愛おしい女が離れていくのが心苦しい、そう思うのは生涯においてこの時だけだろう。
「法正様。」
戸を軽く叩いて小声で彼の名を呼ぶ少女。その扉を開けるのに時間がかかった、一瞬の躊躇いがあったからだ。
入るなり早速目に飛び込んでくのは既に濡らしていた睫毛、少々腫れぼったい目、相当泣いたのであろう。
「………私は嫌です、こんな結果なんて。」
その手には彼女に似つかわしくない鋭利な刃が握られていた。何を一体考えているのか、訝しげにそっと目を細めた。
「好いてもない男に嫁ぐ位なら、私は首を掻き切る覚悟はあります。」
「……貴女がそれで良かれと思っている事でも、俺にとっては単に迷惑でしかなりませんよ。早く出て行ってください。」
そうやって冷たく突き放される事にはとうに分かっていた、そんな哀愁の漂う表情を浮かべそっと刀を降ろした。
「そうでしたね、去るものは追わない……きっと貴方もその考えなんでしょう。」
「…………。」
馬鹿が、思わず口にしそうなのを何とか押し留め心で呟く。冷静で入れる訳がないのはお互い様だ。
無垢なるその手を、その身体を得体の知れぬ男に渡す位ならいっそ殺してやりたい。だがそうして悲しむのは誰だ、結局はななしだろう。
「………どうか、私を忘れて幸せになってくださいね。それが私の最後のお願いです。」
頭を深々と下げ、表情を隠すようにその場を去っていく。法正は彼女の姿がすっと闇に溶け込んで行くのをただ静かに見つめていた。
「………やって後悔するのと、やらずに後悔する……どっちが苦しいでしょうか。」
ふと壁の向こう側から声がした。その声はよく知っている男だ、武器を構える事をしなかった。
「………案外悪な部分もあるのだな、お前も。」
ひょっこり姿を現したのは一見何の変哲も無い徐庶、しかしその顔は普段見せる事のない裏の顔が滲み出ている。
ふっと溜息を吐いて
「ええと、殺されるの覚悟で言いますが……実は俺も好いてましたから。婚姻の話を聞いた時には衝撃的でしたが……それよりも相手が法正殿でない事にもっと驚きました。」
「その前に俺から略奪しなかったのだな。」
「それは、彼女が愛してるのは貴方一人ですから。無理に離して好きな人の悲しむ姿なんて見たくないでしょう。」
「好きでもない奴からの略奪は許される……か。」
己の拳を見て何か吹っ切れた彼はななしが消えていった方をじっと見据えた。
「らしくもなかったな。どうせ悪党な身、こんな事をして恨まれてもやり返せばいい。」
「彼女はまだ貴方の事を想っている、ならきっと大丈夫です。むしろ法正殿が来てくれる事を願ってますよ。」
その言葉に連結布を取り出し、歩き出す。月は一層照らされ、歩むべき道標を創りだした。
「……………。」
もうすぐやって来る男がずっと隣にいる。顔も性格も良くても、心は決して揺ぐ事はなかった。愛しい彼がいないのなら目を閉ざし耳も塞ぎ込みたい。
「………連れ去ってほしい、誰でもいいから遠くへ。」
はらはら零れ落ちる涙を袖で拭い、懸命に気丈さを保とうとする。泣いた所で何か変わる訳でもない、さっさと諦めて忘れるべきである。
すると後ろの扉が開く音がした、これで全てが決まった。腹を括り顔を隠す様に空に浮かぶ月を見上げる。
「…………。」
部屋に入れど彼は一言も発しない、不思議に思いつつも振り向かなかった。必死に冷静を装うが足音が徐々に近くなり次第に緊張が高まる。
しかし己の肩に手が触れた瞬間頭に過るあの面影。
「…………あ。」
不意に言葉が漏れてしまった。
匂いも知っている、床に這う影も知っている。知らない事は何一つ無い。
「…………どうして。」
突き離した彼は会いに来たのか。
「ああ、俺は貴女に嘘をつきました。」
「………私も嘘をつきました。本当は忘れてなんて欲しくない、この手を離して欲しくない。そう思う事は我儘でしょうか。」
「そんな我儘は貫き通せばいい、無理に自分を押し込めるな……だからこそ、ななしが来るべき所は唯一つ…分かるでしょう。」
その瞬間に振り返る彼女は何時になく美しく、両の手で飛び込んで来る身体をしっかりと抱いた。
「法正様……法正様……!!貴方以外を愛する事なんて死んでも出来ません……!!」
「ななし………安心しろ……もう誰も引き裂く事はない。」
泣きじゃくる彼女の唇に何度も口付けを落とし、落ち着くまで暫く離れなかった。
そして死角になる背後には、血に染まり尽くした連結布と来る筈だった男の骸。そんな事は露知らず、愛のままひたすら彼を求めたのだった。
(貴方は亡き者にする程愛していたんだね、俺には到底出来ないよ)