法正23
「わぁっ!」
階段の方から大きな音と同時に聞こえた、彼女のけたたましい叫び声。丁度コーヒーを口に含んでいた法正は喉を詰まらせ、器官に引っ掛かったであろう液体に思わず咽ぶ。
「……っ、なんだ。」
読みかけの本を置き去りに勢い良く立ち上がると、静かになった廊下の方へと急ぐ。すると階段付近で呆然と座り込んだ彼女の姿を見つけ、
「おい、大丈夫か。」
と、声を掛けるが、その澄んだような瞳を向けられると、一瞬だけ言葉を失う。
そうして、次の言葉に俺の頭は真っ白になった。
「あの………どちら様ですか?」
「…………は、」
「…………どうして、距離を空ける。」
「あ、あの………怒ってらっしゃるように、みえて。」
「…………生憎、生まれつきこういう顔ですよ。」
自分の恋人にも拘らず、ソファーに座る距離がいつもに増してとても遠い。毎回好んで飲んでいたストロベリージュースも、記憶が錯乱してからというもの、一回も口にしていない。お陰様でストックしていたパックの賞味期限がそろそろ切れそうで、甘い物が好ましくない俺が日々飲んで処分するという悲惨な始末だ。
「やれやれ。」
階段から転げ落ちて記憶喪失なんて、世界がひっくり返っても起こり得ない現象だと思っていた。
ーーーましてや、彼女の憶えている事は、俺と出逢った以前までという事も、有り得ないと考えていたのに。
法正はこめかみを押して懊悩した。あれから三日と経ったが、なかなかどうして一つ足りとも記憶が戻って来ない。関連した思い出の品や場所を見せれば稀に頭の回路が繋がると聞いてはいたが、何を試してみても全てが徒労に終わるという日々の繰り返し。
さて、そろそろ与えられた休暇がなくなりそうなのを思い出してますます気が滅入り始めた。それでも家に置き去りにされた彼女の事が心配で会社に行っても四六時中気が気でないだろう。
もし目を離した隙に出て行ってしまい、二度と帰って来る事が無かったら……考えるだけで余計に頭痛が襲い掛かる。
「あの………法正、さん。」
こうして下の名前で呼ばれる事も無い故、何もかもが新鮮な感じだ。……まるで初めて会った時のような、そんな初々しく畏まったような姿。それもそうか、出会う前の記憶までしか存在しない、その先をプッツリ断ち切られたのだから、今の彼女にとっては他人様も同然だった。
「何ですか、何か思い出しましたか。」
「…………いえ、そうではなく………。」
「………………。」
「ごめんなさい………貴方の事を思い出そうと、頑張ってはいるのですが。」
「………ああ、別に謝る事はありませんよ。いずれ前の貴女に出会った時に言ってやりますよ………散々文句を、ね。」
そんな皮肉を返しても、彼女の表情はやはりと言って晴れないまま。それを見ているこっちも気分が鬱蒼としてくる訳だ。
しかしどうにも医者曰く、これは事故による一時的な記憶喪失らしく、時間が経てば自然と戻る可能性もあるらしい。しかし、そんな言葉すら今では信じる事が出来ず、一刻も早く取り戻そうと必死になっている自分がいる。
同じ家に住んでいるのに他人行儀、俺に対しての好意の一つも見当たらない部屋。今まで築き上げてきた想いが一瞬にして忘れ去られた気持ちなど、誰にも理解されないし出来ないだろう。
「……えっと、お茶、入れてきますね。」
彼女を見れば見る程心が痛んで、いっそ楽になってしまいたいという俺もいる。いつ戻るとも知れぬ記憶を静かに待ち続けるか、古い彼女を消して二人で新たに人生をやり直すか、その二つしかない。
前者はともかく、後者はそこに法正を想い続ける心があれば、の話だが。
「…………なぁ。」
「はい、何でしょうか。」
「俺を、どう思う?」
「………どう、と……言いますと。」
「………貴女の記憶は、俺と出会う直前で止まっているんですよ。つまり、今の貴女に、俺はどう映っているんですか。」
「………それ、は………。」
他人か、やはり他人なのか。
茶を淹れる手が止まり、その湯呑の一点だけを見つめる。記憶を探るのではなく、今の自分にとって、どういう存在なのかを知るべくひっそり瞼を閉ざした。
「……………分かりません…………けれど、貴方の悲しそうな顔を見ていると、どうしようもなく胸が痛むんです。」
「………そうか。」
ぽつりと返事をすると湯呑をその場に置いたまま、彼女は法正の眼の前まで歩み寄り、何を思ってか深々と頭を下げた。
「法正さん、お願いです。記憶を失った私が言うのもあれなんですが、どうか……どうか、諦めないで、下さい。貴方を好きになっていた私を、手放さないで下さい。」
「………………。」
今にも泣きそうな顔で見つめ返す彼女。別に出会う以前までの記憶を全て憶えているのであれば、生活にも支障はないだろうし、家族や友人とも平気で話せるだろう。
結局、忘れ去られるのは、俺だけだ。
「…………善処、する。」
気分転換に煙草をふかそうと立ち上がり、キッチンの側に置いてあった箱から一本取り出して火を付ける。ゆらゆらとのぼる煙は未だ渦巻く頭の中のように巻いていた。
「…………………。」
どうにも口が寂しい、この三日間だけだというのに、口付けに酷く渇望している。ふと己の唇を触るとストレスで無意識に噛んでいたのか、所々の皮が剥けてヒリヒリと傷になっていた。
……………否が応でも、欲しい。
「おい。」
「……………?」
軽く手招きすると、彼女の腕を掴んで抱き寄せた。
「えっ………!?」
目と鼻の先で、法正は低く笑う。
「…………嫌われてもいい。それでも、無性に貴女が欲しくて、俺はどうにかなりそうだ。」
と、噛み付くようにその唇を吸った。
「んっ、う………!」
目を見開いて硬直させる彼女に構わず、舌を口内に捩じ込ませて舌をあっという間に攫った。ぬるぬると混ざり合う粘液で奏でる水音がどうにも心地良く、癖になりそうで何度も何度も聞かせるように鳴らす。
「ん、ふ…………っ………ほ、せ……!」
「…………っは、…………お前がどう言おうが、離れるつもりはないぞ……。」
腰が砕けてしまうのではないかと思う程の舌遣いと彼から滲み出る色気、低く艶やかな声に鼓膜を震わせながら、彼女は生理的な涙を流して彼の背中に爪を立てた。
「…………好きだ。例え………記憶が無くなっても、俺は絶対に、忘れない………。」
そう囁いて、舌先で繋がり合った銀糸が途切れた時、
「………………………孝直…………………?」
そんな聞き慣れた声がして、法正はあの時と同じ様に言葉を失った。
「…………おい、今……何て言った。」
「あれ…………私、何で、孝直とキスしているんですか………。」
「……………っ、馬鹿が………!」
「ええ、なんで私馬鹿呼ばわりされ………わぁっ!」
力強く抱き締められて、その勢いで二人は床に倒れ込んでしまう。
「記憶は、記憶は確かなのか。」
「記憶………確かに最近曖昧な記憶だったような………と言うよりさっきまで、夢の中にいるようでした。」
何でだかここ最近の自分が思い出せないなぁ、と屈託なく笑う姿に法正は安堵と呆れの溜息が同時に漏れた。
だがしかし、俺の知っている記憶喪失とは違うようだ。普通、記憶を無くしていた時も憶えている筈なのだが、彼女は三日間違う世界で夢を見ていたという。
一体、あの彼女は何者だったのだろうか。
「なら階段から落ちた事は憶えてないのか。」
「階段…………落ちたような、落ちていないような…………。あ、そうそう、気が付くと私は桃の木の下に寄りかかっていて、離れた所で孝直と似た男の人を見かけたんです。」
「俺に、似た男の人………?」
「顔は同じなんですけど、服装が全然違ってて……とりあえず話しかける事はしなかったんですけど、とても不思議な夢でした。それに夢の中にまで孝直が出てくるなんて、今思えば最高の夢ですね。」
いつもの惚気けた調子だと確認出来た法正は、彼女の額に唇を押し付けてそのまま強く抱き締めた。
「……………孝直?」
「二度とあんな馬鹿な真似はするなよ。」
「…………何だか、迷惑をかけちゃったみたいですね。」
ごめんなさい、大好きです、と幸せそうに笑い、暫く彼の腕に抱かれながら瞼を閉じた。
「……………法正、さん。」
桃の花の下で、私は、短い夢を見ていた。見覚えのある男の面影が、今もまだ脳裏に焼き付いて離れない。
私は、また此処で貴方に逢える気がして。