生まれてからこの時まで、私の頭の中に恋愛という文字は浮かび上がってこなかった。仕事ばかりに目を向けて、気が付けば20代後半に差し迫り、同僚は皆々結婚して仕事を辞めていく。そんな幸せそうな姿を幾度も見送ってきたわけなのだが。
「やはり貴女はからかいがいがありますよ。」
ここで笑う自称【悪党】が、私にとある感情を呼び起こしたのだ。今までに感じたことのなかった胸の痛みと息遣いの乱れ。
「私は………彼にーーをしてしまったのですか………。」
仕事に手がつかない位に頭は彼の事ばかり。デスクにある資料は溜まりに溜まって悲惨な状況だ。ペンを走らせる指もすかり鈍ってしまい、酷く頭を悩ませた。
「おや、貴女という真面目人間が怠りとは……。」
「ほ、法正さん!」
ガタン、と勢い良くデスクに脚をぶつけ、あまりの痛みに涙を滲ませる。当の本人は大丈夫かと顔を覗かせる仕草を見せるが、それはあまりにも逆効果というわけで。
「何でもありません…少し風邪気味でして。」
「ほう、それは大変ですね。俺も手伝いましょうか。」
緩められたネクタイとシャツから覗かせる浅黒い肌と鎖骨。これは目のやり場に困る。
「だ、大丈夫です!これくらい一人で片付けられます……。」
あまり感情を顕にしないように冷静な返答を試みるが、どうにも滑舌が悪くなり言葉が吃る。
「まぁそう邪険にせずとも、貴女の営業成績まで持って行きはしませんよ。」
「そんな事は気にしていません……本当に、大丈夫ですから……。」
今からでも遅くはない。遅れた仕事を取り戻さなければ。ななしは立ち上がると散らかった書類を束ねて手に抱えた。
「失礼します。」
頭を下げてその場を立ち去る。出来るだけ目を見ないように、何も悟られないように。
その場に残された法正は面白可笑しくくつりと喉を鳴らし
「………やっぱり、教えてあげたいですねぇ。」
緩めていたネクタイを締めて踵を返した。
書類を抱えて足早に食堂に向かうななし、サンドイッチセットを頼んでどっかり椅子に座り、無我夢中に口の中へと放り入れる。
「………………。」
「ねぇ、凄く険しい顔してるけど、大丈夫?」
同僚……もとい友人は心配そうに顔を覗きこむが、これといって特に心臓に悪い影響を及ぼさない。というと、やはり彼にだけ反応する面倒くさくも厄介なものなのか。
「大丈夫………じゃないけど、敢えて大丈夫を貫く………。」
「いやいや、もうそれ重症化してるって。ほら、何があったか言ってご覧。」
手を差し伸べるように彼女は優しく笑う。それに甘える理由が男絡みとなると、果たして彼女はからかうだろうか。
「仕事の事?」
「…………ううん。」
「じゃあ、最近変わった事とか。」
「……ある男の人を意識するようになってきた。」
「ふむふむ、それで?」
「今までに感じたことの無いような胸の苦しみが私を襲っている。」
「………ふむふむ、それで。」
「不思議と……切ない気分になったりする。」
「うん、それは確実に恋をしちゃったんだね。ああー、遂に恋愛に初初心なななしにも春が来たんだ、良かったじゃない。」
パチンと手を合わせて喜ぶ友人。
「で、それはここの会社の人かしら。」
「貴女も良くご存知のお方です。」
「そうねぇ……なら、まず徐庶さんは無いかな、ななしがときめくような完璧な男じゃないし。」
「それ、徐庶さんに失礼です。」
「ああ、ごめんごめん。……で、趙雲さんは既に彼女持ちだから無し……諸葛亮さんはご覧の通りだから論外。…………法正さんはー…………。」
法正という言葉に冷や汗が流れに流れ、やたらと目があちこちに泳ぐ。それを知ってか知らぬか、何度か瞬きを繰り返すと彼女も黙り込んでしまった。
「……………………。」
「………………あー、やっぱりそんな感じしていたわ。ななし、隠すの下手だよね。法正さんって言っただけでこの通り耳が真っ赤だもの。」
咄嗟に耳を隠すが既に遅し、彼女はけらけら笑って
「……ふふ、これは最高のカップルが生まれそうね……。」
「今、なんて言った?」
「ううん、何でもないわ。頑張って、きっと彼なら幸せにしてくれるから。」
「なっ、まだ付き合ってもいないのに……っ!」
それじゃ、と彼女は嬉しそうに手を振ると空になった皿を持って立ち上がる。取り残されたななしは可笑しな想像に頭を巡らせて、更に耳を赤くした。
「…………無理……生まれてこの方男に無縁の私が、恋愛なんて………。」
いっそ退社したい、なんて愚かしい考えがふと頭を過る。父さん母さんごめんなさい、そんな親不孝な愚考を打ち消すようにななしは最後の一口を放り込んで噛み締めた。
「ああ………やっと家に帰れる………。」
なんとか残業を終え、スッキリしたデスクから離れる事を許された。気が付けば周りは誰もいなくなっており、不意に安堵の溜息が漏れる。今日は運良く金曜日、明日は貴重な休みだしどこに行こうか。そんな呑気な事を考えながら必要な書類を鞄の中に入れて、ゆるゆる立ち上がったその時。
「どうも。」
元凶となる者がそこに現れてしまう。いきなりの事にななし、激しく動揺を隠せない。
「ほ、法正さんも残業ですか?お疲れ様です。」
不自然でぎくしゃくとした笑みを返し、すかさず横を過ぎ去ろうとするが、
「まぁ……そう焦らずとも、貴女に何かしたりはしませんよ。」
今はね、と邪悪な笑みを浮かべて法正は彼女の手首を掴む。すると掴まれた箇所に熱が凝縮するように集まり、一気に顔まで上昇するとななしは慌てて振り払おうと腕を動かした。
「だ、だめっ、やめてくださ…っ!」
「………はぁ、俺、貴女に嫌われるような事仕出かしましたか。」
「そういう訳じゃないです……!ただ、男の人に触れられる事が慣れてないと言いますか……その…。」
「徐庶に肩を叩かれても平然と笑っていたのにか?」
「う……それは。」
「ああ、悪党という名は時に不利な方向に持っていきますねぇ……とはいえ、全力で拒否をされるとさすがの俺でも心が痛みますよ。」
「…………すみません。」
さすがに申し訳なく思い、ななしは眉を下げて深々と頭を垂れた。不意に伏せた視界に入るは彼の腰辺り、しかし目先の両の腕が動いたかと思えば
「………………!」
「さて、どう責任取ってくれますか……。」
ドン、と手をつく法正。気が付けば背後には壁があり、逃げ場を失い完全に阻まれてしまったという最も危険な状況。
床に落ちた鞄を拾う事も出来ず、ただ眼前にある凛々しい顔と床を交互に見上げるばかり。
「法正、さん…………これ以上は、私……。」
「これ以上は……どうなるんです?」
女を一発で落とせそうな低音ボイスと色気を含んだふっくらな唇、何でもお見通しのような鋭い眼差し。そんな人間離れした美形にあろう事か壁ドンを食らい窮地に追いやられたななし。心臓の鼓動はイカれてしまう程に大きく激しく波打っている。
「し、死ぬ……死にます………!」
「ほう、それは困ったな……死なれては困るんですが。」
「な、なら、距離を……取って頂き、たい……です……。」
「ああ、それは無理な相談ですね。なにせ、俺は貴女を無性に抱きたくて仕方ないのですから。」
「ーーーーーー。」
ここは社内、誰もいないとはいえ、抱き合う場所ではない。
違う、そうではなくて、彼は何と言った。無性に抱きたいと言ったのか。つまりそれは誰でもいいから抱きたいという意味で捉えた方が正確なのだろうか。
「遊びなら………即刻平手打ちします………上司にも言いますから!」
「まさか、俺はいつだって本気ですよ。恋愛経験ゼロという貴女に少しでも意識してもらう為、何度も柔く接触を図ったんですから。」
「し、知っていたんですか!私が、恋愛経験ゼロという事を……。」
「ええ、風の便りでね。よくもまぁ……色んな便りを持って来る愉快な風でしたよ。」
そう言われて何もかもが合致した。昼時に見た友人のやけに嬉しそうな表情、まさかそれがこれを意味する事だったとは。
「……………………。」
「懸命に仕事ばかりに目を向けて、幸せになる人を幾度も見送って、そんな虚しい人生で貴女は本当にいいんですか。」
「………私だって、皆のように恋愛したかったです……。だけど、いざ告白して嫌われたら、きっと立ち直れないし、いっそ仕事一筋に生きていた方が楽だと思って……。よく言うじゃないですか、仕事が恋人だって……つまり、それなんです。」
「………恋をしたい、という思いは嘘じゃないんですね。」
「…………今だって、こうして意識している人に目の前まで来られたら心臓が張り裂けそうですよ。……きっと、徐庶さんは単なる友人だから、そんな大した反応しなかったんだと思います……。」
胸が炙られるような焦燥感、こうして半ばやけくそに暴露したはいいものの、この先が非常に怖い。細くなる目付きに、みるみる肩が縮こまる。
「つまり、貴女は、俺が好きなんですよね。」
「……………っ…………。」
「そうだと言ってくれると……嬉しいんだが、な。」
大きい右手が火照る頬に触れるとゆっくり首元へと滑らせ、ゴツゴツと骨ばった指は鎖骨辺りを軽くなぞって擽る。
「法正、さん……………。」
「どうしても言えぬというのなら、俺から先に言おうか。」
貴女が堪らなく好きだ。その言葉を合図に無防備にも呆けていた唇は呆気無く奪われる。先の様に抵抗をしようと全身に力を奮ってみるが、だらんと無気力に等しい物になってしまい、彼のなすがまま貪られてしまう。
「んっ………んんっ……!」
ちゅっ、角度を変える毎に鳴らされるリップ音がやけに艶めかしく、背中がぞくぞくしてくる。
「っは………どうしたんです、先の様な威勢が全くないですね………もしかして腰、抜けてしまいましたか。」
後頭部及び腰辺りをガッチリ押さえられ、雨のように降り注ぐキス。ななしは無意識に法正の身体に凭れ掛かると、彼は格別なる満足感を得たのか、片側の口角を吊り上げて喜色の表情を見せた。
「社内恋愛も悪くないですよ……?どうせなら、結婚して晴れやかに寿退社でもすればいい。」
満ち足りたような笑みをこぼしながら、紅色の舌先で唇を濡らした。
「結婚……!?本気で……言ってるん、ですか……。」
「言ったでしょう、本気だと。仕事よりも俺に夢中になって欲しいですね……もっと。」
仕事が手につかない程に意識しているのであれば尚更。法正はななしの服のボタンを幾つか外し、胸の上辺りに一輪の紅い花を咲かせた。
「さて………そろそろ俺に言う事、ありますよね。」
今まで誰にも言えなかった分、たっぷりと俺が聞きますよ。この後恥ずかしそうに囁かれる答えを聞くやいなや、法正は本日何度目かの笑みを浮かべてななしに優しく口付けをした。
(ななし!!結婚するって本当なの!?そんでもって会社も辞めるの!?)
(えっ、ちょっと待って、法正さん言うの早すぎですって……!!)
(スピード婚にも限度があるわよ……恐るべし悪党……)
お礼文