俯く顔を上げさせて

パソコンと向き合ってはて、一体何時間が経過したのだろう。ふと耳をすませると、先程まで賑わっていた声が消えて、気が付けば周りの社員はいなくなって閑散としていた。

ああ、残業は遂に私だけになったしまった。と、考えていた矢先、

「お疲れ様です、ななし。」

と、上司である法正が何の前触れも無く目の前に座っていた。

「…………っ、ビックリしました、誰もいないと思ってましたので。」

「いや、貴女が懸命にパソコンと向き合っているものですから、声を掛けるタイミングを見計らっていたんですよ。」

良かった、このまま忘れられていたらどうしようかと思いましたよ。そういってコーヒーを差し出す法正は、面白可笑しく笑みをこぼしていた。

「貴女のような働き者、俺は好きですね。」

「………またまた、そう言って結構引く手あまたですよね。」

「そう見えますか?」

「はい、女性社員の間では理想の彼氏としてダントツ上位に上がってますから。」

喋りながらも淡々とペンを走らせ、キーボードを打ち続けた。終わりの見えない作業に身体もいい加減休養を求めるが、ここで手を休ませればそれまでだと自分を叱咤し続ける。

「なるほど、知りませんでした。」

「…………はい……。」

「そうだ、ななし。」

これが終わったら、一緒に食事でも如何ですか。

「…………え?」

突然の誘いにペンが止まる。

「ああ……聞こえませんでしたか?」

「………いえ、その、いきなりだったもので、つい。」

「勿論、俺が奢りますよ。」

「……その代わり、近い内に別の形で恩を返して下さい、って言いませんよね……。」

「さぁ………どうでしょうかねえ……。」

戯けてみせるその仕草が逐一視界の端に入り込み、どうにも作業に集中しづらい。ましてや彼を気になる異性として意識している為か、二人だけという空間が余計に息苦しいわけで。

「あの………法正さんは、もう仕事の方は………。」

「俺ですか?とっくに片付いてますが。」

あっけらかん、言わば余裕の表情。

「………では、残る必要は………。」

「もしかして、俺と二人きりでいるのが嫌だったりします?」

「ち、違います………!ただ、いつ終わるともしれない残業に貴方を付き合わせるのが心苦しいと言いますか……。」

法正はポケットからライターとタバコを取り出すと、口に咥えて火を足した。

「思いやりは感心しますね。ですが、俺は、好きでここにいるんですよ。」

まぁ、退屈だからというのもありますが。

「………………。」

「そう邪険にせずとも、取って食ったりしません。」

いよいよ書類の文字が暗号のように見えてきて頭に入ってこなくなってきた。今感じるのは煙草の匂いと彼の僅かに香る香水。そのどれもが良い意味で妨害行為を繰り返している。

ああ、困った。これでは一向に終わる気配はない。

「………………。」

「手伝いましょうか。」

「大丈夫、です。もう少しですので。」

「ご冗談を。俺が来てからココの件がちっとも進んでいない。」

ふぅ、と一息。煙を天井に向かって吐き捨てると、残った煙草を灰皿に押し付けた。

「貸してみろ。」

そう言うなり答えを聞かずに書類を引ったくったと思えば、隣にあったパソコンを起動して直ぐ様キーボードを打ち始めた。

「あ………。」

慣れた手つきで真剣にタイピングする彼の横顔からどうにも目が離せなくて、思わず心臓の鼓動が速まり大きくなる。

………皆が惚れる理由がよく分かるかもしれない。厳しい所もあるけど、きっと、皆にもこうして優しい所があったりするのだろう。

自分の中での気になる異性が、いつしか別物に変わっていた。……いや、とっくに変わっていて、たった今、気付く事が出来たのかもしれない。

「……………残ったそれもやってやる。」

「あ、はい………。」

ななしがするより一段と早く、法正の作業は滞りなく捗り進んでいく。そうしてあれよあれよと言う間に書類は整頓され、気が付けば最後の一枚に差し掛かっていた。

「……………これで、終わり………。」

カタン、キーボードのEnterを押して、ようやく全ての仕事は片付いた。

「はぁ………良かった………これで帰れます………。」

打ち終えたキーボードをぼんやりと眺め、眠さにうとうとしていると、

「ななし。」

と、心地良い声が聞こえたので、

「はい……?」

と、俯いていた顔を上げれば、そこには彼の顔が間近にあって。

「…………っ……!」

何を言うでもなく、味わったのは熱く柔い唇の感触のみ。

「……んっ。」

顎を持ち上げられ、一層深くなるキス。慌てて離れようと力を入れるが、疲労している所為か思うように手足に力が入って来ない。どうする事も叶わず侵入してくる舌にひたすら口内を堪能し尽くされ、漸く離れた時には既に腰は砕けきっていた。二人を繋ぐ銀糸は未だ繋がったまま、数ミリの距離で互いの息を吐き合っていた。

「法正、さん………。」

「…………貴女だから、こうして一緒にいるんですよ。まだ、気付きません………?」

潤む瞳は彼の鋭い瞳とぶつかり合い、逸らす事を決して許さない。投げ掛けられる問いに答える事が出来ず、法正のシャツに思い切りしがみついて皺を作った。

「……………退屈だから、それはあくまで側にいる為の口実。そして事実、貴女の事が好きなんですよ、ななし。」

「……………っ……………。」

「それとも、社内恋愛はお望みではなく?」

「……私、は………。」

「嫌なら嫌と、はっきりお答え頂きたい。」

そう言う割には嫌と言って欲しくない顔をしている。いつもの余裕な笑みはどこへ行ったのやら。

ななしは濡れた唇を微かに開いた。

「い、嫌………。」

その瞬間に見せる悲しそうな目色。

「な訳、ないじゃないですか……。」

反面、口元を綻ばせて、ふにゃりと笑みを見せるななし。

「………ななし、」

「好きです………私も、法正さんの事が、好き………。」

「…………俺をおちょくるとは、いい度胸ですね。」

「おちょくってなんかいません……!でも、今の顔、ちょっと面白かったかも。」

プッと思い出し笑いに頬を膨らませれば、法正はさぞ気に入らなかったのか

「ななし、今ここで犯してやろうか。」

「きゃあ!セクハラ反対です!」

不機嫌極まりない顔付きで迫る姿は正に逆鱗に触れたらしく、この後も暫く会社から出ないで言い争っていた二人であった。




(ああ!帰りの電車が!)

(やれやれ………)