雨の中でびしょ濡れのまま

「雨。」

頭上を濡らした一滴に続いて、大粒の雨が一斉に大地へ降り注ぐ。

この世界にもこうして雨が降る。かつては建物であったであろう崩れ去った瓦礫の山々の上を、死の淵に立たされた人々の断末魔と怪物達の呻声の上を。そんな荒れ果てた場所にも平等に雨は降り注ぐ。此処に救いの希望など何処に在ろうか、誰もが悲観に暮れる末路しか見えない筈である。

だが、彼女は違った。同じように流れ着いた漂流者への希望を持っていた。漂流者を望んだ者等と同じように。

しかし何故だろうか、彼女は歴史を創り上げた人物でもなければ何の変哲もない近代の一般市民。巻き込まれる理由が何一つ見当たらないが、あのサンジェルミ伯は彼女が未来で大業を成し遂げたが故に選ばれたのではないかと推測している。

ああ、そんなまさか。今の今まで平々凡々な暮らしをしていたというのに、一体この先何が起きるというのだ。とはいえ、サンジェルミ伯は他の漂流者の正体も生前成し遂げた事柄も知っている、あろう事か現代まで語り継がれている事すらも言い当てた。それならば、ななしが何を仕出かしたのかも知ってる可能性は無くはない。

どの道、この世界で黒王を倒さない限り、元の世界には戻れない。

「寒い………。」

手先から冷えて体温が少しずつ奪われていく。この世界に傘などない、冷たい雨は容赦なく彼女の頭上を濡らしていった。

「帰り………た………。」

無意識に口にした言葉を辛うじて呑み込んだのは、最後まで言いたくなかったからか、やって来る男の姿が見えたからか。

「ななし、こげな所で何突っ立ってるか。」

「豊久さん。」

赤い鎧を身に纏うその男の名は同じ漂流者である島津豊久。ここに来てから幾度となく助けられた頼れる武人であり、密かに想いを寄せている人でもある。しかし、時代が大きく違い過ぎる為か、彼の考える理について行けない事もしばしば。

…何より彼の話す薩摩弁が理解出来ない。

「なんじゃ、そげん暗れ顔して。また怪我して痛むのか。」

「え……あ、今は怪我はしてませんから、大丈夫です。」

分かる単語だけを繋いで、彼の問い掛けに少しだけ間を置いてから返答する。

「なら、良か。」

失望の色を一切見せつけない笑みを浮かべると豊久は濡れる事など気にせずどっかりとその場に座り込んだ。草木は鎧に潰れて雨の滴がその勢いで飛び散る。

「あの、濡れちゃいますよ……?」

「ははぁ、雨に濡れる事ば気にしちょったら武士なんぞ務まらん。そげなこつ、俺がいた時代じゃあ当たい前ぞ。」

「……大変なんですね、戦国時代。」

彼に付き添うという事は命を賭けるという事。黒王軍と戦う際はなるべく前線には立たずに(女子という理由もあってか豊久が制止した)オルミーヌと共にサポート役に回るが、それでも怪我はしないとは言い切れない。走っている最中でも足は切れるし瓦礫に躓いて転んだりもする。豊久のように生傷が絶えない戦いをしている訳ではないが、それでも無傷でいる事の方がこの世界において余程の運を備えていない限り難しいのだ。

「それよっか、ななし……。」

「え………?」

豊久の表情は先程と何処か違う。

「さっき、何考げちょった。」

「………………?」

言っている意味を理解出来ず首を傾げれば、豊久は指先で頭を数回突いて「お前の考げ事じゃ。」と分かりやすく教えてくれた。

「さっき………もしかして、あの距離から私の唇の動きを見ていたんですか。」

こくり、と豊久は頷いた。さすがは死と隣り合わせの戦国を生き抜いているだけあって、洞察力が尋常ではない。

「……そんな、大した事じゃありませんよ。何気ない独り言を呟いていただけです。」

「………………。」

「あの………黙りで私の事を見つめられても………。」

変な意味で照れてしまう。好いている彼との距離が近いだけでもあっという間に鼓動が速まるのに、澄ました顔で見つめられれば、心臓が一瞬で張り裂けてしまいそうだった。

だが、そんな想いもすぐに薄れてしまうのは、彼自身がそんな風には捉えていないからだ。男女の色恋など頭の片隅にも在りはしない、其処にあるのは戦の事と、取り残された島津家の行く末。彼女が入る隙間すらきっと何処にも存在していない。

こんな想いをするくらいなら、早くこの世界から消えて、夢物語としての楽観的な結末を迎えてしまいたいとすら感じる。

「……そうですね、……皆心配するだろうし、早く、この世界から抜け出し………。」

たい。

ああ、また最後まで言えなかった。ななしは唇を噛みしめて静かに俯いた。

「…………やっぱり、駄目ですね………私………。想いが強ければ強い程、例え此処が絶望的な世界だとしても……まだ、いたいと思ってしまう……。」

「………………。」

「ごめんなさい。豊久さんにとっては嫌な話ですよね。こんな訳の分からない異世界に放り出されて、漂流者として未知の廃棄物と戦わされているのに。」

「ななし。」

触れようとしたその手から遠ざかるように、ななしはその場ですくっと立ち上がる。

「最後まで、頑張りましょう。私も、豊久さんや皆の為に、自分が今出来る事を全力でやりますから。」

伸ばした手を未だ下ろさずに豊久は瞬きを数回繰り返した。そして、

「お前の考げている事、よう分かったど。」

「………?………っわ………!」

力強く腕を引っ張られ、ななしは膝から勢い良く崩れ落ちた。冷たい鎧が全身を蝕んだかと思えば胸の中にがっちり閉じ込められて、奪われた温度が直ぐに戻ってくる。

「…………??」

「…………………。」

すりすりと、すっかり濡れた髪に顔を埋めて幸せそうに頬を緩ませる豊久。これは一体どういう事だと、混乱して最早放心状態に近いななしはただ唇を震わせる。

「と、豊久さん……!?な、にを……?」

辛うじて掛けた言葉も酷く上擦って、泳ぐ視線が一向に定まらない。

「よか匂いじゃ。落て着くなぁ。」

「それって………ええ………?」

雨音が次第に雑音となって豊久の言葉を濁らせていたが、耳元で話されればこれまた不思議と鮮明に聞こえた。その全てを見透かしたような物言いは、強ち嘘偽りではないかもしれない。

「そうじゃの。こうしてお前といるだけで、何もかも救われる。」

「………そんな………。」

救われたのは寧ろこちらの方だ。その身を挺して守られた事が幾つあったか、考えるだけでも涙が出そうだった。ただ豊久は戦しか知らない、己の命の価値も考えない、死にたがりにも見えなくないその生き様は、平和な現代を生きるななしにとって見るのも酷く惨い事実だ。

それでも、その生き方が誉と言うのであれば、豊久は満足するのだろう。致命傷を負い死の直面でも、最期まで笑って死ぬるのだろう。

「私……。」

そして聞きたかったであろう、嬉しくも悲しい言葉を告げられるのだ。

「こん先も、俺はななしと居たいがの。」

「…………っ!」

「未練も無か。後悔もせん。此処が何処で何だろうと、俺は只突っ走る事しか知らん。」

じゃっどん、豊久は続ける。

「俺が此処に飛ばされた理由、関ヶ原ん退き口から此処に来た意味。そいがアレをやれと言う意味であれば、今度こそしかと命ば捨てがまるまで。」

「………凄い……そんな風に思える豊久さんが凄い……。」

「そうか?」

自分は彼と違う思いだから、何も言えなくなった。一緒にいたいという願いを叶えれば、永遠に元の世界に帰れない。仮に戻れたとしても、願いは永遠に叶わない。結局は、二つの願いをいっぺんに叶える事は不可能であり、どちらか一つを選ばなければいけない日が必然的にやって来るのだ。

当然ななしにも会いたい人が沢山いる、家族や友人、やりたい事も追い掛けている夢もまだ中途半端だ。自分がこの世界に来た理由がサンジェルミ伯の言う通り未来にあるとするならば、それを成し遂げる為に何としても現代に帰るのが必須である。でなければ喚ばれる理由がない。自分が一体何の為に喚ばれたのか分からなくなってしまう。

すれば、目の前にいる男との別れは、さぞや辛いものであろう。加えて目を離せばあっさり死んでしまう彼だ、安堵が訪れる事はこの先ずっとない。

「………私も、貴方と一緒にいたいです。この先もずっと。だけど、このまま家族と永遠に別れるのも……辛い………。」

「……………。」

「同じ時代に生まれていたら、こんな苦しい思いをせずに済んだのでしょうね……。」

「でも、これだけは言わせて下さい。」

濡れた彼の頬に冷たくなった手を滑べらせて、彼の存在を確かめるように緩やかに瞼を閉ざす。

「豊久さんの事が、好きです。例え生きる時代が違っても、私はこうして貴方を慕った事を決して後悔しません。」

「……………ななし。」

長い睫毛がしっとり濡れていく。それが雨によるものなのか涙によるものなのか。

「私の此処に来た理由が、貴方と共に生きる為だったら、良かったのに。」

僅かに見開かれた豊久の瞳に映る彼女の姿ほど健気で美しいものはなかった。長い黒髪に滴る雨は潤すように艷やかに流れていく。

「……そんまま、目ぇ閉じてろ。」

それは、本能によるものなのだろうか。

「…………!」

鎧が擦れる音がしたかと思えばななしの唇に突として感じる温もり、彼の姿が視えないながらも今此処で何が起きているのかがハッキリと分かった。

「ん。」

その接吻は長く続いた。何時まで経っても一向に離れない唇、その間にも彼女の心の中に彼の意志が一気に押し寄せてくるようで。

「と、よ………。」

「………応、此処におる。俺は、此処におるぞ。」

離れた事を確認して瞼をそっと開ければ、それはもう満ち足りた笑みを浮かべているわけで、不意に眩暈に似た恍惚感が訪れた。そんな優しい表情を死ぬまで向けられる事がないと思っていたからこそ、抑え込んでいた涙が溢れかえりそうになる。

「私……っ。」

しかし、その感情も豊久の一言によって収まってしまう訳だが。

「子が欲しいの、お前と俺の子。」

「………え……………こ、子………!?待って、話が唐突過ぎて……!」

真剣な告白後のストレートな言葉は、初なななしにはあまりにも衝撃的すぎた。

思えば戦国時代の子を作る理由の一つに血筋を絶やさない為と誰かが言っていた。そこに愛情があった者もいれば世継ぎの為だけに子を孕ませる者もいた。

豊久にとってそれがどちらを意味するのか。

「ん?確かに俺の血ば後世まで残れば、満足じゃの。」

「ああ、ですよね……。」

結果は言わずもがなである。

「ちくと待てい、話ば最後まで聞けえ。そいだけが目的じゃなかど。」

「……………。」

ぼすっ、頭に置かれた手で大袈裟に撫でられる。

「好いた女子じゃ。戦しか知らん俺が心底好いた女じゃ。じゃっで、産まれたら俺もしっかり面倒見るち、安心して今すぐ子を孕ませい。」

「あ……う……て、照れる……これ以上はホントに勘弁……。」

「のぉ、ななし。」

思えば雨の中でとんでもない話を繰り広げている。周りに誰もいなくてよかった、オルミーヌ達が聞いていたら呆れ果てていただろう。豊久が現代の人間だったら完全にセクハラレベルだが、生憎そういった概念が始まる前の真人間だ。
要は恥など存在しない、それが彼等にとって当たり前である。それ故に真面目な顔で物騒な事を言われると、あまりのベクトルの違いに尽く返答に困る訳で。

「そ、それじゃあ……二人とも別々の世界に帰る時、子供はどうするんですか。どちらか一方に連れて行くんですか……。」

「なんじゃ。簡単な話ぞ。二人作ればよかど。」

「………………。」

トンデモ発言を頂きました。帰ったら両親に何と言えば良いんですか。あの薩人マシーン島津豊久との子供を授かりました源氏バンザイとでも言うんですか。

誰も信じる訳がない!

「……お母さん……豊久さんの血は私が継ぐ事になりました………。」

「おう、そん気になったか。じゃあ帰るか。」

「帰ったら即ですか!?まずお風呂に入らせてください、このままじゃ風邪引いてしまいます………!」

「はぁ、風呂でするんか、変わった奴じゃの。」

「お風呂でするなんて一言も言ってません!そもそもそういう事だって……私、初めてですし……。」

まさか……サンジェルミ伯が言っていた、未来で大業を成し遂げる事柄とは……よもやこの事ではなかろうか。DNA鑑定でれっきとした島津家の血だと分かれば、それはそれで仰天ニュースだが、豊久のDNAがそもそも残っていないのだから、真相を調べようがない。ただ我が子に島津家の血が流れている謎と、父親がバトル オブ セキガハラに参加していた戦国武将というよく分からない謎だけが残る。

「………色んな意味で……ここに居たい気がしてきました。」

雨の中で呟かれた言葉は暫く叶う訳であり、その後は豊久との触れ合いが一層増したとか。その様子を見ていたサンジェルミ伯は「アラ、やっぱりそういう役割でアナタ来たのねぇ」と言われたのはつい最近の事。

……それでも、以前よりか、心が穏やかになった気がする。この世界に来た意味、それが本当に「貴方と共に生きる為」であるならば、もう少しこの世界で生きてみようと思う。いずれ訪れる別れまでの間だけでも、彼との時間を大切にしたい。



(この世界で子作りなんて、さすがは豊久殿ですねぇ)

(豊久さん、加減を知らないので……ここまでがあっという間でした……)

(アイツはバカだからなー、戦バカでもあり……色々バカだからにゃあー……)

(誰がバカかーー!!)