「あ………。」
と、ななしが声を掛けようとしたその時だ。彼は他の女性とあちら側へ行ってしまった。
「うーん……折角手合わせをしてもらおうと思ったのに。……っていうのは、誤魔化す為の良い都合だね。」
こうして思い悩むななしは対象である徐庶に恋をしているのだ。彼とは鍛錬仲間で、時間がある時に手合わせをしてもらっている。しかしそうして幾度も刃を交じり合いながらやがて芽生えた憧れと、それに勝ってしまっている強い恋心に苦悩し、武将として尊敬しつつも、男として意識をする、ななしはその狭間で揺れていた。
「今日も駄目……と。仕方ない、気晴らし目的の手合わせ……他の人にしてもらおう。」
最初は単なる手合わせのつもりだったのに、今ではそうと思えなくなる位実に面倒事で、日常にまで支障が生じていた。声を掛けられるだけで勢い良く身体が跳ねるような緊張っぷり、何気ない鍛錬も手が滑ったり集中が途切れたり、兎にも角にもお手上げ状態だ。
「ああー、どうしてこんな事になっちゃったのかな!」
側にあった薙刀を振り翳して舞う木の葉を切ろうと試みたが、それも見事に空振りに終わり虚しく地面に落ちる。
「叶うわけないのに………。」
長い髪を束ねてななしは大きな溜息を吐いた。
その後、手が空いていた趙雲に手合わせをしてもらい、いい汗をかいた所で水浴び。透き通るような水を頭から盛大に被り、煮えたぎるような頭を冷やす。
「は………やっぱり、こうでなくちゃ。」
武芸に励むこそ今の生き甲斐というもの、例え女であろうと舐められたら容赦はしない。恋なんぞに現を抜かすようではまだ未熟な証拠、そんな余計な雑念を吹っ切るようにななしは再び水を被る。
しかし、そんな気持ちもあっという間に打ち砕いてしまうのがまたしてもこの男。
「ななし……!そんなに冷たい水を被ったら風邪をひいてしまうよ。」
「ひゃ!」
唐突に後ろから声を掛けられて、お化けのように垂れ下がっていた髪のまま振り向いてしまう。そんな姿を見るやいなや固まって動かなくなる徐庶、しまった、とななしは慌てて向き直った。
「な、なななんですかいきなり……!」
「あ、いや、その……驚かせるつもりはなかったんだ!……ただ、何度も大量の水をかけるから……見ていられなくて……。」
自分では感じていなかったが、相当の数をぶっかけていたのか。今更になって熱くなっていた身体もすっかり氷の様に寒くなり全身が震えだす。
「ほら、唇も真っ青だ。今、暖かいものを……。」
「け、結構です……!それくらい自分で………っ!」
冷えた手に温かいぬくもりを感じると目線を下に落とした時、それは紛れもなく徐庶自身の大きな手。
「何を…!?」
「放っておける訳ないじゃないか、ほら、おいで。」
存外強い力で引かれてそのまま徐庶の部屋へと連れて行かれる。ぽたぽた落ちる雫に目もくれず、ひたむきに拭く物を漁り出した。
「あった、これを。」
布を頭に被せられ、わしゃわしゃと髪を乾かされる。まるで水浸しになった犬のようで、仕方なく正座をしたまま終わるのを待ち続けた。ある程度乾くと絡まった髪を梳くように長い指を通して整える。その度に触れる爪先がななしの緊張度を一層高まらせた。
「………徐庶、さん。もう大丈夫ですよ。」
「………うなじ、傷が……。」
「あ、それは昔に受けた傷です。大した事ではなかったんですが、施しが甘かった所為か薄っすら残ってしまいました。」
「…………。」
「女とて武将、傷が絶えないのは当然です。むしろ誇りに思わな……。」
指でなぞられてびくっと身体が反応する。
「んっ……徐庶さん、何を…。」
「健気な少女を戦場に出すこの世を、俺は呪うよ……。」
まさか、彼がそんな事を。
「な、何言ってるんですか。私に残された選択肢はこれしかないんですから。だからこうして愛だの恋だのとうつつを抜かしている暇なんて………。」
「え、恋……?」
と、自分から口を滑らせてどうするんだ!ななしは咄嗟に口を結んで目線を落とした。
「……………ななし………もしかして………。」
「い、今のは………そう、喩え話です!私が恋なんてするような女に見えますか。見えませんよね?では、私は鍛錬の続きがありますので、失礼します。このお礼は後日。」
もはや、自分でも何を言っているのか皆目理解出来ないが、この場を抜けださなければ暴発した熱が一気に噴き出しそうだった。呆然とする彼を尻目にそそくさと部屋を出ると、一気に長い廊下を全力で走り込む。
「最悪………っ………。」
しばらく顔合わせしたくない。
「……………ななし殿、随分と力が抜けているような………。」
「え…………。」
今日も趙雲との鍛錬、の筈が刃を交えた直後に彼にそう指摘されてしまい、思わずたじろいでしまう。
「………もしかすると、何処か身体の具合が。」
「いえ、何でも無いですよ。ほら、力比べなら負けませんし………!」
思いを吹っ切るように弾き返すと趙雲は土を蹴るように後方へ退いた。が、一気に力を解き放った為か、ななしの膝はがたがたと笑ってしまい弱々しくその場に崩れ込んでしまう。
「ああ、もう………。」
「ななし殿、無理はなさらず、どうか。」
「………趙雲殿、私から誘っておいて、申し訳ないです。」
「いいですよ、回復してからまた一戦交えましょう。」
差し出された手を取り立ち上がると、趙雲は頭を下げてその場を後にする。残されたななしは頭を抱えるように俯いて
「どうせ………。」
深々と地面に刺さった刃を見つめながら盛大な溜息をこぼした。
分かっている、自分のような女武者では、着飾る可憐な女には敵わない事くらい。いつだって手に持つのは鮮やかな櫛ではなく他者を葬る為の凶器、綺麗な衣装を身に纏う、そんな洒落など無縁に近い存在だ。
だからこそ、男にとってななしは一人の武将としてしか見られていないとさえ思うようになった。声を掛けられても鍛錬だの次の戦についてだの、物騒な話題で持ちきり。
こうして接吻どころか手を繋ぐことさえままならぬ少女は、いつしか恋という乙女が憧れる時代から目を背けて、若くして戦しか知らない少女へと成り果ててしまった。
憧れることを諦めた。誰も見てくれないから。きっと彼だってそういう風にしか見ていないから、恋知らずのななしが知る初恋は片思いで淡く虚しく終わるのだろう。
『健気な少女を戦場に出すこの世を、俺は呪うよ……。』
そんな中、徐庶の言葉を思い出して一人思いに耽け、迷いを生み出す。
「こんな私でも………貴方を思い慕っていいのですか…………。」
「ななし。」
背後より迫る男の声にななしは激しく動揺して肩を揺らす。恐る恐る後ろを振り向けばそれは良く知った顔だ。
「徐庶………さん。」
「……何かに思い悩んでいるんだね。」
「………いえ、あるとしても瑣末な悩みです。」
「瑣末な悩みなら、どうしてそんなに泣きそうな顔をしているんだい。」
自分でも気づかぬ内に顔は曇っていたようで、徐庶の表情もみるみる真剣そのものになっていく。彼が一歩歩みを進めれば彼女は一歩歩みを下げる、それを繰り返して辿り着いた先は武器庫の壁。
気温は真夏並みの暑さだというのにやけに背後の白い壁が冷たく感じる。
「君の辛い顔を見ているのは我慢ならないよ……頼む、どうか……君の本音を聞かせてほしい。」
「ーーーー。」
それが貴方です。なんて、言ったら。
「………言えるわけないじゃないですか。」
「………………ななし…………。」
「言ったら、何もかも終わってしまう気がするんです。そんな関係を壊すくらいなら……いっそ、今のままが、ずっと続けばいい……。」
好きで好きで仕方ない。目の前で本気で向き合ってくれる貴方が好きで仕方ない。だからこそ、このまま何も聞かないでほしい。
「そんなの………俺は、嫌だ。」
「…………………!」
眉を歪めて、彼は重々しく言い放った。
「君は俺に言いたい事、あるんだろう。俺も君に言いたい事があるんだ。だから、打ち明けてほしい……どんな言葉でも俺は必ず受け止めると誓うよ。」
「徐…庶……さ………。」
涙が一つ、二つ、ぼろぼろとこぼれて地面を濡らしていく。大きな傷を受けても泣く事はなかったのに、どうして今になってこんなにも涙が溢れていくのだろう。
それは彼だから。生まれて初めて心から愛した男性だから。
声帯を震わすのが怖い。けれど、
「…………好き………です…………徐庶さん、が………好きなん……です……。」
「………………。」
「だけど、自分は戦ばかり経験してきたから……女として見てもらえてないんじゃないかって………徐庶さんに、そういう目で見てもらえてないんじゃないかって………。」
「………………。」
「気が付けば貴方の隣にはもう女性がいましたし…………だから、密かな片思いで終わらせようと……思ってました………。私は…貴方に……っ!!」
ふらつく身体を丸ごと抱きとめられ、二つの腕できつく締められる。喉は詰まり、言葉は失われた。しかし代わりに徐庶の口が開かれて
「俺もそんなななしの事が大好きで堪らないよ………それに、少なくとも俺は君の事、聡明で可憐な……心優しい少女にしか見えない。」
「………っ………。」
「確かに戦に出る姿も勇ましいと思う。でもね、それだからといって女として見ないなんていう判断は可笑しいよ。……例えそうであっても、俺にはきちんと見えているから安心してほしい。」
武将としてではなく、一人の女性として愛している。その言葉を聞いた時、ななしの頭はあっという間に空っぽになった。今までで懊悩していた事が丸ごと消え去ったように、不安定に揺れていた心は安寧を取り戻す。
「だから……どうか俺の思いを聞いてくれ………。」
「…………徐庶、さ……。」
すう、と耳元で掠める呼吸。
「武器を取るのをやめて、俺の妻になってくれないか。」
それは、究極の告白だった。
「………ななしが戦の帰りを待つ人になってくれたら………俺は、どんな困難でも乗り越えられる気がするんだ………。」
「私が………貴方の………。」
「………駄目、だろうか。」
それはもう悲しそうな声で囁くものだから、きっぱり断れる筈もない。よもや策士とさえ思えてきたが、今は不思議とその策にはまってもいいのかも知れないな、なんて、そんな浮かれた気分だ。
「………嫌だったら、この手を振り解いて刃を向けてますよ。」
冗談っぽく言えば、彼は目を丸くさせて照れくさそうにはにかんだ。
「………………お別れだね。」
古臭い箱に収まる武器を目に焼き付けてゆっくりと蓋をする。今日が待ちに待った彼との婚儀の日、重装備はすっかり外れて女性らしい絹の布がひらひらと揺れている。長い髪には花の髪飾り、薄赤い口紅もさして気品のある姿で徐庶の元へ向かう。
「徐庶さん!」
「ななし!え、あ………その………。」
「……あ……やっぱり変でしたか?」
「い、いや………凄く綺麗で、つい………。」
顔を真っ赤にして黙り込む徐庶にくすくすとななしは笑みを施した。
「こんな格好、今までした事がなかったので、ちょっと照れくさいです。」
「そうか……でも、君に似合ってる。」
穏やかに微笑んだ徐庶は、彼女の頬に手を添えると優しく口付けた。
(そういえば……いつも一緒にいた女性って……)
(え、ああ……あの人は……(恋の相談相手なんて、言えないな))
お礼文