近い内に美しい紅葉も訪れる、そんな寂しい秋になったというのに、雨が多くて憂鬱な気分の私は窓の外を見つめては溜息を零すしかなかった。
「洗濯物が出せないのが辛い。」
そう、別段外に出たい訳でもない。学校が無い休みの日くらいは家でゆっくりと過ごしていたいという、どちらかと言えばインドア派なのだ。故に憂鬱さを引き起こすのはごく単純に洗濯物が乾かず、その所為で家の中が湿っぽくなるから。
「……………。」
振り続ける雨を見るのも飽き飽きし、何気なくカレンダーの方に目を向けると、今日は9月26日だった。
「26日。」
だからといって特に何かある訳でもない。見たいアニメの放映日でもなければ歌手のイベントがある日でもない、よく訪れる、何の変哲もない日常の一つ。
しかし、毎年この日だけ、どことなく違和感を覚える。
別に誰かが死んだ日でもない。特に何もないのに、理由もなく寂しいと思ってしまうのだ。
「………誰か来ないかな。」
そんな都合よく人など来る訳もない。
その虚しさを紛らわす為にテレビを付けてみたが、特にリアクションも薄く、結局すぐに消してしまう。誰かと会話がしたいと思って徐に携帯に手を伸ばすが、それも違うと分かると渋々引っ込めてしまった。
「………………。」
いっそ昼寝でもしてしまおうか。そんな事を考えた矢先である。
「…………………?」
無機質な部屋にインターホンが鳴り響いた。宅配でも来たのだろうかと重い腰を上げて扉まで近付き、どちら様ですかと声を掛けて扉を開けると、
「……………あ。」
「よお。」
目立つ白髪にこれまた目立つ虎柄のシャツが視界いっぱいに入り込んだ。ゆるゆると首を上げて顔を合わせれば、これまた鋭い視線とぶつかり合う。
いつ見ても色っぽい姿に思わず恍惚感……いや、そんな事よりも、もっと重大な事が起きている。
「ど、どうしたんですかその格好!ズブ濡れじゃないですか!」
「どうもこうも、傘を忘れちまってよ。そういやお前の家がすぐ近いからと思って。」
「ああ、もう………!今タオル持ってきますから、その場から動かないで下さいね!」
急いで洗面所の傍に置いてあるバスタオルを抱え、風呂の蛇口を思い切りひねる。顔色変えることなくその場で大人しく突っ立ってる赤木の元に寄るなり、
「はいっ、靴と靴下を脱いで下さい!」
「………っと、これでいいか?」
「はい。それと、今お湯入れてますから、このタオルで頭を拭いて……。」
さっきまでの虚しさは何処か遠い昔の事のようだ。今はそこにいる男の惨状が気になって仕方がない。
「クク……用意周到だな。」
「そりゃあ……だって、赤木さんに風邪ひかれたくないですし。」
「……そうか………なんだか、土砂降りの中歩いていたのを思い出すな……。」
「……え………!ちゃんとケアしましたか……?」
「ああ、あの時も今と同じ様にしてもらった、というのが正しいか………。しかも偶々転がり込んだ場所が夜の寂れた雀荘でよ……その時、ある一人の男が生死を掛けた麻雀に挑んでいたって訳だ。」
「麻雀………あの、その時の歳は……。」
「ん?アレは13だったか。」
「13!………怖くなかったんですか。」
「別に、ただ俺も当事は随分やんちゃしてたし………その直後に入った場所だったから、特に何とも思わなかったな……。」
ポケットからライターとタバコを取り出すが、勿論雨により湿気て使い物にならず、顔を顰める赤木。
「あの、この前置いていったタバコならありますよ。」
「おう、すまねえな。」
棚の上に置いてあったタバコとライターを渡すと、すっかり機嫌を取り戻しては煙をふかし、先程の昔話に戻った。
「やんちゃって……もしかして………。」
「ふ、想像に任せるさ………まぁいい、その話は一旦置いておこう。面白い話はここからだ。」
「………お楽しみ中に悪いんですが……お風呂に………。」
「んん?ああ………用意してくれたのか、じゃあ入るか。」
話を折るようですみません、そう言って彼女はいつ来てもいいように予め置いてある部屋着とタオルを新たに用意して赤木に渡した。
すると、不意に頭に置かれる彼の手。
「お前、いい嫁になるぜ。」
なんて、突拍子ない事を言うものだから、当然の如く耳まで紅く染まり上げる訳で。
「…………っ……ありがとう、ございます。」
そんなぎこちない返事に赤木は満足そうに笑って浴室に消えていった。
「……………心臓に、悪いですから………!」
誰が好きなのか分かっているくせに。
そうして20分後、赤木は黒い衣装を身に纏いながらリビングにやって来る。体温もすっかり戻り、身体を火照らせる姿がまた何とも言えないのだが、流石にここは我慢しなければと目を伏せた。
「待たせちまった。」
「いえ、ゆっくり休めましたか?靴の方はタオルやペーパーで水分を取って、服は洗濯機で回している所ですので。」
「……ハハ……!本当に、どこまでも気が利く嬢ちゃんだ。」
「もう……!これでも本気で心配して………!」
と、むきになって身を乗り出していたのだが、
「ほら。」
そんな声掛けと共に彼女の身体はすんなりと彼の方向で倒れ込んでしまう。
「あ………!」
「さっきの続き、聞くか?」
優しい声色が頭上から降ってきて、堪らず心臓が激しく波を打った。腰に回される逞しい両腕が余計に気持ちを込み上げさせて、一生このままでも構わないとさえ思ってしまう。
「……はい、気になります……赤木さんの過去について。もっと教えて下さい。」
「何処まで話したっけか……ああ、そうだ………その男は株の損やギャンブルで多額の借金を背負い、その返済をする為に命がけの勝負をしていた………そんな時、俺に何て言ったと思う?
早い話、代打ちを頼まれたワケだ。しかもだ、当時の俺は麻雀なんてモンは全く無知ときた。」
「む、無知……!それって、麻雀を全く知らない状態で挑んだって事ですか……!?」
「ああ、そんな所だな。取りあえず麻雀の基本中の基本である説明を受けただけ、たったそれだけで挑んだ。」
ま、それで勝っちまったんだがなぁ。と、笑いながら悠長にタバコに火をつける赤木。
「笑い事じゃないですよ……とんでもない伝説の始まりじゃないですか………。」
「そんなモンかねぇ……まあそのお陰で今がある訳だが。」
ふぅ、と天井に向かって吐いた白い煙が空気に溶けていく。
「それにしても……色々あったな、こうして思い返すと。」
ただ……、と赤木は続ける。
「記憶が……所々抜けていたりするんだよ。それに、最近の出来事も曖昧になってたりする……。」
そんな風に語る赤木の顔が何処か憂いて、途端に恐ろしくなってしまった私は堪らず否定の言葉を放った。
「………それは、誰にでもある事ですよ。私だって小さい頃の記憶はほとんど忘れてしまってますし……。最近の出来事なんて、アレ、なんだったかな?みたいに思っても、軽く笑い飛ばしてますから。」
「そうか?………ならいいんだけどよ。………クク……どちらにせよ、やっぱ歳とりたくねぇな………!」
「………………。」
何も言えなくなってしまった代わりに彼の腕を握って胸元に顔を埋めれば、驚いた顔をしながらも何も言わず背をそっと撫でてくれた。
それが堪らなく嬉しくて、
「赤木さんはね、絶対に長生きしますから。」
なんて、一切保証出来ない事を言ってみたりして。
「だから、私………。」
「言われなくても、生きてやるさ。」
はっと、俯いていた顔を上げれば先程と打って変わり満ち足りた顔で笑みを浮かべる赤木。
「俺は……誰かの為に生きるなんて今まで考えやしなかった。家庭を持つ事……女や金……そんな物は人生において全て休息でしかない……ああ……そういう生き方を貫く筈だった。」
筈……だったんだよ。お前と出会うまでは。
「私が……私が、赤木さんの運命を変えてしまった……そういう事、ですか。」
サラサラとタバコの灰が灰皿の上でこぼれ落ちる。
「…………そうだ、変えた、変えてくれたんだよ。お前が俺に教えてくれたんだ。友以外に、大切な存在がある事を。」
くしゃり、髪をぶっきらぼうに撫でては、離さないと言わんばかりに胸元へと引き寄せる。衣類から香るタバコの匂いと彼の匂いが混ざり、何とも言えぬ安心感に包まれた。
ああ、やっぱり私は、本気で赤木さんに恋をしているんだ。
「ありがとよ………。」
だけど、そんな感謝の言葉が、最期の別れを連想させて。
「………っ…………!」
涙が止まらなかった。低く囁かれた声色はかつてない程に優しくて、胸が引き裂かれそうになる位に苦しい。
彼がこの家に来なくなる事を想像するだけでゾッとして、いつもみたいにフラリと現れてはタバコを吸ってるその姿が二度と見れなくなると思うだけで、永遠の虚無感に囚われる感覚に陥ってしまう。
「…………おい…………。」
「………っ、う…………そんなの…………嫌です…………!私は、まだ………言ってない言葉が、あるのに………!」
「………………。」
それを悟ったのか、赤木は互いの顔が見える位置に僅かに距離を置いた。
「オイオイ……泣くなよ……まるで俺がもうすぐ死ぬみたいじゃねぇか………。」
「……ごめ……なさ……っ……。」
涙を止めようにも一度溢れだした感情はそう簡単には収まってくれない。鏡を見ればきっと醜い顔になっているだろう。
そんな無様な姿だけは見せまいと誓っていたのに。
「………言っただろ……俺は、生きる……赤木しげるとして………最期までお前と一緒にいてやるさ………。」
「赤木、さ………。」
その名を呼ぼうと動かした唇は攫われて、視界いっぱいに銀白色の世界が広がった。
何が起こっているのか、そんな事も考える間もなく、二人の距離は再び離れて、
「…………ハハ、お前も悪趣味だな………こんなジジイを好きになって、後で後悔するぜ………若い男の方が良かった……!ってな。」
「…………っ、後悔なんて、しませんから!それに年齢なんて全く関係ありません!例え親子程の年の差があっても、私にとって赤木さんは神の領域………何にも勝るカッコイイ神域です………!」
「…………………。」
ああ、散々言い放った後の彼の顔と言ったら。
「…………あの、いきなり真顔になるの止めていただけませんか……非常に気まずいです……。」
「いや……悪い……まさかそんな風に思ってるとは思わなくてよ……。」
「…………ああ、恥ずかしい………。」
手で顔を覆いたくなるような羞恥が一気に押し寄せて、涙なんてすっかり引っ込んでしまった。
だけど、彼の表情は穏やかそのもの。
「年齢なんて関係ない、か………言ってくれるじゃねぇか。そんな事言われて、ただ黙ってるだけなんて、味気ないよなぁ……。」
だったのは、一瞬だった。どうにも聞き捨てならぬ台詞が聞こえた気がする。
「………あの………これは、一体………。」
「あん?誘ったのはお前の方だぜ。」
「さ、誘った……!?そんなつもりで私は………!」
トン、と軽く両肩を突き飛ばされただけで、身体はいとも容易くカーペットに倒れ込んでは赤木に見下される態勢になる。これはまずい、と思った所で時既に遅し、すっかり湯冷めした彼は他の熱を求めるように熱情的な視線を寄越した。
「あ………赤木さん………。」
「外も雨で当分止みそうもねぇし、服も靴も乾く様子もない………クク……いっそこのまま泊まっていくか……。」
妖しく口角を上げる仕草に思わず謀られた!と察知しても、身体はとっくに彼に預けてしまって身動きすら取れない。
「意地悪………。」
「いいや、男を容易く家に入れるお前が悪い……!」
「あんなズブ濡れ姿で追い返す人も人ですよ!私にはそんな非道な事出来ません!」
「ほう……それが俺でなくてもか。」
何やら良からぬ方向へと誘導されている気がする。そうしていく内に服のボタンも幾つか外されいて、今にも目の前の銀狼に食われてしまいそうだ。早く言わなければ、きっとこのまま襲われてしまうだろう。
「………赤木さん、だから……。」
「あん……?聞こえねぇよ。年取ると耳もガタが来るんだ……ハッキリ言ってくれや。」
わざとだ。絶対に聞こえているのに、わざと恥ずかしい台詞を言わせるつもりだ。
「あ……赤、赤木さんだから……っ……家に入れたんです……!他の人は、せいぜい……タオル渡す程度で………。」
「………ハ、ハハハ………!」
「な、なんで笑うんですか……!」
喉を鳴らして盛大に笑う姿なんて随分と珍しい光景を目の当たりにする。しかし、羞恥に耐えて告白したというのに、とんだリアクションだ。
………だけど、
「ああ……好きになって……良かった。」
そんな愛の言葉に何も言えなくなってしまった自分の瞳には、生きる希望に満ちた男の姿が強く刻まれていた。
(こんな雨の日も悪くはないのかもしれない)