……とても良い名前ですね。あ……私は……。」
「ああ、いいんですか?知らない人に名前なんて教えて……。」
「え……だって、法正さんだって私と初対面じゃないですか。自分から言っておきながらそんなの不公平です。」
膨れっ面で見上げれば、法正は不敵な笑みを浮かべて唇を弧に描いた。
「初対面、ね。貴女から見ればそうかもしれませんが……。」
「………?」
「いえ、何でも無いですよ。ほら、もう少しで森を抜けられます。」
指差した先に眩い光が慣れぬ目を刺し、思わず眩む視界。ふら、とバランスを崩してしまった身体は地面に急降下。
「きゃ……っ。」
が、痛みは襲わない。恐る恐る閉ざした瞼を開くと、目の前には精悍な顔つきで彼女を支えた法正の姿があった。
「………全く、どうして貴女はいつも……。」
聞こえない程度に独り言を呟くと、ゆっくり起こして乱れた頭巾を整えた。
「あ、ありがとう…ございます。」
整える指先が触れるたび、彼女の頬はみるみる染まっていく。
そんな仕草が、何故か懐かしく感じ、ふと頭の記憶を掠める何か。
「……あの、私達…何処かでお会いした事ありますか……?」
控えめに小声で話せば、髪から覗かせる大きな耳がピクリと動く。
「………どうでしょうね。」
はぐらかすように手が離れると、法正は光が漏れる方角に目を向けた。
「……運がいいですね、この先は貴女が行きたかった場所まで一直線です。……俺はこっちから行きますので、ここでお別れですね。」
「え………そんな………。」
まだ離れたくないのに。そう名残惜しい気持ちが募るが、これ以上家で待つおばあさんと母に心配をかける訳にはいかない……が。
「………え?」
おかしい、どうして彼は自分が行きたかった目的の場所を知っているのだろうか。
「法正さん!」
背中を向ける法正に向かって張り裂けそうな位の声を掛けた。しかし止まらぬ足音はどんどんと遠ざかっていく。
「やっぱり……やっぱり何か、私に何か隠していること、あるんですよね!」
「……………。」
「この違和感をずっと残したまま、貴方と離れるなんて嫌です!教えてください!私と法正さ……」
遠くにいた筈の男は、いつ来たのだろうか。気が付けば、目の前で憤然とした面持ちで睨みつける法正の姿が視界いっぱいに広がる。それはまるで、人として接するのではなく、獣として獲物を狙うかの如く……。
「………これ以上言えば……食うぞ。」
ギラリ、と剥きだした牙を首筋に立てて、地に這うような声で彼は脅す。するり、と音もなく籠は手から落ちて地面に果物が散乱した。
「…………法正、さん。」
「お前は何も知らなくていい。」
「………不公平な事ばっかり……私だって……!」
その瞬間、ズキズキと、頭が割れそうな痛みが彼女の記憶を混乱させた。
そして、目くるめく脳内を駆け巡る記憶の中に、一匹の狼が呼び起こされる。
「………怪我した………狼………?」
「………!」
「…………ああ、そうだ………私、昔……怪我した狼を助けた事があったの……。確か漁師さんが狼を打ち逃したって話してて……。」
「…………。」
「それで、森の奥で苦しそうに横たわっている狼を見つけて……見つからないようにって、木の隙間に隠れて手当した事………。」
「…………。」
ギリギリと、爪が彼女の衣服の繊維を無意識に破いていく。
「………そっか………法正さんはその時の、狼さんだったんですね。」
「……………ええ、そうですよ。思い出したんですね。」
「でも、どうして……。」
「あの時の恩を返そうと人になる事を願ったのはいいもの……所詮は人の形を借りた狼。いつ野生に戻るか分かりませんからね……これ以上は触れないで欲しいものです。」
「………。」
「気付かれないまま恩を返したかったのですが……それももう叶わないな……では、またいずれ……」
ぎゅ、と、しがみつくような感触。目を落とせばそこには今にも泣きそうな顔で俯く少女。
「………生きて会いに来てくれただけで、十分恩返しですから………。」
「おい……これ以上……。」
「だから、貴方になら……食べられてもいいです。」
「………は、」
食べられてもいい?法正は己の耳を疑った。
「私、いつの日かあの狼さんに会いたいって思っていたんです。だから、お願い……。」
困惑した表情浮かべる法正は、ただ抱きつく彼女の肩を掴む事しか出来ない。迷う、この先に足を踏み入れて、彼女を苦しめないのだろうかと。
しかし、人になりたいと願ったのは、誰の為か。
「………っ………顔上げろ。」
渾身の力で声を振り絞り、憂う顔を上げさせる。その瞬間、触れ合う唇と唇。
「んっ……!」
獣みたいに噛み付くようなキス。歯を立てないように柔く、しかし荒々しく口内を犯す。
「ん、あ……法正、さ……。」
「………その言葉、本気にしていいですね。」
かぶり、と彼女の潤う唇に覆い被せ、呼吸を奪う。朱い舌で歯をなぞり、唾液を絡ませ、逃げないようにしっかりと腰を抱き寄せ、腰が砕けんばかりに甘ったるいキスを注いだ。
「……………あ……………。」
離れればカクンと膝が折れ、落ちないように腕で支える。頭巾から覗かせる顔を見れば、初々しく頬を染めて目を潤ませ、誘うような恍惚さ。
「ああ……本当に食べてしまいたいですよ。……貴女の所為だ、このまま帰したくないとさえ思えるようになった。」
ああ、あと少し歩けば少女が来るのを心待ちにしているおばあさんの家。
分かっている、分かってはいるのだが、目の前にいる狼にすっかり魅入ってしまっている。再び会えた事の喜び、僅かに残された力で男の頬に触れれば、それはもう嬉しそうに目を細めて
「ーーーー。」
あの時の朧気な意識の中、言ってくれた少女の名前をすかさず呼んだ。