それはきっと運命

「吉影さんって、人を好きになったことありますか。」

そう彼に向かって問い掛ければ、読んでいた新聞を静かに折りたたんで「ないよ。」と即答した。

「なんだい突然。そういうななしは、今までわたし以外の人間を好きになったことはあるのかい?」

不意にそう返されて、読んでいた雑誌から目を離したななし。

「好きな人……ですか?」

「そう。」

指でくるりと輪っかを描きながら、吉良は色っぽい視線を彼女に向ける。長い睫毛が揺れながらも一切揺らぐことのない純粋な瞳は、何気なかった筈のななしの気持ちを大きく震わせた。

言ってみれば全く愛だの恋だのに興味がない吉良が珍しく問い掛けた質問。しかし今回の場合は自分がそういう質問をしたから単に気紛れで返しただけかもしれないが。
普段なら「そんなもの興味ないね。ましてや君が好きになった奴の話を聞いただけでも無性に苛立って殺したくなる」と言いそうだ。一度でも他人を好きになった事があるなんて言ったら一瞬で殺されてしまいそう。その人が。

あ、指でクルッと髪の毛いじった。彼のこういう無意識な仕草が好き。ああ、触りたい。もふもふしたあの髪を撫でたい。

そんな惚気けた思考であるとは知らない吉良は、不思議そうに首を傾げてもう一度同じ質問をした。

「で、どうなんだい、実際。」

「え………いえ、過去に誰かを好きになったことは一度もありませんけど……。」

「本当に?」

「えっと……ないですね、本当に。」

決してこれは嘘ではない。ななしはこの殺人鬼である吉良吉影に出会う前は本気で恋というものを知らなかった。
思えば学生時代に同級生が恋話で盛り上がっていた時、自分は何気なく輪の中にいて淡々と頷く事しか出来ていなかったと思う。隣のクラスの龍ヶ崎君がカッコいいとか、松宮君とグループが一緒になって緊張するとか、そういった淡い恋心にさえ疎かっただろう。そんな生きる事がさぞ楽しくなるような気持ちを微塵も知らなかった彼女は、何気ない平凡な人生へ更に色が無かった時期を静かに過ごしていた。

夢も希望もない。其処にあるのは真っ白なキャンパス。卒業したら普通に仕事して、交わる事のない平行線な人間関係を延々と繰り返し、一人で刺激のない人生を送る。

そんな未来になる筈だったのに。

「吉影さんを知ってしまったら……私、もう元には戻れません。」

「ん?」

「いえ、こっちの話です。」

「確かに君は人に関心がない性格だとは思っていたけど、まさかわたしが初めてだったなんてね。」

「貴方に出会ったあの日………私、今までに感じた事のない感覚に陥ったんです。この人が、自分の【運命】なんだと。真っ白なキャンパスが一瞬にして真っ黒に塗り潰されるような、満たされるような、不思議な感覚だった。」

空中に浮かぶ幻覚を掴むように握られた拳。今では色鮮やかに、彼の所有物と言わんばかりに美しく施されている爪が見える。

「君が、わたしに殺されそうになったあの時か?」

トントン、机をリズムよく叩いた綺麗な指は吉良の指。

「そう……私は、この人に殺される……そう思った刹那、何もかもが赦せたんです。誰にも心の隙間を見せてこなかった私が、生まれて初めてこの人になら全てを委ねてもいいと。……変ですよね、その日に出会った人間に対して、ましてや殺される寸前で見せる反応じゃあないです。

殺されると分かった時、必ず死を恐れるもの、だけど」

あの時、私は、嬉しかった。

「果たして、これを、恋と呼ぶんでしょうか……。なんだか自分で言うのもなんですが、違うような、歪んでるような気がします……。」

「まぁ……確かに、あの時のななしは恐怖に怯えた瞳をしていなかった。さすがのわたしも驚いた。今まで殺してきた女達は必ずと言っていいほど死の恐怖を目前にしてひどく震え上がっていたからね。」

そんな悲痛な顔も、すぐに見えなくなってしまうんだけど。過去に感情なく吉良は続ける。

「……それが、普通の反応です。やっぱり私が変なんです……。」

「でもいいじゃあないか。君は今の生活で満足なんだろう?それが恋なのかどうか分からなくとも、今は、わたしといることに何も躊躇いがない表情をしている。」

「もちろんです……吉影さんが今巷で大騒ぎになってる殺人事件の張本人でも、何事もなかったような顔して同居しているんですから。」

「フ、快くは思っていなさそうだがね。」

「こればかりは常人の反応です。どんな理由であれ、殺人は良くないですからね。」

「仕方ないさ。殺人衝動は自分でも抑えられない。ましてや爪が早く伸びる頃は絶好調だから、そういう時期は君との距離を考えて慎重に行動している。……どんな理由であれ、君を殺す気はないからね。」

「うーん、本当なんでしょうか……。」

「本当だとも。初めて出会った頃は単なるターゲットにしか思っていなかったからさ。でも今は違う、ちゃんと一人の女性として、恋人として見ているよ。

手の恋人は沢山いたけど、意思のある恋人は君が最初で最後だ。フフフ、よかったね。」

闇を感じる言葉だが、それを愛ある告白として捉える自分も相当末期なのかもしれない。

「そ、それは素直に嬉しいです。でも、浮気……いえ、上着チェックしないといけませんね。うっかり女性の手が入っていないか心配ですから。」

なんて軽い冗談を咬ます。でも、私に出会う前、どれだけの【恋人】を作ったのかは聞かない。

「フ〜……もう作る気はないよ。今まで通り殺しはするが、ちゃんと綺麗に跡形もなく消している。ああそれと、興奮はしていないからその点は安心するように。」

手の甲を愛おしそうに頬擦りする吉良。

「あっさりと告げられる現在進行系……なるべく抑えるように努力してくださいね。」

「分かってるさ………ああ……君の手は、やっぱり落ち着く………。」

微笑んでたった一言、それで済んでしまう会話はなんて歪んでいるのだろう。人の命よりも殺人鬼を最優先してしまう地点で自分はとっくに狂ってしまっているのだろう。

刺激のない穏やかな人生は、静かに暮らしたい男によっていとも容易く崩された。それでも、きっと、自分は今とてつもなく幸福だと結論付けるのだろう。この先も何事もなく二人で幸せに暮らせるなら、例え世界の全てが敵になっても吉良吉影の味方をするに違いない。間違った生き方をしていても、きっと笑って赦してしまうのだろう。

「ねえ吉影さん。」

「なんだい。」

いつも後ろに流している彼の髪を指で引っ掛けて前に下ろせば、

「うん、こっちの吉影さんもやっぱり素敵。」

慈愛に満ちたような笑みを浮かべてななしは吉良の頬に口づけを施した。

「ん………どうしたんだい急に。」

「誰も貴方を赦さずとも、私だけは貴方を赦せる自信がある。どんな結末を迎える事になっても……貴方を最期まで守れる……。

好きです。大好きです。愛してます。此処で死んでもいいくらい。殺されても構わないくらい。

そう……きっとこれが私なりの愛の形なんだと思います。」

「ななし………。」

吉良の大きな両手が彼女の小さな両手によって動かされ、白い首筋に触れるなり、ゆっくりと輪になる。

「………………。」

「………………。」

目の色が次第に暗くなり、彼の鼓動が速まっていき、あの時と同じ狂気に呑まれた瞳が徐に映った。性である殺意が芽生えるこの瞬間が、堪らなく押し込めた感情を昂ぶらせるのだ。

「………………このまま私を、殺せますか?」

何気なく、それでもって煽るように質問を呟く。

しかし、その輪はいつまで経っても力がこもらず、

「………無理に決まってるじゃあないか。」

と、そのまま頬に滑らせて開いた彼女の唇に己の唇を重ねた。

「んっ。」

「……っふ……君は意地悪だ……そんな気もないくせに、させないくせに。わたしを困らせて、楽しいのかな。」

「そんな。でも、死ぬ時くらいは吉影さんの手で死にたいかも。」

「おや、わたしを守ってくれるんじゃあなかったのか。」

「もちろん。守って死ぬ予定です。一応。」

「やれやれ、平穏に長生きしないといけないか。折角人を愛する心を持ったのだから、お互い生命を大切にしなくっちゃあね。」

何度も何度も角度を変えて、触れるだけのキスと深いキスが交互に訪れる。

……ああ、もうすぐ、くる。

そう感じた時、彼女の想定通り吉良は息を弾ませて勢い良く身体を押し倒す。しっかりと手首を押さえられ、好戦的に舌なめずりをする様は何処か鬱くしいとすら思えた。

「綺麗だよ。とっても。」

骨張った指でなぞられる、手の平から指先まで、痺れるような甘さに思わず背筋をゾクゾクさせる。

「ホラ、その綺麗な白い手で、わたしを喜ばせてみせてくれないか。もう虜になってしまったんだ……満足するまで、ずっと離してあげないからね。」

子供のように強請る表情なのに、何処か大人のような妖艶さを醸し出す。ああ、このギャップもある意味興奮させる要因なのかもしれない。

我慢できないのは、私も一緒。


「勿論。吉影さんが、満足するまで、ね?」


誘うように目を細め、一本の指を目の前に差し出せば、優しい殺人鬼は愛おしそうに恋人を見つめた。




(一生かけても満足できないかもね)

(満足したら、楽しみがなくなってしまうから)