『家を空けます。』
彼女は真っ白な紙の上に控えめ程度に小さな文字を並べて姿を消した。怒りに筆跡を乱す訳でもなく、ただ淡白に。
「……………。」
俺が、何を、したのか。
「家を出る理由が、見当たらないのが厄介なのだが。」
さてどうしたものか。家の中はいつも通りに整頓されている。
何も変わらない背景。何も変わらない花瓶の薔薇。なのに変わってしまった眼前の出来事。
三日間の出張から帰って疲労困憊の法正にとっては更なる衝撃的な事件だ。この短い期間で温厚な彼女が理由を告げず行方を晦ましてしまうなんて。しかしこれも運がいいのか分からないが、指輪と離婚届がないという事は最悪な事態はまだ免れている。
「…………実家か。」
家出した妻が行く所は主に安心出来る居場所を求めて実家だと聞く。その次に独身の知人の家。ファミレスやファーストフード店という事例も多くあるそうだが。果たしてそれらの何処かに身を潜ませているのだろうか。遠くに行ってしまったらもうどうする事も出来ない。
法正は溜息を吐くと徐に鞄から携帯を取り出し、彼女の実家の方に電話を掛けてみる。すると、母親が普段と何も変わらぬ雰囲気で「もしもし」と明るく声を発した。
「こんにちは御母様。突然で申し訳ないのですが、一つお訊ねしたい事がありまして。」
『あら、孝直さん、どうかなさいましたか?私に電話するなんて、珍しい。』
「………彼女から何も聞いていないのですか?」
『彼女………ななしの事で何かあったんですか?まさか、何かご迷惑でも……。』
どうやら実家には帰っていないようだ。……これがグルだったら話は別なのだが、どうにも匿っている様子はない。
「………いえ、そう言うことではないので、どうかご安心を。ただ、泊まりに行くと言ってたので、実家の方に行ったのかと。」
『うーん、こっちには泊まりに来ていないわねぇ……あの子、友達はそこまで多くないから、あまり遠くには行っていないと思いますけど。』
そうですか、事実を述べずに礼を述べ、携帯を静かに置くと、法正はくしゃりと無造作に髪を掻き上げた。
「……………。」
友達、女友達は確かに少ないが、男であればまず一人、徐庶とは会社の元同僚だからあり得るだろうが……。
「そう言えば。」
賈充、というこれまた同じ会社で働く男も顔見知りだったな。腹の底で何を考えているか分からない奴だったが、彼女とはやけに親しかったのは苛つく程に憶えている。俺と結婚してからも繋がりはあるらしく、彼女曰くただの友人とは言っていたが。
「ああ……むかつく。」
誰にでも優しい彼女だからこそ、俺は心底腹立たしい。男女隔たりなく接するからこそ、そういう風に捉えた相手がとんだ勘違いを受けるのだ。それは俺の妻になってからも変わらない。本当にやめて頂きたいものだ、嫉妬以上の何かが芽生えそうになるし、吐きそうにもなる。
とはいえ浮気……それは確実にないだろう。長年見てきて、表の顔も裏の顔も知ったからこそこれだけは自信を持って言える。男の家に転がり込むような度胸のある魔性の女ではない。
勿論、彼女だって俺の素性はとことん知っている。報恩報復こそ我が人生と常日頃より謳っている以上、そんな大胆な事が出来る筈もないのだ。裏切ればどうなるか……そんな事は言わずもがな。
なら、彼女が家を空ける理由はなんだ?浮気以外で考える結果論は、やはり己に対しての不服、それ以外にない。
「だが……俺は何も覚えがない。」
過去の出来事を振り返ってみても、彼女の気に触れるような事はしていない。現時点他の女に興味もある訳なく……まぁ、あくまでそれは自分の中だけの話であって、実際に彼女の心の底では何か不満があるのかもしれないが。
そうだ、肝心のななしに電話をしなければ話にならなかった。
ディスプレイをスライドして彼女の電話番号を表示する。そう簡単に出てくれないだろうが、それだけは覚悟しておこうと鋭い目つきで睨みつけた。
「………………。」
案の定何度も鳴り響くコール音。出てくれと何度も指先で机を叩くが、聞き慣れたお掛けになった電話番号はの一点張り。
相当お怒りらしい。これでは連絡手段も途絶え、彼女が家に帰って来るまではどうにも為す術がない。
だからといってこうして先の見えぬ不安を抱えながら大人しく明日を迎えろと?素直に己の罪悪感を嘆き、そんな事が出来る程自分は馬鹿正直じゃあない。
つまり、何としても探しだして、理由を聞く。しつこい性分はこういう所にまでしっかり発動する故、我ながら見事なものだと内心感心。
さて、御託はさておき取り敢えずメールはしておこうか。今何処にいるのか、返事はなくても見ない事は無い筈だ。
「まずは一人。」
徐庶辺りから詮索してみるとしよう。法正は次のリストから徐庶の名前を見つけ出し、大人しく電話を耳に当てる。すると何コールか鳴った後、普段の弱々しい声が耳を掠めた。
「おい、聞きたい事がある。」
『ええと……開口一番どうしたんですか。随分と機嫌の悪い声色……いえ、それよりも御用件は何でしょう。』
「ななしがそっちに来ていないか。家を空けるという手紙を書き残したまま家を離れた。」
『そんな、彼女に限ってそんな事が……。』
「ない、と言いたい所だが、生憎それが現実に起こってしまった。実家にも顔を出してないらしいから、アイツの友人を片っ端から聞いて回ろうと思ってな。」
『は、はぁ……。』
「まぁ、そうは言ってもお前の電話番号しか知らない、既にこの電話作戦はお手上げなんだが………で、どうだ、いるのか。」
『すみませんが………こっちには来ていないですよ。特に連絡もありませんし。』
そうか、法正は静かに頷くと、徐庶も出来る限りで友人に連絡をしてみると語った。恩は売りたくないが、取り敢えず仕方がない。少なくとも奴の方が自分よりは友達が多いのは認めざるを得ない訳で。
「後は自分の足で確かめに行くしかないか。」
思い足取りながら靴を履き替え、コートとマフラーを羽織って外に出れば温度差によって息が白い。帰ってきてからまた外に出るのも億劫だが、心当たりのある場所に行ってみれば何かしら手掛かりがあるかもしれない。
そんな希みの薄い理由を掲げ、のそのそと歩く昼下がり。
一方その頃、電話を切って一息吐く徐庶。
「………そう言えば今日は、確か二人の………。」
「ここは………。」
ななしがよく出掛けるアクセサリー店。ここの女性店員とも仲が良いのは知っているが、果たして。
「すみません。」
「あら?法正さん、いかがなされましたか。それに……今日はお一人なんですね。」
「いえ……そのですね、彼女はこちらに姿を見せませんでしたか。友人の家に泊まりに行くと言ったはいいものの、おっちょこちょいな為か肝心の泊まり先も言わずに出て行ってしまったものですから。」
「………………。まあ、それはお困りですね……。」
眉尻を下げて困った顔付きで首をひねる店員。
「電話をしても繋がらなくて本当に困ったものです。まぁ……鈍感な彼女の事だから、すぐに見つかるでしょうけど。大した事ではありませんので、どうか頭の片隅にでも置いておいて下さい。」
得意の嘘八百を並べて何とか大事にならない程度の話で訊くが、やはり存ぜぬと言った様にみるみる曇る表情。知らない以上ここにいる理由もないだろう。
「でも、心配ですよね。私も出来るだけ彼女を知っている友人にあたってみます。」
「ありがとうございます。それでは。」
自動ドアを潜って思わず一息。やはりここにも来ていないか。
そんな後ろ姿を見送る店員もまた、
「ななしさん、もしかして……。」
と、意味深長な言葉を呟いた。
そんなやり取りを飽きる程に繰り返し、知らないという言葉を飽きる程に繰り返し、
「……………、と。」
あろう事か雪まで降ってくる始末。手の平に落ちた雪は静かに体温に溶かされて水と化した。通り過ぎる人混みの中一人で歩く事に慣れているのに、今が無性に寂しくなるのは冬の所為だからなのか。
何より右手に感じない温もりが、違和感を生み出す。
「面倒な事になったな……こんな寒い中探させるとは……見つかったら覚えていろよ。」
この時期は日照時間も短い為、午後五時でも十分薄暗い。吐く息もますます白さを増して手も悴んできた。ああ、手袋してくればよかった。
法正はフラフラとポケットに手を突っ込みながら歩く。
「公園、か。」
キィキィと小さく鳴いて一人遊びをしているブランコに腰を掛けるなり、じっと淀んだ灰色の空を見つめる。寒さには弱いのか、子供の姿すら見かけないただ一人の空間。
「………………。」
目を細めて舞い散る雪を静かに見ていても虚しいだけなのだが、何処に行けば彼女に会えるのか、もう分からない。
一人でいる事には慣れていた筈なのに、今は随分と弱くなってしまったものだな。法正は皮肉る笑いをこぼしてしんしんと降り積もる雪をただ静かに被っていた。
「出会ってから……もう何年だったか。」
彼女とは学生の頃からの付き合いで、その当時の俺は他の女と付き合っていたのを思い返す。自身はそれ程恋愛に興味はなく、付き合えと言われたから付き合った程度の簡素なもの、本当にそれだけだった。
見た目が良いからだの、周りから羨ましがられたいからだの、くだらない理由の為に散々振り回されて、中身なんて最初から見ちゃいない。普段よりも声色上げて、甘えるような仕草がどれだけ煩わしかったか。
それなのに、悪党の悍ましい姿なぞ見たら最も好む孤独になれるのに、それもしなかったのは結局その当時は全てがどうでも良かったからなのだろう。
なるようになればいい、卒業したらコイツともおさらばだ。無難に会社に勤めて無難に誰かと結ばれて、無難にその与えられた人生を全うすればいい。悪党として生きる人間の末路なんてそんなものだ。
だが、ある時を境にその心境は大きく変化してしまう。俺が無性に一人になりたくて、誰もいない屋上に行った時だ、自分より早く先客が空をぼんやりと眺めていた。
「……………。」
同じクラスの誰だったか。普段目立たない存在だから、名前すら曖昧だ。しかし長い黒髪を風に靡かせて黄昏れるその姿……何故か目が離せない。
「……………?」
背後の扉の音に気付いたのか、彼女は不思議そうに振り返る。真っ黒な制服のスカートがゆらゆら揺れて、白い肌を微かに覗かせた。
「貴方は……確か同じクラスの法正さん、でしたよね。」
「………ええ、こんな俺をご存知で。」
「はい、いつも端っこの席で窓辺を見ては、退屈そうにペンを回してるの知ってます。」
くすくすと笑うと、背中をフェンスに預けてこっちと向き合う。
「一人になりたくて、ここに来ているんです。教室の中は窮屈で、時々こうして屋上から眺める街を楽しんでいたり。」
「偶然ですね、俺もそんな感じです。」
とはいえ、出会ったのはこれが初だが。すれ違いが多かったのだろうか。
「名前。」
「え?」
「同じクラスなのは知っているんですが、不覚にも名前が思い出せなくて。」
「あ、ああ……そうですよね、私の存在って結構薄い方ですから。私の名前はななしです。」
「ななし………か。」
法正は同じ様にフェンスに背中を預けて隣に並ぶ。流れの早い雲を目で追いかけながら、特に会話する事なくただ貴重な休み時間だけが過ぎていった。
「……………。」
「ななしさん。」
「あ、はい、何でしょうか。」
「明日も、来てくれませんか。」
「………いいですよ、明日もお話しましょう。」
ふんわり笑うと同時にチャイムが鳴り響き、二人は少し歩調をずらしながら教室へと戻った。
それからだ、何回か屋上で他愛のない話を繰り広げて、その中でちらほら分かる彼女の素顔。寂しがり屋の癖に何処か強気に笑顔を見せて、それでもって他の奴とは全く違う純粋な心を持っている。
話をしていてこんなにも心地が良い事は無かったから故に、余計に惹かれていき、気が付けば自分の所に寄っていた女の存在もすっかり足蹴にしていた。特に楽しいとも思えなかった昼休みも、それから行く屋上への足取りがやけに軽くて、昼飯なぞ放ったらかしでも苦ではなかった。
そうして過ぎ行く四季折々の中で、自分はやっと本当の想いを告げる時がやって来る。
「貴女が好きなんです。」
「え………あ………。」
本当に驚いた表情を見せ、しばらく黙り込む。今の今まで特にそう言う雰囲気になっていた訳でもなく、いきなり告白するのだから当然驚かないはずもない。
「こうして度々逢瀬を重ねたのも、貴女との会話が楽しいと心の底から思えたから……だからこそ、俺は、学校以外でも同じ時を過ごしたいと思いました。これが、俺なりの愛情表現です。」
「…………。」
「………とはいえ、俺はこの通り悪党のような存在………周りの目が気になるようでしたら、この話はなかった事にしますが。」
忌避される覚悟しなければならないのは承知の上、自分の所為で嫌な思いをする事になるかもしれない。
……それでも、彼女との時間は、これからも刻む事が出来たのであれば。
「……私はーーー」
「あ………!」
淡い思い出に浸りつつ目を伏せて地面を眺めていると、聞き慣れた若い声。その方向に焦点を合わせると
「ななし………?」
真っ白に霞む視界の中で立ち尽くす女に、法正は目を丸くせざるを得なかった。真っ白い息を小刻みに吐きながら迷いなくこちらに駆け付けるななし。
「孝直さん……家に帰ってたら鞄を放りっぱなしでいなかったから、探していたんですよ。こんなに雪が頭に……。」
パラパラと頭に積もった雪を払う手を咄嗟に掴む。
「…………お前、家出したのか?」
「え………。」
「あの書き置き、どう見てもそういう事でしょう……?遂に俺に愛想でも尽きましたか。」
「………もしかして、二枚目、見てませんか……?」
二枚目?確かに紙は動かさずにそのまま家を出てきたが。
「ああ……離婚届か。」
「違います……!孝直さん、何か勘違いしています。今日は何の日か、覚えてませんか……。」
じっと見つめる眼差しから逃れられず、堪らず冷えて血色の悪くなった唇を結んだ。
どちらか一方の誕生日でもない、一般的な祝日を除けば考えられる出来事、そんな二人だけの特別な記念日。
ああ、そうか……今日は……
「結婚記念日……。」
「………はい、だから、二枚目に書いたんです。今日、あの日の場所で待ってます、と。でも、出張から帰ってだいぶ時間が経っているのに、なかなか来なかったから心配になって……。」
あの日とは法正が結婚を申し込んだ場所。人気の少ない、かつての二人が最も好んでいたような綺麗な景色の見える丘。
そんな重要な事も忘れていたのか、法正はこめかみ辺りを押さえてただ暗然とした。
……いや、そもそもそんな分かりにくい置き方をした彼女にも非がある。
「あのですね……それよりも何よりも、だ。あんな書き方されて家出以外に何があると。あろう事か自責の念に駆られる始末だ。」
「ご、ごめんなさい……。それは本当に謝りますから。」
「謝罪はともかく、責任持ってその場所まで連れて行ってくださいよ。」
寒くて身体もヘトヘトだ、そう言えばななしは慌てて手を差し伸べる。そんな雪を払った手はすっかり悴み、同様に赤く霜焼けしている。
「ん、つめた。」
「誰の所為だ。対して変わらないでしょう。」
なんやかんや話す事数分、聳え立つ丘の上まで何とか最後の力を振り絞って上り詰める。辺りはすっかり銀世界に呑み込まれ、雑草もすっかり雪の下で眠っていた。
「わぁ、綺麗な街の灯り。」
少し早いイルミネーションが街全体を包み込み、見ているだけでポカポカと心が温まるかのよう。そんな光景に心奪われているななしに、法正はギュッと繋いだ手をゆっくりと離して。
「………ななし。」
「え、あ……手……。」
離れた手を名残惜しそうに見つめるが、何よりも法正の精悍な顔付きに釘付けになり、瞬きを繰り返しては言いかけた言葉を飲み込む。
「あの日から、俺の気持ちは変わらない。屋上で貴女に惹かれた時から、ずっと。」
そのまま片膝を付いて、彼は静かに笑みを浮かべた。
「俺の人生を変えたこの恩は必ず……一生をかけて貴女を守ると誓おう。いずれ来るその日まで、俺と同じ時を刻んで下さい。」
かつてこの場所で言った言葉を贈る。
「孝直、さん。」
あの時と同じ様に長い黒髪を揺らして、
「…………はい、喜んで。」
かつてこの場所で応じた言葉を贈る。
そして重ね合うは冷たくなった互いの唇。熱に溶かされるまで暫く抱き締め合っていた。
「あ、私からも贈り物が。」
箱を開けるとシルバーのネックレスに、蒼く透き通るような宝石が一つ埋め込まれている。それを受け取ると手の平で暗闇でも分かる程にキラリと眩むような輝きを放った。
懐かしむように細められる目。
「知り合いのアクセサリー店で、特注で頼みました。気に入って頂けたでしょうか……。」
言われてああ、と複雑な気持ちで頷く。恐らく先に訪ねた店の事だろう。敢えて言わないでおこう。
「俺からも何か返さないといけませんよねえ……。」
「あ、大丈夫ですよ。今日は私の所為で大変な日になってしまいましたし。」
「なら尚更、今宵はたっぷりお返ししましょう……心ゆくまで、ね。」
そろそろ家族が増えてもいいんじゃありませんか。そう耳元で囁やけば、ななしは冷えた頬を紅く染めては顔を覆い隠した。
(いい反応ですね。夜が余計に愉しみだ)
(色んな意味で忘れられない記念日になってしまいました……)
(ああ全くだ、あろう事か嫉妬までしてしまったからな。これが男絡みだったら死ぬ気で報復する所だった)
お礼文