「あ、あの………ななし………さん。」
「はい、どうかしましたか、徐庶さん。」
屈託のない、輝かしい微笑みが俺の心を燻って仕方ないーー言う筈の次の言葉をすっかり忘れてしまい、執拗に多い瞬きを繰り返せば、彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。
「あの……大丈夫ですか?あまり顔色が優れないようですが……。」
「な、何でも無いよ……!」
真っ赤にした顔を隠すように回れ右、そのまま何も言わずに徐庶はななしとの距離を大きく離した。
「……………?」
「ああ………俺ってどうしてこんなにも駄目な人間なんだ……。」
「そう落ち込まず……まずは顔を上げなさい元直。」
「おやおや、元直にも落とせない難攻不落な戦があったもんかねえ。」
膝をついてめそめそと嘆く徐庶。孔明は羽扇を仰いで小さな溜息を漏らした。
ここの所彼の眼の下に隈が出来ている事に気付いた孔明はその理由を問い質すと、恋の病に落ちたのが原因でろくに夜も眠れず、枕を涙で濡らす日々が続いている、と、涙ながらに打ち明けたのだった。
想いを伝えようと幾度も話し掛けたもの、肝心な所で彼の悪い癖、優柔不断さがそれを邪魔する。一度言葉がどもってしまうとそれまでだから、結局何も言えず不審な印象のみを彼女に植え付けてしまう状況が今らしい。
こんな事が続いて万が一にも戦に支障をきたすようならばーー孔明は仕方なく助力する事にした。それに続いてホウ統も話に加わる。
「どうせ俺なんて………。」
「その自己否定的な考えがいけないねえ。いっそ当たって砕けろ、そういう気持ちで一度本気でぶつかってみたらどうだい。」
「それが出来たら今頃こんな風に二人に弱音を吐いてたりしないよ……。」
「そうですね、では、二人きりではなく、複数の人で会話するのはどうでしょう。」
「複数?」
「ええ、二人きりという環境が耐えられないのであれば、誰かが貴方に付いていく……というのが得策かと。」
「ああ、そうか………真っ向から彼女と話そうとするから変に緊張してしまうんだ……それなら大丈夫かもしれない。」
「だけど、顔見知り以下のあっしらがぞろぞろ付いて行ったらそれはそれで不自然だね。お前さんの手助けになるような……違和感のない物…………ああ、この犬はどうだい。」
徐庶の目の前できゃんきゃん鳴く犬。見つめ返せば不思議そうに首を傾げている。
「士元………。」
「いやいや、冗談。なんなら彼女とは顔見知りの法正殿にでも声を掛けてみるかい?」
「…………修羅場が見えるよ。」
「それはそれで楽し………頼りになりそうですね。」
「楽しいという言葉が聞こえた気がするんだけども気の所為かな。」
げんなりとした顔で徐庶は二人を見返せば、孔明とホウ統も互いに顔を見合わせ、やれやれと言わんばかりに溜息をこぼした。
「恋の病は厄介だねえ。」
「元直、このまま何も発展しなければ貴方は自ら身を滅ぼしかねません。彼の言う通り、吹っ切れてみるのも悪い事ではない筈。断られたらきっぱりと諦められるでしょう。」
「まずは会話を成立させてみようじゃないか。緊張している時は、何か話そうと一生懸命に考えちまうのが性。そうならないように、いっそ感じた事を素直に話せば楽になれるさ。」
「……………うん。」
「緊張を高めないよう相手の目を見ず、斜め下を見る様に意識するのです。」
………などなど、徐庶は頭に入りきらないと言ってもいい程に二人から助言を貰い、その日は万全を期して早めに眠りについた。が、ぐるぐる頭の中で彼女と彼らの言葉が混ざりに混ざって夢ですら現実味を帯びた雰囲気に苛まされる。
結局、寝れたのは少しだけ。全く寝れなかった訳ではないから、まぁいいか、と気怠い身体を無理矢理起こして跳ねた癖毛を整える。するすると纏っていた衣類を脱ぎ捨てて、軍師にしては無駄に鍛え上げられた身体が冷えた空気に曝されると、ぶるりと身震いを起こしては普段の衣装にせっせと着替え、伸びきっていた髭も刃で器用に切り落とした。
「ーーーああ。」
彼女に触れられたい、腹筋辺りに手を置いて、徐庶は何度目か分からない溜息をこぼす。だからこそ今日で全てを終わらせよう、例えどんな結果であれ安寧の日々に再び相見えるのだ。
今日も彼女は忙しそうに部屋から部屋まで足音を踏み鳴らす。女官でもないのに、まるでそれと同等の仕事を自ら行っているのだ。部屋にただ閉じこもっているだけでは誰の役にも立てないと自ら腰を上げて、言われてもいないのに誰かの為に懸命に働いているーーああ、またそんな健気な姿に目が眩んでしまいそうだ。
「や、やあ、ななしさん。」
少々ぎこちない声色なのは見逃してくれ。
一息ついている彼女の元に同じく腰をゆっくりと下ろせば、ぱっと明るい笑みを見せて徐庶を見上げた。
「徐庶さん、おはようございます。今日は一段とお早い起床ですね。」
「え、あ、まぁ……珍しく早く起きたし、折角だから鍛錬でもしようかな……って。」
嘘つけ、鍛錬なんて足元がふらついてとても出来る状況じゃない。眠さの方が勝って瞼が異様に重くて、心なしか視界が霞んでもいる。君と話すのが精一杯だ。
「そうでしたか。くれぐれも怪我には気を付けて下さいね。……あ、何かありましたら、私が手当てしますので。」
「………っ。」
目の下、目の下、もしくは少し外れた位置……。言葉に詰まり、先日言われた言葉を思い出して思わず外した目線の先に、とんでもないものが目に飛び込んで来た。
(……………何でいるんだ!)
「……徐庶さん?」
「………え!あ、何でも、ない……!そうだね、手当てしてくれるのなら…凄く心強いよ。」
笑って何とか会話を繋げ、再び視線を横にずらすと、そこには影でひっそりと二人を見守るホウ統と孔明の姿があった。
「やてやれ、あっしはこの時間まだ夢の中なんだがねえ。」
「仕方ありません。このままですと元直が永遠の眠りについてしまいそうですから。」
(ああ………余計にやり辛い。)
徐庶は僅かに顔を顰めて、彼女が外の景色に目を向けている隙に必死に合図を送る。しかし、彼らはそれを助言を求めているものと勘違いし、身振り手振りで何かしらの返事を寄越した。
ーー意味が全く分からない。徐庶は落胆し、迷った。
「あ、朝日が昇ってきました。」
「……う、うん、綺麗で凄く眩しいね……。」
まるで口説き文句を彼女に言っているかのよう、それでも徐庶は何とか会話を続けようと必死に思考を巡らせる。変に気取らず素の自分をありのままにぶつける……意識してしまうと余計に緊張してしまうから、出来るだけ自然に、自然に……。
「……………!?」
士元が手を握る様な仕草をしている。それは、彼女の手を握れと言っているのか。
(出来るわけないじゃないか!)
親しい中でもないのにいきなりそんな事をして、もし嫌われたら一生自分の手を恨み続けるだろう。順番はきちんとしないといけない、焦らず、まずは会話を成立させる事が肝心要だ。
「あの、ななしさん。普段休みの時は何をして過ごしているんだい。」
「休み……ですか?そうですね……町に行って料理や衣装を眺めてたりしています。見ているだけでお腹いっぱいになるし、満足してしまうんですよね。」
「そうなんだ…!じゃあ、ええと………もし、良かったら………その………。」
「………徐庶さん?」
「………俺なんかじゃあ、頼りないかもしれないけれど…………一緒に、行きたいな………って。」
「…………!」
心なしか彼女の頬が赤いような気がしたのは、きっと昇ってきた太陽の所為なんだろう。
踏み止まる言葉にもどかしさを感じたが、無理強いは出来ないから、ただななしが唇を開くのを待ち続ける。
「ここからじゃあ、何を会話しているのかよく聞こえないねえ。」
「………ええ、ただ、徐庶がどうにも動かない限りは、どうする事も………。」
「ええい、いっそもっと近づいちまうか。」
のそのそと、何処か乗り気なホウ統は徐庶の視界からはっきりと分かる位の場所まで距離を縮めた。それに気付いた徐庶はぎょっと目を見張り、額に汗を浮かばせる。
「これ以上近付けば気付かれてしまいますよ。」
「なあに、その時はその時さ。」
本当に気付きかねないーーーそう思った時、徐庶は何か吹っ切れたかのように、彼女の手を握ると勢いよく立ち上がると無意識に反対方向へと走った。
「きゃっ………じ、徐庶さん!?」
「すまない……ここだと、我慢の限界なんだ………!!」
まさか二人で走り去るとは思わず、さすがのホウ統も歩みを止めて呆然とその後ろ姿を見送る形に。
「………あらら、どうやら怒らせちまったみたいだね。」
「………いえ、怒ったのではありません。彼は漸く腹を括ったのです。」
「やれやれ、上手く行くといいんだが。」
「大丈夫でしょう……元直はあれでも立派な軍師です。いざとなったら……。」
羽扇を仰いで空を仰ぎ見る。雲の切れ間から覗かせる山々と清々しい程に流れる風が、孔明の頬を緩ませた。
(………やってしまった………。)
息を切らせて向かった先は、自分でも考えていなかった誰もいない庭。未だ手は握られたまま、二人は思い切り息を吸い上げた。
「ど、どうなさったんですか………?」
「………すまない………どうしても、君に伝えたくて。」
息絶え絶えながらも精悍な顔つきで見つめる徐庶に、ななしも思わず全身の筋肉が一気に強張る。握られた手に力がこもり、じんわりと生温い熱を滲ませた。
「俺は………本当に情けない男だ。君の事になると、どうにも胸が苦しくて、触れられるだけで壊れそうになる。………ななしさんの事が好きで……好きで堪らないんだ……!」
「徐庶……さ、ん………。」
「分かっている……!例え、これが叶わない恋になっても………平気だ………だから、君の、返事を、聞かせて欲しい。駄目なら、はっきりと言ってくれて構わない。」
ぷつり、ぷつり、言葉が途切れてはまた紡がれて、徐庶の口からゆっくり放たれる。今までのような悩ましく、奥ゆかしい表情は今や何処かに置き去って、打って変わったかの様に穿つような凛々しい表情。
そんな今までにない姿に、ななしも耳まで紅く火照り出し、頭を殴られたような衝撃が全身に伝わった。
「………………。」
胸が痛い。偲ぶような恋だった反動故か、涙すらうっすらと浮かんでしまっている。いや、この言葉に嘘偽りはない、どんな結果であれ、それを受け入れるべきだ。
徐庶の心はそう固く決心していた。
開かれる唇、反射的に彼は瞼を閉ざす。
が、彼女は、微笑んで
「ああ………やっと、言ってくれた……。」
と、安心しきった穏やかな表情。
「……………え。」
何がどうなっているのか分からず、唖然と口をぽっかりと開ければ、そんな顔を見るなりななしはくすくすと声を漏らした。
「私、ずっと待っていたんです。来る度に貴方の言葉を。だけれども、いつも何も言わず行ってしまうから、正直とても不安でした。……私も、好きですって、言い出せなかったから……。」
「………ななし…………さ…………。」
「だから、徐庶さんに手を引かれた時、たまらず心臓が飛び跳ねてしまいました。いつもと違う事をしてくれたから、その……嬉しくて。」
「ーーーー。」
頭の処理がついていけていない。しかし彼女ははっきりと言った、好きだと。それだけで徐庶の顔はななしに負けない程に真っ赤に染まり、挙句には涙まで零れてしまう始末。
「だ、大丈夫ですか……!」
「ええと………すまない、つい、緊張が解けて………ああ、上手く言えないけれども………ありがとう………。」
不意にななしの指が目尻に触れて、涙の雫がすくい上げられる。その仕草が擽ったく、彼女の手に自分の手を合わせてゆっくりと絡ませれば、自然と近付くその距離。
「………好きだ。」
「……私も、好きです。」
その薄い紅に染まる唇に己の唇を重ね合わせ、お互いの愛をしっかりと確かめ合った。
「あっしの行動が元直の動くきっかけになったのかねえ。」
「………そうかもしれませんね。」
今度は気付かれない所で二人を見守っていた軍師達であった。
(二人共……!あれは一体どう言う事だったんだ!)
(いやね、ちょいと助け舟を出そうと)
(結果良ければ全て良し、ですよ)
(う………そうだけれども………)
お礼文