「ななし。」
恋仲でもないのに、男はまるで自分の女であるかの様に接してくる。抵抗出来ずにじっと見上げれば、間近に迫る男の目は氷の様に冷えきり、闇の様に暗い。
唇は口角を下げて何処か怒りを含んでいた。
「………何故、私になんか執着するんですか。」
「執着、ね。……俺は普通に接してるだけですが。」
「普通に接するだけならこんな風に甚振らないです。」
ななしの捲る腕に映るはこの男から幾度も受けた傷跡、未だ癒えぬ新しい傷も含め相当の数だ。痛々しい程に爪で引っ掻かれたり布で叩きつけられたり。
「そうか。」
そんな過去の記憶に興味がないかの様に遠い目をした。
それだけではない、無理矢理組み敷かれて処女までも奪ったのだ。貫かれる激痛に地獄を味わいながらも顔を見れば、支配欲に駆られた笑みを向けていた。
それすらも、当たり前だと、男は思っている。
「なら、どう接すればお前は手に落ちる。」
「死んでも貴方に心は向きません。」
すると不愉快そうに顔を顰めて腕を掴んだ。びりっと電気が走るみたいな痛みが襲う。怖い、今度は何をされるのか想像するだけで受けた傷がじんわりと疼く。
「…………離して。」
なのに、何故。
「嫌、だ。」
こんなにも悲しい色をしているのだろう。
「法正という非道な男が、大嫌いなんです。」
それに惹かれそうになる自分が憎い。
「それでも構わない。俺が、愛してるのだから。」
身体が重力を失ったように軽くなり、気が付けば覆い被さる男の姿。我に返り押し返そうと両手で必死に藻掻くが、所詮は男女の差、途端に重みを感じて息が苦しい。
「嫌……。」
がり、首筋に嫌な音を立てて噛み付けば血が滲みだす。
「ななし…………ななし…………。」
地に這う低い声で譫言の様に呟かれる名前。熱に浮かされ、冷めない悪夢に彷徨い続けるその姿。割れた赤い舌でその血を舐め、己の唾液と絡ませる音を響かせた。
「ななし………行かないでくださいよ、何処にも。」
ああ、そんな愛おしそうに呼ばないで。
「………………。」
目を覚ませば彼はいなかった。その代わり痛みだけが残っている。ああ、悪夢から解放されたのか、安堵したななしは違和感を感じる下腹部を擦りながら暗い天井を見つめた。
……いつもなら意識を無くしても尚行為は続けられるのに。
頬に指を滑らせれば乾いた涙の跡が幾つも残っている。声もすっかり枯れて出す事も出来ない程に酷い状態だ。
「………………。」
乱れた服はきちんと直され、寝床もしっかりと敷かれてそこに自分は寝ている。彼は軍議に行ったのだろう、今の時間がとてつもなく貴重だ。
音を立てないように部屋を出れば、誰もいない静かな空間。いつ現れるのか、考えるだけで背筋がぞくぞくする。まるで終わらない鬼ごっこだ、捕まれば生地獄、例え逃げきれたとしても必ず報いに来る。
すると人影を見つけた。怖くなって咄嗟に身を隠すが、運良くそれは顔見知りの女中だった。ほっと一息ついて彼女の側まで寄る。
「…………ななし様、如何なさいましたか。……それに、その腕は……。」
目線の先にある捲れていた服に気付くと慌てて隠す。怪訝そうに首を傾げるが、ななしは頑なに首を横に振った。
「気に、しないで……。」
「………!声も枯れているじゃないですか、一体何があったんですか。」
「お願い……今は何も……。」
聞かないで下さい、続けられる筈であるその言葉はななしの口から出ていない。何処から出たのか、安易に想像つくだろう。一筋の汗が流れて音も無く落ちていく。
「あら、法正様。」
女中はななしの真後ろにいる男の名を、何処か嬉しそうに呼んだ。
「ああ、彼女は風邪をひいているんですよ。故にこの声で……薬は飲ませていますので、どうかお気になさらず……。」
違う、嘘だ、そう訴えたいのに、違う意味で声が出ない。まるで背中に凶器を突き立てられてるかの如く震え上がらせた。そんな事も露知らず、彼女は彼の言葉を信じきって頷いた。
「あの……法正様、次の休み空いていますか。是非紹介したいお店があるんです。」
照れながら誘う台詞、彼女は彼を好いているのだろうか。何故だろう、何か心に引っ掛かる。まさか、自分が惹かれているなんて死んでも思いたくもない。
「ああ……お誘い大変嬉しいんですが、どうしても外せない用がありまして……すみません。」
お願い、もう一押しして、彼を少しでも遠くへ連れ出して欲しい。そう思っていると不意に右手に触れる指先。心は読めていると言わんばかりに残念そうな余裕の笑み。
「そうですか……では、次の機会に。」
頭を下げて立ち去っていく。行かないでと声に出さず口のみを動かすが、その唇はゆっくりと指でなぞられた。
「痛むか。」
「……………。」
その指に今すぐ噛み付いてしまいたい。
「はい、意識も飛んでしまう程に満身創痍です。」
無機質に返事を返すと腕を掴んで引っ張られる。逆らう様に抵抗を続け踏ん張るが、疲弊しきっている所為でいとも容易く両腕で抱き抱えられてしまった。脚を振り回してばたつかせど捲れる服から傷を覗かせるだけ。それを見て再び恐怖が襲い掛かる。
「いや………助けてっ!!」
そんな声も虚しく空回り、木霊して消えていく。
この暗い部屋は見えない鎖がある。分かるのだ、入れば主が満足するまで決して千切れない頑丈な鎖が。
「痛い…………もう嫌だ………こんな愛し方、望んでない………。」
「……………。」
そんな言葉をかき消す様に噛み付くような口付けが何度も降り注ぐ。否、本当に噛んでいる、まるで飢えた獣みたいだ。捻り込む舌は嫌でも絡んで生々しい水音が鳴り、離れる度に互いの銀糸が引く。
ああ、分かる。望んでないのに、憎みたいのに、痛みに慣れてしまった身体は既に求めている事を。
「俺を見ろ………。」
溶かす程に熱を帯びた瞳は媚薬に似て効果は抜群だ。この眼を抉り取られてしまう位に彼はななしを見つめる。
そして骨張った指は服の隙間に入り胸を掴んだ。悲痛の声を漏らすが口を塞がれて全て法正の喉へと通り消えて行く。
そうして次第に身体は呆気無く官能的になるのだ、嫌でも感じてしまう。
「あ…………っ。」
「そうだ、その声だ。……本当は言いたくて堪らないのだろう………?」
悪戯に笑い挑発する。言ってはいけないと必死に言い聞かす、口に出してしまえば最後だ。今までの苦しみも全て無になり、そして今まで以上の地獄が待っている。
「……言わなければ苦しくなる一方ですよ。」
悪魔の囁きに下腹部は痛みという熱を異常なまでに求めている。腰が砕けても意識がぶっ飛んでも絶倫の絶頂を欲しがっている。
「私は……………ああ、………私は…………。」
もう、この苦しみという快楽から永遠に逃れられないのだ。
「……………ふ。」
意識が飛んでぐったりとしたななしに未だ腰を揺らして抱く。ふと我に返り掴んでいた腕を離せば手にこびり付く傷から流れた血。周りは欲を放った液が飛び散り、寝床は荒れ狂う引っ掻き傷ですっかりくたびれていた。
「ああ、やっと手に入れたのか。」
この声で聞いた、貴方が欲しいという愛言葉。一度も発する事なかった法正への言葉を遂に彼女は言ってしまった。
「だからこそ裏切れば……必ず…報いる。必ずだ、何処に逃げても隠れても、俺から逃れられると思うな。」
乾いた笑いを小さくこぼし、息を吐いた。
「貴女に……最高の劇薬を。」
(いっそその手で楽にしてください)