鋭利な刃のように美しい三日月が、暗い空に唯一つ浮かび上がっている。それよりも更に遠くを見つめていた三日月宗近は細目で見るなり憂う表情を見せ、足早に目的の場所に歩みを進めていた。
「やあ、主、起きているかな。」
いつものように返事はなく、控えめに扉を開けて中に入ると、筆を持ったまま俯く少女の姿が瞳の中に入り込む。こくり、こくり、ゆっくりと舟を漕ぎだして、安らぐ夢の中へと誘われている最中だった。宗近はそれを見るやいなや、傍に寄り添い、顔を伺うようにそっと覗かせる。
「ふむ、これではいけない。」
このままだと主が風邪を引いてしまう、そう思い立つと急いで寝床を敷いてななしの持っていた筆を硯に置く。全てを周到に済ませ、後は彼女を布団に寝かしつける、だけなのだが。
「…………………。」
衣装が寝間着ではない事に気付き、ふと手が止まる。確か今日の昼頃、子供達と共に畑仕事の手伝いをしていた。目線を落としてよく見ると、所々埃のような汚れが目立ち、これでは寝かす事が出来ない。
「困ったな。脱がそうにも、さすがに俺ではまずいか。」
更に言えばこの屋敷に女はいない。多くの男士が集い、女は審神者であるななしのみであるが故、本人が目覚めない限りこの衣装を取り替える事が不可能なのだ。しかし彼女は手入れや手伝い等の激務に追われ、立て続けに睡眠不足が続いていた。起こすのは少々心苦しい思いだ。
「そうだな……いっそ俺が取り替えてみるのも悪くないか。……ははは、冗談。」
本人は冗談で笑っているつもりなのだが、半分本気でもある。別に彼女の中身を見るのはこれが初めてではない、過去にも何度か肌を重ねてはいるのだが。
「ななし。」
二人きりの時にしか呼ばない、彼女の名前を小さく呟く。わざと耳元で囁いてみるが、本人はむにゃむにゃと幸せそうな顔をしながら全く目覚める気配はない。
「起きなければこのまま脱がせてしまうぞ。」
すぅ、と細められた瞳の中に映る三日月がななしを捉えて離さない。
「どれ。」
ゆるり、紐を解いて上着を脱がせてみると、するする落ちて中の綺麗な白衣が姿を見せる。
「いつ見ても美しいな、俺が惚れる訳だ。」
その言葉に脱がせていた手が再び止まる。刀が審神者と恋に落ちるなどあってはならない事は重々承知している。
それでも、一目見た時から、彼女を愛したいと思っていた。だからこそ他の刀の手入れしている光景を見ると無性に苛立ち、その整った顔に笑みを浮かべながらも中身は淀んだ感情がどす黒く巻いていた。
この刀に宿る魂と心、それは正しき歴史を護る為に喚ばれた刀剣男士。
「…………………。(ああ)」
儚きかな、これが終われば、我々の役目も終わり、元の鞘に戻る。
「それでも、俺は………。」
このまま人で在りたい。ななしと共に春夏秋冬を巡り巡って、手を取り合いながら歩んで生きたい。
「…………………宗近さん?」
気が付けばななしの瞼は開き、曇る宗近の顔を不安そうに覗かせていた。何度か瞬きを繰り返し、咄嗟に切り替えして柔らかい笑みを向ける。
「はっはっは、主、起きたか。」
「あ、はい……すみません、うたた寝してしまいました……。」
「余程疲れていたのだろう。寝床も敷いておいた、着替えて寝転ぶといい。」
いつものように笑って誤魔化すが、果たして上手く笑えているのだろうか。
そそくさと立ち上がりその場を立ち去ろうとすると、ふと僅かに引っ張られる裾辺り。静かに目を落とせば、今にも泣きそうな顔で宗近を見上げるななしの姿。
「宗近さん………良ければ、話してくれませんか。」
「…………は。」
深い青色が映える群青の髪がさらりと揺れる。髪飾りが小さく音を立て、途端に心臓の鼓動が早まった。
「何を言っている、主。俺は何も隠していないぞ。」
「では、どうして先程苦しそうな顔をしていたのですか………。胸が締め付けられるような、何かを恐れているような……。」
「………いや、物思いに耽っていたまで。ほんの瑣末な悩み、だ。」
主も感じているのだろうか、人と刀の交じり合いに躊躇いを。俺は出来るだけ感じないようにしているのだが、どうにも心の奥では葛藤している。だがいずれ悲しんでしまうのは主であり、一人取り残されるのも彼女だ。それにはさすがの俺も耐え切れない。
しかし……どうしても、愛したかった。
「ななし。」
「は、はい……………ん……!」
膝をついて彼女と同じ目線になると、顔を近付けて深い口吸いを施す。舌をゆるゆると絡ませて、彼女の想いを感じるように、何度も何度も求めた。艷やかな唇を舌でなぞって離れると、ななしは呆然と目を見開く。
「……ははは、どうやら俺は重傷のようだ。いや、心がな、どうしようもなく痛い。」
「……宗近、さん……。」
「好きなのだ、どうしようもなく。しかし求めれば求めるほど、己の在り方が分からなくなってくる。なにせ、本来は刀として生きている故、人との愛を育む事などなかった。」
「………………。」
指で黒髪を梳いては撫ぜて、彼女の温もりをこの身に感じ取る。出来るだけ不安を取り除くように強く抱き締めて。
「いずれ来るであろう別れに、きっと俺は耐えられないだろうな。」
「宗近さん……私………。」
「だがな、ななしを愛した事を決して後悔していない。むしろ良かったのだ。人のあらゆる感情を知り、本当の愛し方を知った。……だからそんな辛そうな顔をするな。」
そんな顔をされたら、俺も気が気でないぞ。宗近は優しく語りかけるように微笑むと、ななしもまた安心したように表情を緩めた。
「私も………愛してます。例えその役目を終えて一人残される事になっても、ずっと貴方だけを想っていますから……。」
「……ななし。」
彼女の芯の通った告白を聞いて、宗近は揺らいでいた気持ちを固く決心させた。
「……ははは、安心しろ、何が起きても俺は最期までななしの傍にいる事を約束しよう。本来の役目を果たしても、俺の意思でいつまでも隣にいる事を。」
宗近はその巫女服を脱がし、首筋に朱い印を口付けた。
「今日は俺も寝るとしよう。……共に寝てくれるか?」
いつものように笑う宗近。はい、とななしは小さく頷くと、そのまま宗近に身を委ねるように身体を傾ける。三日月が空高く昇り、二人のいる屋敷の中に淡い光が射しこんだ。
(もう気持ちに迷いはない)