事故で

「すみませんが、代わりにこれを戻して頂けないでしょうか。」

執務に忙しい孔明は、困り顔ながら彼女に古い書物を見せる。

「あ、はい、大丈夫ですよ。いつもお疲れ様です。」

ななしは笑顔でそれを受け取ると、安心したように同じく頬を緩める孔明。

「申し訳ありません、貴女もさぞ忙しいでしょう。」

「いえ!丁度手が空いていた所なので、お安い御用です。」

軽く頭を下げてその部屋を後にすると、まじまじとその書物の外見を見つめた。

「…………凄い使った感がある………それだけ重要な本なのかな。」

壊さないように戻さないと。そっと草臥れた表紙を撫でると、書物だけを集めた部屋に入る。

「…………えっと、この辺かな………。」

光がない薄暗い部屋では足元が覚束ない。下にも容赦なく置いてある書物を蹴らないように恐る恐る歩みを進めていくと不意に、がたん、と物騒な物音が鳴り響いた。

「……………(誰か、いる?)」

足を止めて耳を済ませると、その物音は大きくなる一方で、見えぬ恐怖をあっという間に植え付けた。

(来る………!)

そう思った矢先、顔辺りに仄明るい火が照らされる。

「…………ななし、殿?」

「…………趙雲、様?」

そこには見慣れた顔があって、ほっと安堵の色を浮かべるななし。

「わぁ、吃驚した………誰もいないと思ってましたから。」

「す、すまない……少し探し物をしていて………ななし殿も何かを?」

「あ、いえ、孔明様にこの本を戻すように頼まれまして。」

書物を見せると趙雲は、ああ、と納得するように頷いて明るい表情を見せた。

「これはなかなか良い書物で、私もよく読んでいたな。」

「そうなんですか、だからこんなに頁の捲った跡が……。」

ぱらり、ぱらり、捲る度に所々切れ目が刻まれている。興味本位で中身を適当に開いて読んでみるが、どうにも理解するのが難しく、文字の上をただ目が滑っていくばかりだ。眉間に影を落とす彼女の姿を見るなり趙雲は、くすりと笑って

「ああ、確かにこれは、貴女には難しい内容かもしれない。」

指で掠れた文字をなぞって、同じように目を流した。戦の兵法について延々と述べられ、専門用語がびっしりながら飛び交っている。

「はい……こういった戦の事は、まるでちんぷんかんぷんです。」

「………いや、むしろ知らない方が……。」

「……………?」

小さく呟かれた声を聞き取れなかったななしは、首を傾げて趙雲の瞳を見つめるが、

「いえ、何でもありません。」

さて、私も書物を探さなければ。そう言うなり趙雲は端から隙間なく陳列された書物を探し始める。

「あ、あの、もしよければ、私もお探しします!」

「そんな、貴女に迷惑はかけられない。」

「迷惑だなんて。今までずっと一人でお探しになっていたんでしょう、でしたら、二人で手分けして探した方が効率が良いかと。」

「しかし……。」

「趙雲様。」

俄然やる気を見せる彼女に根負けした趙雲は、よろしく頼みます、と、はにかんで頬を僅かに紅く染めた。











「ううん………趙雲様の探している書物に近い物は結構見つかるのですが……。」

膨大な棚と本に圧倒されながらも、一つ一つ丁寧に定めていく。彼から聞かされた例の書物は、どうやら小さく薄い、見つけ辛い代物らしい。どうりで時間が掛かるわけだ、これでは日が暮れてしまう。

いやはや、一人が二人になったから比較的好調に事が進むかと思いきや、それでも尚難航する捜索作業。趙雲の顔色もいよいよ疲労が見えてきて、ななしも焦りの色が見え始める。

「そうですね………早く見つけなければ。」

ふと、一息ついて上を向いたその時、ななしが徐に口を開けた。

「あ、もしかして、これ………!」

近くにあった木箱を足場にして、自分の背より高い場所に置かれた書物に手を伸ばした。が、一歩及ばず、指先に触れるか触れないかの距離で掴む事が出来ない。

「うう………もう少し………!」

爪先を限界まで上げて、端っこを摘み上げたその時、

「…………っ、あ、」

木箱が不安定に揺れ動き、そのまま足元を滑らせてしまう。

(落ちる!)

己の身体がくるりと反転し真後ろを捉えた瞬間、何とも奇跡に近いような、その時が奇しくも訪れてしまう。

「危ない!」

事態に気付いた趙雲が足早に駆け寄り彼女を支えようと己の身体を張るが、咄嗟の勢いに耐え切れず、そのまま二人共倒れこむ形となってしまった。

「…………………。」

「…………………。」

無言、沈黙、静寂、ただひたすら流れる不言。瞬きもする事ならぬ、予期せぬ事態に二人はただ目を見張るばかりである。

のしかかった彼女身体も、下敷きになった彼の身体も、外傷は何一つ見当たらない。

では何がそうさせるか。床にぶつかった衝撃に多少の痛みを感じていても、それらを忘れてしまう程の、何か。

「も、申し訳ありません……っ……!」

そういって先に口走ったのはななしだった。唇を抑えながら、顔を真っ赤にして、狼狽の色を激しく表す。

……起きた出来事を頭の中で巻き戻してみた。倒れゆく身体、焦る心、振り返れば彼の姿、そしてそのまま倒れていき、床に着地した衝撃の後、その余韻で偶然にも合わさってしまった唇。

互いの、唇が。それは事故とはいえ、確かに、接吻、だった。

「い、いや………こちら、こそ、申し訳ない!私がいながら、このような………!」

同じく顔色を赤くしたり青くしたり、何が起こったのか頭の中で整理がつかない趙雲は、申し訳無さそうに口元を隠して耳まで赤くする。

「えっと、助けて頂き、ありがとうございました。その………今のは、どうか………。」

「…………ななし殿。」

控えめ程度に小さく名を呟かれ、逸らしていた視線をそっと寄越す。

「はい、え、あ………?」

「…………少しだけ、許してくれないだろうか………。」

ふわり、と、優しく包み込まれる全身。

「ち、趙雲様!?」

「…………………嫌、では、ありませんでした。それは、貴女だったから。」

「………………。」

「いや、私は一体何を言っているのだろうか……今の言葉、忘れて頂きたい。」

そう言うとすぐに離れる互いの身体。何処か悲しそうな顔を見せる姿に居た堪れなくなったななしは、今度は自分から彼に抱き着いた。

「………っ、」

「私は………ずっと前から、お慕いしておりました………ですから、その………もし今の言葉が本当であれば……。」

「………ななし殿。」

どうか顔を上げて欲しい。言われた通りに見上げれば、いつになく穏やかなその凛々しい微笑み。指先で優しく彼女の頬に触れると、触れるか触れないかの優しい口付けを与えた。

まさか、彼から告白を聞く事が出来るとは。どう考えても夢みたいで、頭が未だにふわふわする。

「…………共に探してくれた事、心より感謝します。」

一緒に落ちた書物を手に取ると、趙雲は彼女の手を取って共に立ち上がる。衣類に付着した埃をある程度払うと、軽く咳払いをして向き合った。

「私にとって、ななし殿は心より守りたい存在。出来ればこの先も戦を知ってほしくはない。」

だから、あの本の中身を知る必要はないと、そう言った。

「次こそは、この身を賭して、貴女をお守りします。」

優しい笑顔を見せる趙雲に、ななしもまた心沸き立つような想いを迸らせた。











「戻しておきました、孔明様。」

「感謝します、ななし殿………おや、随分と嬉しそうな笑みを浮かべて……どうしましたか。」

「え……私、そんな嬉しそうな顔していますか……?」

「………ええ………私から見たら、何か良い事があったように思えます。」

筆を置くと、手元にあった羽扇をゆるりと仰ぎ、庭先を静かに見据える孔明。

「…………もしかすると、もしかします。」

「なるほど。と、すれば、これも策の内ですね。」

「そうだったんですか……!」

「ええ、勿論。」

いや、勿論、それは冗談だが。孔明は淹れたての茶を啜りながら幸福に満ち溢れた彼女の笑みを暖かく見守っていた。




(本当はあの書物を戻す必要はなかったのですが、偶然あの部屋にいましたので、折角の機会を利用させてもらいました)

(それによって、趙雲殿も、ようやく想いを告げることができたのですね)