「私は恋をしてしまいました。」
街で見かける度に追ってしまうその姿。恐らく彼は気付いていないだろう、所詮は身も知らぬ赤の他人。
それでも自己満足している、打ち明けずともこの想いはひっそり心の中に閉まっておこうと彼女は言った。
「それは……誰なんだい?」
怪訝そうに彼女に問を掛ける徐庶。血は違えど兄の様な存在で、ななしは幼い頃から慕っている。
「えっと……男性です。」
「あはは、それはさすがに分かるよ……じゃなくて、名前とか。」
話した事もない、故に当然名前など分かる筈もない。知りたくともきっかけが無いと自分から行動は出来ない相当の恥ずかしがり屋である。
大きく溜息を吐き、側にあった饅頭を一口頬張る。
「分かりません……分かることと言えば緑色の服に赤い布を携えてます。とても綺麗な、朱色。」
「あ………。」
意味の有りげな言葉を不意に漏らした、首を傾げると彼は顎に手を添え考える素振りをする。
「………もしかして、悪人みたいな顔してる。」
「……。」
もっと別の例えを唱えれば良かったか、と後悔するがしばらく黙ってから徐に頷くとやっぱりという表情を浮かべた。
「法正殿だったのか……。」
「ほう、せい?」
「そう、彼は劉備殿の参謀でね……。」
続けて彼についてもっと教えよう、素直に、良心的にそんな事を考えていたが彼は無意識に口を閉ざしてしまう。
「……参謀なんですか、思っていたよりも凄い方だったんですね。」
「ああ、でも自分の事を悪党だなんて言ってたりもするかな。」
「悪党……なのですか?」
彼の良い所を敢えて挙げない俺はなんて心の狭い人間なんだろう、と醜い感情が巡り巡る。
彼女の徐庶を見る目は慕う目、法正を見る目は恋慕の目。その僅かな違いが一層心を哀しくし、孤独にまた溶けこんでいく気がしてならない。
欲しい、好いた人をこの手で抱きたい、それは好かれた彼にだけ許される行為。
「そう……だから、下手に近付けば君を傷つけるかも知れない。」
柔らかく貶める裏の顔、しかし守りたいが故の最善策。
彼女という名を語って自分を守る為、だ。
「そう、ですか……あの、彼とは知り合いだったりするんですか?」
「…………同じ軍師だから、勿論知っているよ。」
知られない様に、誤魔化す様にそっと微笑めばそれにつられてななしも微笑む。
「それでも……一回でいいから、話してみたいなぁ……。」
純粋に見つめる目の先が痛い、心は悲痛に苛まれている。そう言った悪辣な言葉では当然伝わらない、会って話してみなければ真実は分からない。
最も行動を起こさなければ何も始まらないのだ、そのきっかけを作るのはきっと慕われている俺唯一人。本当は助けてあげなければいけないのに。
「じゃあ、俺はそろそろ執務に戻るよ。」
「あ……はい、また…話相手になって下さい。」
可愛い妹の頼みならば、と言い残すと振り向く事なく距離を取るように歩き始めた。ああ、執務なんて嘘だ、本当はその話の主人公が近くを通ったから。
別に会ったのなら何事も無く話せばいいのに。どうしても仲睦まじくしている姿を思い浮かべるだけで感情が淀む。
何れ置いてけぼりにされる、そう思っていると後ろから肩を掴まれた。
「…………法正殿。」
「浮かない顔で何を考えているんだ。」
「いえ、何でもありませんよ?」
「……お前といたあの女……名は。」
その言葉に一瞬詰まらせたが言わねばきっと悟られる。
「ななしですよ、血はつながっていませんが……ええと、妹みたいなものです。」
ななし、と一言呟くと彼女の方を見た。生憎一人で黙々と饅頭を頬張ってこちらには気付いていない。
「いい名前だ、退屈ですし話でもしましょうかね……。」
普段と変わらない笑みを残して踵を返す姿をただじっと見つめた。本当はその行動を阻止したいはずなのに、彼女の幸せそうな笑みが頭を過る度にその手はぎこちなく止まる。
そして彼は何も知らぬななしに話しかけた。いきなりの想い人に話しかけられて驚かない筈が無い。彼女は慌ただしく饅頭を置いて姿勢を正す。
そう、その顔は照れくさそうに、微笑ましく、純粋に恋する乙女の姿。
「……きっと、想いは告げないままだ。情けないな、本当に。」
でもそれでいいんだ、彼女が幸せならそれでいい。
一息吐いて薄い青い空をじっと見仰いだ。
だのに、そんなのは上辺だけの綺麗事に過ぎない。本当は自分を一番に慰めたいのに、幸福になりたいのに。
このまま終えるくらいなら、俺は
心に望まない闇が広がっていく。
「ね………どうして……っ!」
気が付けば、己の手は彼女の身体を余すことなく貪り尽くしていた。自分でも驚く程の愚かな行動、涙をぼろぼろと流し嫌々と抵抗をするが、組み敷いてる下で何をされようと全て無に等しかった。寧ろ支配欲に駆られてどうしようもなく淀んだ感情が揺さぶられている。
乾いた双方に映るはあの時の幸せではない。
「ごめん………俺は、最低な…人間だ。」
「徐庶さん……何故に、こんな……。」
どくどくと脈を打って体中が溶けてしまいそうな程に熱が巡っている。彼女と繋がった間には望むことのない混じりが妖しく這う様に流れて、薄い血は床に広がった。
それを見て尚表情を崩して最早絶望的。
「君を……失いたくなかった。……彼の元に行ってしまえば、俺は独りになる……愛した人を手放すのがこんなにも苦しかった…!」
泣きたいのはななしの方なのに、不甲斐ない位に徐庶は泣き崩れた。
「分かっている、好いているのは俺じゃない。法正殿を見ているその姿が眩しいからこそ、痛い程……理解していた。
……すまない、こんな筈じゃなかったのに君を酷く傷付けてしまった。
だからこそもう二度とななしの前に現れない…二人の関係を壊さないから……どうか……どうか…!」
今だけはこの背徳を赦して欲しい。ななしに誓うのか神に誓うのか、そのどちらもに懺悔を繰り返しながら哀しくも柔らかい身体を抱き締めた。
「ああ、吹っ切れたな。」
影でそれを見ていた法正は笑った。
「こうして妬みや嫉妬で優男は変貌を遂げる。裏の顔がないなんて有り得ないのだから……。」
全てを知っていながら彼をここまで変えた、善人を貫く等彼にとってはこれ程つまらない物はない。
「……それでも、渡すつもりはありませんよ。彼女……ななしはもう……俺の物なんですから。」
押さえた手の指の隙間から見える口は、完全に悪と化し愉快そうに歪ませていた。
次の感情を引き起こす為に、狂わせてしまう為に。
(愛なんてしらなければ良かった)
(彼女の愛は俺が全て貰おう)