「違う。」
いつもと変わらず喉は鱗の様に乾いて、何か潤う物が欲しいと歎息。そこの逃亡を図った女では乾きは癒せない、そっちの横たわる女でも空っぽな気持ちは満たされない。
「……こんな悪党を慕った所で末路はこうなるのにな。」
吐き捨てるように呟いて扉から僅かに顔を覗かせる丸い月を眺める。そして下へと少しずつ視線を落としていくと黒い瞳に人の姿を映した。
「…………。」
女か。
「ああ、どうせここの奴等と同じ様に」
俺の心は決して揺るがないのだろう、と軽く息を吐いて興味無く歩み寄る。するとどういう訳か、振り向いた女は頬に一筋の涙を伝わせていた。
その姿を見ただけだというのに、何か湧き上がる様な感情。不思議と目を逸らせなかった。
「………何故泣いているんですか。」
「………お恥ずかしい所を見せてしまいました……大丈夫です、何でもありませんから。」
袖で拭き取り笑顔を見せる。が、相当無理した笑みだという事はすぐに分かった。一礼した女は立ち去ろうとするが、咄嗟に腕を掴んで傍に留まらせる。
「………何を無理している。」
「無理なんて何も……。」
影のある表情を作ると、法正は口を曲げて眉の間を微かに曇らせる。それに怯えたのか、彼女はぼそぼそと控えめに話を始めた。
「………婚姻です。親には逆らえない故、詮無き事と自分に言い聞かせているのですが……知らぬ人と夫婦など…やはり呑み込めません。だからこうして毎夜一人泣いているんです。」
「成程。」
ようやく理由が分かり顰めた表情を戻した。
「相手の顔や名は知っているんですか。」
「いえ……顔は分かりませんが、名前は聞きました。」
どんな奴だろうな、その男は。俺にとってはどうでもいい事の筈なのに。
そう思っているのも束の間、彼女は
「名は……そう、法正…様と仰っておりました。」
眼前の男の名を指したのだ。それを聞いた法正は思わず目を丸くしたが、同時に心中密かに喜んだ。
「ほう……その男と結ばれるとは……貴女もつくづくついていませんね。」
「……その方を知っているのですか?」
「ええ勿論、誰よりも知っています。彼は悪党とも呼ばれて人からは忌避される様な参謀……報恩報復を徹底してるとも聞きますね。
そんな彼によって今までに傷付いた者はそう少なくない…。」
嬉々として自分を語る。蔑む事柄ばかりを話して後がどうなるか、それは次会った時に彼女は怯えているに違いない。
どうせ皆と同じ様に、俺を拒む。
「………そうですか。」
「きっと貴女はお気に召さないでしょう……その時は全力で拒んでもいいと思いますが。」
「……ですが、そんな事すれば……。」
「きっと平気ですよ。」
きっとな、と上機嫌に目を細めて、そのままあの冥い部屋に足を運んだ。
その後法正について話を色々聞いた、すると皆口を揃えて本当に「悪党」だと恐れ、忌避している事を知る。
「今、ですか。」
親が例の相手に会わせると言ってきた。突然の事に驚きを隠せずにいたが、会わない訳にもいかない、覚悟を決めてこくりと頷いた。
着替えを済ませて部屋を出れば、歩く度にのしかかる複雑な気持ち。
「失礼します。」
不安を募らせながら、ゆっくり扉を開ける。すると
「…………貴方が、法正、様?」
見覚えのある、鋭い目付きに蜘蛛の巣の様な首飾り。
「昨日振りですね、ななし殿。」
そこにいたのは昨日の男だった。思わずぽっかりと口を開けてしまう。
「………本当に…。」
「さぁ、今なら間に合いますよ。拒むなら……扉を閉めて引き返して下さい。」
法正は堂々と言い放つが、当の彼女は黙ったまま立ち尽くす。否、何も言えないのは当然だ。
「………。」
「今更心変わりした……なんてことはない筈。昨日散々嫌だと泣いていましたしね……その正真正銘の悪党ですよ。」
しかしななしは嫌な顔も泣きそうな顔もする事なく黙って正面に座る。長い睫毛を揺らして見据える姿は、昨日までの憂いや迷いが微塵も見られなかった。
「……俺を、拒まないんですか。」
「いえ、もっと……貴方を知りたいです。」
そう話す真っ直ぐと澄んだ瞳は想像以上に心を燻った。
そうだ、こういう女だ、真実を知っても尚奥底を知ろうとする者。上辺だけを見て寄り付く奴等とは格段に違う。
「……こんな俺ですよ、いいんですか。誰もが忌避する男……貴女もそんな奴と夫婦になど御免こうむる筈です。」
「いえ……思っている程悪い方では無いと考えてます。自分の事を相当悪く話していましたが……きっと本当の素顔を見せていません。」
眉が動くのを見逃さなかった。
「それに……法正様なら、私は…。」
昨日とは違ってこぼれるような笑顔を浮かべる。それだけで彼女の本心を読み取れた気がした。
「物好きですね、こんな俺をもっと知りたい等。……正直お手上げです。」
「……はい。嫌でなければ……お側に置いて下さい……。」
頬を染めて嬉しそうに微笑む。
「…………後悔しないで下さいよ。」
真実を知った者は当然の様に忌み嫌ったのに、ななしだけは俺を拒まなかった。その時自分の心はあっという間に満たされて、呪いの様に乾いていた喉もすっかり潤いを得た。
「………法正様は、誰よりも自分を犠牲にして生きている……他者からの信頼を失っても尚、成し遂げ守ろうとしているんですね。」
隣に座る彼女はぽつんと呟いた。
「………………。」
「あ……知った様な口を聞いてごめんなさい。でも、私だけでも……貴方を最後まで信頼したいと思って。」
「敵いませんよ、全く……お人好しが増えるばかりです。」
顔を近付ければ反射的にぎゅっと閉じるななしの目、法正は黙って見つめその唇をそっと指でなぞった。
「……………。」
「……………ふ。」
何もしてこない事に気になったのか、少しだけ瞼を開く。それと同時に口付けを施せば案の定吃驚した。してやったり顔で法正は口角を上げる。
「………不意打ちです……!」
「失礼、随分と可愛らしい反応をするもので…悪戯したくなりました。」
「で、ですが……っ」
その先を言わせぬ様、人差し指を唇の前に差し出す。すると恥ずかしそうに目を伏せて黙り込んだ。
「……そうですね、貴女になら、俺の裏の顔を知られても悪い気はしません。」
「……はい。願わくば、法正様の全てを知りたいです。」
薄い唇から紡ぐ言葉。
「なら……代価として、貴女の全ても俺に教えて下さい………いや、例え嫌と言ってでも知るだろう。」
月に照らされた首筋に唇をそっと押し付ける。
「………愛しています、法正様。」
「………ああ。」
出会って間も無いのに、少し離れても彼女の姿がはっきりと瞼に焼き付いて離れない。孤独と隣合わせでも構わなかった筈だが、何時からこんなに人を愛そうと思ったのだろうか。
「ななし。」
「はい。」
そんな事はどうでもいい。
「必ず……」
抱えきれない程の恩を返そう。
(ああ、初めて"人"を守ろうと思った)