「ああ…………雨が降りそう。」
見上げればそれはもう今にも泣きそうな雲が空を覆って暖かな光を奪い去っていた。
「今日は折角の七夕なのに……やっぱりこの日は雨が多いなぁ………。」
しかし辺りを見渡せばちらほらと笹が置いてあり、その周りを何人かの子供達が囲って小さな短冊を飾ろうとしている姿が目に入った。
「ふふ、でも子供達は楽しそう。」
そんな和やかな雰囲気が微笑ましく、思わず笑みがこぼれる。自分も何か願い事を書きたい、そんな軽い衝動に駆られたが、思えば自分の年齢を考えたら子供達に紛れて書くというのもどことなく恥ずかしい気がする、と不意に行きたがっていた自分の足が止まってしまう。
はてさてどうしようかと、暫く動けなくなったその場で彼らの話を聞いていると、ある一人の少女が目を輝かせて
「あのね、わたし、大きくなったら悠斗くんのお嫁さんになりたいの。」
と、彼女のお母さんに話しているのが聞こえてしまった。まさか少女の口からそんな可愛らしくも羨ましい願いが聞けるとは。
「あら、そういうお願い事をする時は、みんなに内緒にしなくちゃ。佳奈の素敵なお願いは、ここに書くのよ。」
「はーい!」
嬉しそうに短冊に文字を書く姿を見て、どうしようもなくその願いに同情してしまった自分がいた。
「…………結婚、かぁ。」
その対象者がいない訳ではない。好いている人がいるのにも拘らず、その決意が未だに出来ずにいるだけで。
「……………当たって砕けろとはよく言うよね。」
「何が当たって砕けろと?」
「そりゃあもう、自分の想いを告白…………え…………?」
「ほう、好いている人がいるんですか。それは偶然ですね。」
「…………………。」
「どうかしましたか。鳩が豆鉄砲を食ったようだ。」
低い声でくつくつ笑う男の姿に、彼女の顔が途端に赤くなったり青くなったり忙しくなる。爽やかな香水を纏ったその色っぽい身体が至近距離にあると認識すれば尚更その顔は燃え盛るように火照った。
「えっと、あの、法正さん、どうしてここに………?」
「いえ、夕飯を買おうかとわざわざこの街まで足を延ばしていたら随分見慣れた姿を見かけまして。だから声を掛けたんですが、どうにもこちらの存在に気付いて貰えませんでしたので。」
こうして傍まで寄れば、嫌でも俺の方を見るだろう?
そんな悪戯に唇を歪ませる男は、彼女の何が苦手かを隅々まで熟知しているかのように得意気だった。
「………っ、その耳元で囁くの、止めてください………。」
「ああ、腰が砕けてしまいましたか?よく言われます。」
「……………、私以外にやってるんですね、そういう事。」
「まさか、全て貴女から言われた言葉ですよ。」
「……………、分かりました、もういいですから…………。そろそろ雨が降りそうですし、私はもう帰りますね。法正さんも帰りは気を付けて………。」
「何を言ってるんですか。折角こうして出逢った事ですし、少しお茶しません?」
「でも…………。」
「傘なら気にするな。後で送ってやる。」
「で、では……お言葉に甘えて……。」
時折柔らかい口調がいきなり変わる事に緊張を走らせる事がある。なるべく怒らせる事だけはしたくないと、彼女は静かに頷いた。
適当な喫茶店を見つけると、空が見えやすい窓際に腰を掛ける。しかし曇天に変わりはなく、どうにも今夜は晴れる予定はなさそうだ。
ふと法正が笑みを浮かべる。
「嬉しいですよ、何分こういう日ですから。」
「………もしかして七夕の事言ってます?」
「ええ、歩けば嫌でも短冊ばかりですからね。ま、雨が降りそうなのは個人的に残念ですが。どうにもこうにも洗濯物が一向に乾きません。」
「確かに………偶然か必然か、この日は本当に雨が多い気がします。折角織姫と彦星が出逢える日なのに。」
「…………織姫と彦星、か。確か……言い伝えでは、7月7日に雨が降ると天の川の水が増水して渡る事が出来ず、カササギが二人の橋渡しをするらしいですよ。」
「そうだったんですか………と言うよりそういう話、法正さん信じなさそうだったので、知っている事が意外でした。」
「そうですねえ……言い伝えに関しては特に考えた事ありませんよ。ですが………本気で好いた人と逢えなくなるのは、良い気分でない事だけは痛い程によく分かる。」
「…………好きな人、いるんですか?」
「ええ、いますよ。俺が初めて本気で好きになった女性が。」
すんなりと暴露するなり頬杖をついてはアイスコーヒーを一口。
「………そうなんですね、じゃあ………七夕ですし、いっそ想い人に気持ちを伝えてみたらどうですか?」
「俺の、気持ちを?」
きょとん、普段の鋭い目付きが緩んだ瞬間だった。しかし彼にしては珍しく間の抜けた表情を一瞬浮かべたかと思いきや、次の瞬きの後には法正の顔付きが真剣そのものになっていたのだ。
「すみません、私、変な事言いましたよね………。」
「いえ、全く。むしろ逆ですが。」
「……………自分で言っておきながらなんですが、羨ましいです、法正さんみたいな頼れる方に惚れられた女性が。」
「は?」
「あ、いえ!何でも無いです…忘れて下さい。」
誤魔化すようにジュースを口の中に含んだ直後である。
「俺にとっての織姫は、貴女ですよ。」
なんて、突拍子のない言葉を放つものだから、彼女の飲んでいた液体は咳によって無惨にもテーブルに飛び散った。
「…………かはっ…………。」
「何してるんですか。」
「………っ………何って、それは、こっちの台詞です………!今、なんて………!」
「俺が彦星なら、貴女は織姫。言いたい事、分からないとは言わせないが?」
「…………っ……………。」
「何を、他人事、みたく、話している。俺が惚れたのは紛れもない、後にも先にも貴女ただ一人ですよ。それなのに、まるで今起こっている出来事が自分ではないと自己完結する始末………。」
「だ、だって、すんなりと私の目の前で言い放つものですから………まさか、誰だって自分だとは思いませんよ………。」
「この鈍感め。鈍感を気取るのは恋愛ドラマの中だけにしておけ。」
「ひ……ひどい………そこまで言わなくても………。」
こぼした液体を拭きながら、気まずそうに肩を竦めて彼から目を逸らす。
「…………そんな所も含めて、俺は好きになったんですよ。ああ、恥ずかしい台詞を何度も言わせないで頂きたい。」
「…………ごめん、なさい……。」
「それで、返事は?」
全てを拭き終えたからにはもう一度目を合わせる必要がある。それだけはどうにも抗えない、否、抗う訳にはいかなかった。長年の想い人からの告白は、正直に言ってしまえば今すぐにでも泣き出してしまう程に嬉しい事だったから。
だけど、気持ちはどうしても素直になりきれなくて。
「…………一年に一度、なんて、寂しいですよ。」
「……………例え天が引き裂いたとしても、執念で貴女に会いに行きますよ。」
「そう言えば、法正さんって、かなり執念深そうですよね………もし仮に彦星だったら、まずは引き裂いた天帝から報復しそう………。」
なんて、話している間にも、法正の瞳はずっと逸らさないまま。
ーーああ、誤魔化してもきっと気持ちがバレている。
「……………私も。」
法正さんの事、ずっと好きです。
みるみる染まる頬を知られたくないと堪らず逸らした視線の先、窓の外はすっかり日が暮れて夜がもうすぐそこまで来ていた。
「あ……。」
しかもこれは偶然なのかはたまた必然なのか、先程まで覆っていた雲が嘘のように何処かへ消え去っており、夕闇の空に数多の星々が煌々と輝いているではないか。言い伝え通りの天の川とまではいかないが、それでも眺めるには十分と言えるであろう美しさを醸し出している。
「ほう………どうやら、向こうの織姫と彦星も無事に巡り会えそうだな。」
そう笑った法正の表情はいつもに増して柔く、まるで自分の事の様に先程子供達が群がっていた短冊を静かに見つめていた。