私という何処にでもありふれた人間は、大して人が賛美する程特別なものではない。それでもって自分の手は人が言う程美しく綺麗なものでもない。
それでも【彼】にとっては何か特別な【運命】でも感じたというのだろうか?
「ん…………。」
すり、すり、手の甲に滑らかな肌が這う感触は、彼女の波打つ心臓を鷲掴んで一向に離そうとしない。うっとりと、それでもって端正な顔立ちで、何かに夢中な男は独りゴトのように呟いた。
「はぁ…………君はね、特別なんだ。他にはない安堵感が……こう、わたしの渇望する心を刺激する……。」
満足そうに微笑んで撫ぜる行為を続ける男。それを黙って見ていた彼女は訝しげに問いただした。
「………私は、貴方が望むような綺麗な手はしていませんよ………?」
元は爪だって不揃いな、ごく一般的な女性の手つき。しかし彼に触れられてからはその形はあっという間に変えられ、爪の表面には磨きがかけられて艶やかに、形もきっちり平等に整えられている。今では彼の理想に近い【手】ではあるが、それでも自分にとっては然程モデルのように美しいとは思えない。
コンプレックスとまではいかないが、理想の高過ぎるこの男に目をつけられるほど自分を特別高く評価していない。
「ン、まぁ……確かに、わたしが今まで愛してきた【彼女】達に比べたら、君の手はきっとそうなんだろうね。」
「…………。」
やっぱり。分かってはいても無性に悲しくなる。これは彼を好きになった事を酷く後悔してしまうワード第一位とも言えよう。
加えて、自分が初めて猛烈に恋をした相手が度がつく程の手フェチで連続殺人鬼だなんて、家族に言ったら一体どんな反応をされるのだろうか。きっと彼の事だろうから真面目な会社員として真摯に振る舞い、一生気付かれることはない。むしろ大歓迎のムードに包まれるだろう。
更に言うと優しい所も多々あり、生活態度も文句のつけようがない位に素晴らしく、誰もが憧れる理想の旦那というのはこういう人の事を指すに違いないのだ。多大なる犯罪と性癖がなければほぼ完璧である。
が、結論、誰がなんと言おうと彼が好き。例え彼の中で一番の彼女でなくとも、この気持ちに嘘偽りはない。生きている【手】として、私は堪らなく満たされているのだから。
でも、時々この家を出て行ってしまいたくなる時がある。自分は彼に不釣り合いだと勝手に判断して、勝手に罪悪感に陥って、勝手に手を切ろうと考えた事もあった。それは物理的な意味ではなく、目の前から忽然と消えてしまう、という意味で。
もし仮に彼が手に興味をなくしたら?
本体は手に付いてきたおまけと妥協していて、やっぱりわたしと手を切ろう、と切り出してきたら?
そんな日が来てしまうのが酷く怖いのだ、捨てられてしまうと思うと殺されるよりも死ぬよりもずっと怖くて、彼の恋人でいる事が本当に生きた心地がしない。
それでも言わずにはいられない、どうして私を選んでくれたのか、と。
そして、私は、どうして今も五体満足で生きているのか、と。
そんな考えを見抜くように、彼は鋭い目ながらも穏やかな声色で聞いてもいない質問に答えた。
「ああでもね、わたしの前からいなくなろうだなんて浅はかな考えはよしてくれ。君は、君が思うほどダメな人間じゃあないんだから。」
「………え……!」
「そう、今、こう考えているに違いない。私なんかがこの吉良吉影といてもいいのだろうか、と。」
「……その………どうして、分かったんです?」
するり、彼の頬に触れた自分の手は、不思議といつも以上に冷たかった。
「手が震えていることに気がつかなかったのかい?フフ、わたしはすぐに気がついたよ……こんなに目の前なんだ、ななしのことは手に取るように分かるとも。手だけに、ね。」
「…………ごめんなさい。」
「なぜ謝るんだ、君が何か悪いことでもしたのかい?わたしは決して責めているんじゃあない……ただ、やけに居心地が悪そうに見えたんだ。
何か思い悩んでいる………そう、例えば……わたしのことで。」
淡々と見抜くような話し方に、彼女は瞳を大きく揺らした。
「ち、違うの………!吉影さんは何も悪くないんです。ただ、怖くて。私を生かす理由が分からなくて。それを知るのが、どうしても怖かったんです。
ううん、嫌ですよね……こうして感情の起伏がある本体の煩わしさは、やっぱり吉影さんにとって不要な物………。その点、手は何も言わず綺麗なままで、貴方を満たしてくれるのに……。」
「……………。」
「だからね、いっその事、気持ちが消えてしまう前に、私からいなくなろうかなって。貴方を心底好きであるが故に、この気持ちを抱いたまま、どこか行ってしまえば楽になるんじゃないかなぁって。」
私がいなくても、代わりの手は綺麗で、幾らでも貴方を愛してくれるもの。
溢れ出しそうな涙を懸命に堪えて、彼女は全てを言い切った筈なのだが、
「いいや、違うね。」
そんな意見を切り捨てるように、吉良は彼女の手首をやや強めに掴んだ。
「あっ…………!」
爪が食い込んで白い肌に薄っすらと紅い跡がつけられていくのが分かる。
血の巡りが、止まって、さぁっと引いていくのが、分かる。
このまま、殺されてしまうのだろうか。熱を孕んだ狂気の瞳を突きつけられて、もう少し慎重に言葉を選んでおけばよかったと後悔しても、もう後戻りは出来ないのに。
いや、むしろこのまま殺されてもいいかもしれない。そうすれば、何も考えずに済むのだから。恐怖に怯えるよりも敢えて凛として、そんな覚悟で生唾を呑み込んだ。
しかし吉良は声色を変えることなく続ける。
「ん……そうだね。確かに、わたしはこういう『サガ』であるが故に、女性の手だけを好んで、他の部分なんて一切不要だと思っている。
だけど、ななしと出会ってからというものの、心の底から湧き上がってくる何かに抗い続けて、我慢して、我慢して、こうして君の前ではいつまでも優しい人間でいられる……。
なぜだか分かるかい?」
揺らぐ瞳の中を、誰かが覗いた気がした。
「君といると、わたしはとても安心するんだ………フフ、初めてだった……ななしが生きている人間でよかったと、心からそう思ったのは。
しかしそれと同時に……心の底から平穏を望むこのわたしが、今、尋常じゃないくらいのストレスを抱えているんだよ。」
その直後、うなじに掛かる彼の温い吐息に、殺意に似たような熱いモノを感じ取った。
「…………本当はね、今でも、君を、殺したくて、殺したくて、しかたないんだ。
でも、やっぱり、君を死なせたくない……!」
「吉、影、さん。」
彼の悲痛なる叫びが手首に食い込む爪の長さで分かった。伸びている、少しずつだが、確実に伸びている。
ああ、本当は、殺したいんだ。
しかし、それを拒んだのも、自分自身。
「そう……君の場合、手だけが残ってもきっと寂しい気がする。一緒にいても、今みたいに満足しないだろうね……。
喜びも悲しみも、本当は知りたくなかったはずなのに、奇しくも知ってしまった………ななしが、わたしに優しくするから、その温もりがずっと忘れられないでいる。
殺してしまったら、それこそ望んでいた平穏を失ってしまう気がするんだよ。温度を感じる手は握り返してこない、心地いい声も聞こえない、やわらかい笑顔も帰ってこない、そんなふうに。」
ぽつりぽつりと話す声はひどく寂しい。
「私が……貴方を変えた……?」
パッと、掴んでいた手が離れたかと思えば再び彼の頬へと戻っていく。温い手から伝わる愛おしさが、不要と思われていたこの身体にも染み渡っていくのが痛い程に分かる。
「そうだよ。だから、その命はもう……手を含めて既にわたしのものだと思った方がいい。いなくなるなんて二度と言わないでおくれ。
そうじゃないと、きっと……。」
その先は言わずとも分かる。だが、その理由を聞いて安心したのだろう。私の身体は無意識に彼を強く抱き締めていた。
「………吉影さん、ねぇ吉影さん。私もずっと一緒にいたい。こんな私でいいのなら、与えられた寿命が尽きるまで貴方のそばにいさせて………?」
すっかり涙声になってしまってるが、いちいち気にしてなどいられない。いっそこのまま何もかもさらけ出してしまえばいいとさえ思った。お互いの思う気持ちをぶつければこんなに楽になれる事を知ったのだから、もう恐怖など何処にもない。
吉良は震える彼女の身体を抱き締め返し、まるで子供をあやすようにポンポンと背中を叩いた。
「フ〜……もちろんそのつもりだよ……まぁ、わたしは君がイヤだと泣き叫んだとしても一生離さないつもりだけどね……。もしその時は綺麗なまま死体を冷凍保存するか……ああ、剥製にするのも悪くなさそうだなあ……。」
「ひぇっ……今顔を見るのはマズイですよね。というより私を殺したくないんじゃなかったんですか!?」
「ああ、殺したくないさ。でも、離れるなんて言ったらまず理性が効かないかな。
……よかったね、家出しなくて。」
「あうう………家出していたら今頃冷凍保存されていたかと思うと、物凄く寒気が………。」
思わず彼の胸板に顔を埋めれば嬉しそうに喉を鳴らす吉良。
「きっと優しいななしのことだから、一生わたしと一緒にいてくれると信じているよ。フフフ、わたしは幸せ者だなあ〜。」
「も、もう………!元より私はそのつもりですからね!カッコよくて、優しくて、そんな吉影さんの事が……だ、大好き、ですもん。うう、やっぱ直接言うのは恥ずかしい……。」
「……………。」
「よ、吉影さん?」
その時、何か、下半身によからぬ気配を感じ取った。
「君が悪いんだよ………ハァ………そんな可愛いことを言うから………。」
「いやいや!ダメです、今もきっちり抑えてください立派な理性!」
「わたしに待てと?酷なことを言うもんじゃあない。このまま生殺しなんてごめんだね……少し早いが、夕食までには間に合うかな。」
するする、気が付けば衣服が擦れて落ちる音がする。彼の目線の先は……手、じゃない。今は手に発情していない。
「そうそう、女性そのものに発情するのはななしがはじめてだよ。フフ……嬉しいかい?」
「う、嬉しいけど、違う……!分かりました、言いたいことは十分に分かりましたからぁ!」
「いいや!限界だ、やるね!」
これは手に異常な程執着していた男を変えた彼女の奇妙な物語である。
(わたしの手入れが行き届いているみたいだね……ン〜、指先が飴のように甘いよ………)
(うう!やっぱり、彼の気持ちが読めない……!)