会社から帰ってくるなり彼の目付きは一日を疲労を訴えるように眉間に影を落として顰めていた。玄関に迎えに行った時にそんなげんなりした顔付きを見ていると、今日も嫌な事があったのかな、なんて不安な思いを考えない日はない。
しかも今日は宴会があったのか、いつもと違い頬を僅かに染めて不機嫌極まりない表情を浮かべている。今にも寝てしまいそうで、お風呂だの何だの済ませてほしいという逸る気持ちを抑えつつソファーに招いてゆっくり腰掛けた。
うつらうつらと今にも舟を漕ぎ出そうとしている彼の首筋辺りに触れながら生温い熱の感触を味わっていると、ななしの冷たい手が気に入ったのか、気持ち良さそうにトロンとさせた目を更に細めて色っぽい仕草を見せる。
お酒の匂いが微かに伝わり、こちらまでほろ酔い気分になりそうだ。勿論、色んな意味で。
「気持ちいいですか?」
「はい、貴女の手は冷たいですね。」
「そうですね……私、少し冷え性がありますから。」
「………そうか、だが今はそれが丁度いい。」
上司に従いながら部下を纏める立場であれば、気に入らない事も多々ある。しかしそれが彼にとってどれだけの負荷が掛かっているのか、未だ学生のななしには理解する事が難しい。いずれ自分も将来そういう環境に放り出されたのであれば、今の彼の気持ちを理解してあげる事も可能なのかもしれない。
代われるものなら代わってあげたい、この気持ちに嘘偽りはないが、そういう訳にもいかない、実に歯痒い話である。
「…………何か、言いたそうな顔してますね。」
「…………え、」
「違うんですか。」
「……………。」
うん、彼には何でもお見通しらしい。
「法正さんは、今、辛くないですか。」
「…………………。」
さり気なく問い掛けたのがいけなかった、彼の顔がみるみる険しくなる。
「………ごめんなさい、私なんかが係る事じゃなかっ………。」
お酒の匂いが一段キツくなったかと思えば、目の前にまで迫り寄る法正の身体。
ワイシャツ姿に乱れたネクタイ、緩めた襟から覗かせる鎖骨が何とも艶めかしい……なんて、考えているのも束の間、自分の身体はソファーから緩やかに転げ落ちて柔らかい床と背中が合わさった。
「…………法正、さん?」
「…………何でもお見通しらしいな。」
ななしがさっきまで考えていた気持ちを代弁するかのように、一瞬だけ見せた彼の緩やかな微笑み。ぽってりとした唇が三日月型に弧を描き、何か救われたような、そんな婀娜な表情に心奪われてしまう。
「確かに、最近は上手くいかない事ばかりだ。それから逃避出来るのであれば、今すぐにでもしたい所だが、生憎俺はそれが出来ない性分だ。」
「…………はい。」
「それに、世話になった上司への恩に報いる為、あと少し………あと少しだけ、な。」
そんな切実な思いがひしひしと己の心に伝わってくる。彼の揺るぎない性格を理解しているからこそ、余計に苦しくなるばかりだ。
「………ああ。」
酔っているのに酔っていない素振りを見せ、何処か真剣な眼差しで呟く法正は、組み敷いた状態で黙り続ける彼女を静かに見下ろした。空っぽの指に己の指をゆるりと絡ませて、しっかりと握り締める。
「出来れば貴女はこういう風になって欲しくない。貴女まで社会に出て行ってしまったら、俺が帰ってきた時に………。」
「…………………。」
大学を卒業したら、とりあえず安定した所に就職して、それなりとこの家に収入を入れればいい、そうすれば彼に掛かる負荷も少なくなると考えていたのだが。
それを覆すような甘え台詞に上手く言葉が出てこない。取り敢えず短い一言だけ頷いて何とか会話を成り立たせようとするが、歯止めが利かなくなった様に彼の口から次々と言葉が繰り出されていく。
「……帰った時にもう独りじゃない、そういう生活に慣れてしまいましたから。」
「…………はい。」
「こうして抱きたいと思えるのは、ななしが魅力的な女性だからです。」
「…………はい。」
「好きですよ、ななしが嫌と言っても死ぬまで離すつもりはない。」
「…………はい。」
「大学卒業したら俺と、結婚してくれ。」
「…………はい?」
今のは空耳、なワケがない。耳元で心地良く囁かれた声色は、しっかりと脳髄にまで届いている。
「え、あ。」
「ああ、聞こえませんでしたか。」
「………聞こえ、ました、けど。」
「結婚して、俺の帰りを待っていてくれないか。」
「…………っ…………。」
そんな悲しそうな眼差しで言われたら、
「法正さん、」
絡められた指を優しく解き、紅潮する頬に手を添えて慈しむように撫ぜる。
「私は、笑っている貴方が一番好き。だから、そんな顔をしないでください。」
「…………………。」
「………私で良ければ、生涯貴方を支える存在になりたいです。ですから……。」
紡ぐ前に塞がれた唇、触れる度に熱くて、息する事も忘れる程の甘ったるい口付けが注がれる。時々噛み付くような勢いに抵抗する事も出来ないまま、潤んでいるようにも見えないくない彼の瞳を見続けた。
「ん、ふ…………。」
「…………ななし。」
およそ三センチ程度の銀糸がプツリと音もなく途切れ、口内はすっかり酒の香りに侵された。こちらまで酔ってしまいそうなキスに、心臓は鼓動を打ち続け一向に鳴り止まない様子。
「………ふ………どうすれば、いいんでしょうね、この想い。」
「…………?」
いつになく余裕のない笑みに、どうにも不安の色が隠せない。言い出す事が出来ずに恐る恐る様子を伺えば、法正はネクタイを解いてボタンを外し始めた。
「………………受け入れて、くれませんか。」
その言葉にななしは心中を察し、彼の首に両腕を回した。
「……………っ、あ。」
暗いリビングに木霊する甘い喘ぎ。たくし上げられた衣服はすっかり乱れて、下着も無造作に床へと投げ捨てられている。
「………っは、……唆りますよ、十分。」
ぐちゅり、と生々しい音が暗闇で聞こえる度に、ななしの顔は激しく朱色に染まる。開いた太腿からぬめり落ちる液体は留まることを知らず、腰が揺れ動く毎に蜜壺から溢れ出て混じり合っていく。
「法正さ、あ、あ……っ…汚れ、ちゃ……!」
「洗えば、いい………まぁ、それでも、シャツやズボンについた貴女の香りや体液、その痕は拭えませんけどね。」
「…………っ………!」
「想像しただけで、興奮するでしょう?それを俺が会社に着ていくって考えるだけで、ねぇ。」
すっかり汚れて濡れたスーツズボンを見て、法正は喉を鳴らして薄っすら笑みを浮かべる。
「ななしが家庭に入ったら、俺だけの貴女になる………嬉しいですよ、普通に。」
だって、他の男に見せなくていいんですから。酔いもだいぶ醒めて、呂律もまともになってきた法正は髪を掻き上げて赫い舌を突き出しては左右に動かした。
絡めろ。そういう仕草なのだ。
「…………。」
ちろりと控えめに舌を出して法正の舌先に触れる。しかし相手は動かないまま、ななしの行動に全てを委ね、どう出るかを伺う視線だけを寄越した。瞬きをする度に長い睫毛が震え、全身の血の巡りが煮え滾るように駆けていく。
「ん、」
このまま動かないのも一種の拷問だと思い、法正の唇を割るように捩じ込ませ、拙いながらも舌を絡めとっていく。ぬるぬると潤滑性のある唾液は交わり、口端から静かに伝い落ちた。
「………ふ、………う。」
奥へ奥へと入れれば、それを誘うように舌を退いて口内へと招き入れる法正。そうしていつしか追う内に互いの唇も合わさり、彼女の舌はすっかり彼の口内の奥底まで支配しきっていた。
ざらりと独特の舌触りを味わい、ぞわりと性感帯を覚える様に震える背筋。誰もが羨む様な整った顔がすぐ目の前にあり、そんな彼と自分と肌を重ねていると考えるだけで、気がどうにかしてしまいそうだった。
とはいえ彼を単に格好良いや色男なんていう言葉では纏められない、上手く言葉では言い表せぬ燃え上がるような深愛感情。
ましてや結婚、そう、結婚。女なら誰だって憧れる人生においての一大イベント。しかも好きで好きで堪らない人との結び。幸せすぎて死んでしまいそう、大袈裟な台詞ばかりが脳裏に浮かんで、腰が無意識に求めんばかりに動いてしまう訳で。
それを知ってか知らぬか、法正もまた腰を引き寄せては背骨をなぞる様に指を滑らせた。
しかし、息も吸うのも困難になり、何とか鼻呼吸を繰り返すものの、避けられぬ息苦しさに次第に喘ぎも漏れ始める。
それでも法正は嬉しそうだった。それは目を見てすぐに分かる程。
「んぅ…………!」
刹那、遂に彼は動き始めた。今まで我慢していた事を一気に吐き出すように。誘っていた舌を今度は攻めへと転換し、一斉に押し寄せる舌遣い。逃げようにも後頭部はしっかりと固定され、胸板を叩こうにも手に力がちっとも入らない。
シャツを握り締める事で精一杯なななしは、なすがまま、彼の気が済むまで口内を犯され続けた。
「は、あ………ぁ………。」
「今、何か考えていただろ。」
「………何、って………。」
「随分と嬉しそうな顔している。」
「………っ…………だって………あぁっ。」
答えを口にする前に熱り立った肉棒がそれを拒む様に沈み込む。濡れそぼつ壺はすんなりと受け入れて、先程と同じ様に透明液はじゅぶりと淫靡な音を立てて子宮口に口付けした。
「ひ、う…………。」
「………そんなに締め付けたら、あっという間に吐いてしまいますよ。」
「それ、は……っ、法正さ、が……んっ。」
ひくつく結合部の縁をなぞりながら、法正は妖しい笑いをこぼす。
「子供、何人産みたい?」
「え、あ…………っ。」
「俺は、男でも女でも、貴女に似た子が産まれたら、尚嬉しいですね。悪党に似たらそれはそれで、色々と面倒ですし。」
「ん、……………!」
「ななし。」
腰に手を添えて、彼は幸せそうに笑う。
「愛してますよ。」
いつも聞いている当たり前の言葉が、今では美しく聞こえた。
「ん………。」
目が覚めると、暖かいベッドの上。あれから寝室に移って続きをしていた事を思い出す。虚ろながら隣を見れば、先程まで寝ていたであろう彼の痕跡が残っていた。
「起きたか。」
その声に振り向けば、鏡の前で優雅にネクタイを結ぶ法正。
「おはよう、ございます。」
「今日、学校行くのか。」
「………えっと。」
起きようと腰に力を入れるが、どうにもバランスが取れない。
「…………休めばいい、どうせやる事は全て終わっているのだろう。」
「………はい。」
「………さて、俺は今日も会社に行くとしますか。」
「あ、」
ななしは動けない代わりにこちらに来るよう必死に手招きする。
「ネクタイが。」
僅かに曲がったネクタイを整えて、納得したななしは頬を緩めた。
「すっかり奥さんですねえ。」
「………………!」
してやったり顔、どうやらこれを目当てに態とネクタイを崩していたらしい。
「もう………!」
「怒ると響きますよ、散々砕いたその腰が、ね。」
ひらりと手を振って、悪戯に笑った彼の姿を目に焼き付けたは午前七時。
(そうだ、今日婚姻届持ち帰りますので)
(え、あ、卒業まだですよ!?)