自分にしては随分と優しい夢を見た。普段なら激しい戦での流血な光景ばかりをうんざりする位眼下にしてきたが、今回は閑散とした部屋に男女一人ずつという何ともさっぱりとした光景。あまりにも平和な出来事に逆に唖然としてしまう。
ふと目を向ければ手を伸ばしたくなるような横顔。しかし傍にいる女性の名前を何故かはっきり口に出来ない。するとこちらに気付いたのか、くすりと小さな笑いを漏らして幸せそうにこちらを見つめる。その光のような目、誰よりも意志が強く、闇である己を緩やかに溶かしていくその正体を誰よりも知っているのに。
「……………………。」
「………賈充様!」
目を覚ませば全身に鋭い痛みを伴う。今も身体の所々から血が流れてるように、何処か冷たく、乏しい視界。満身創痍で運ばれたのは何時だったか、彼女の叫び声を聞いてから幾つの夜が過ぎたのだろうか。
「…………ななしか。」
「ああ、良かった………生きてらっしゃる……まだ、鼓動が………。」
「そう簡単に死んでたまるか。」
「ですが、貴方がここに運ばれた時には既に意識はなく、多量の傷と出血で何日も生死を彷徨っておりました……。」
本当に良かった、と縋るように泣きつくななし。
手を動かそうにも痛みがそれを阻み、力が思うように扱えない。今最低限出来る事と言えば目で対象物を追うか呼吸程度、仕方なく溜息を吐いた。
「今は動かない方が良いです。まだ傷は癒えておりませんので。」
「あれから、何日だ。」
「……指折り数えていた所、四日です。」
「それで、戦は。」
「司馬師様等のご活躍により、劣勢から拮抗………それでも、未だ厳しい状況が続いております。」
大軍より刃と矢を受けて、まともに立っていられる筈もなし。これも伏兵を見破る事が出来なかった己の責任である。賈充は顔には出さないものの、痛い程に唇を噛み締めた。ななしはそんな彼の姿を見て、酷く心を痛める。
「賈充様の所為ではありません……どうか、自分を責めないで下さい。」
「…………この傷はどの位で癒える。」
「賈充様………。」
「どの位だ、言え。」
気持ちとは裏腹に彼女を攻めるような口調で言い放てば、みるみる表情が曇っていくのが分かる。言いたい事は分かっている、お前は俺を失う事の方が遥かに苦しいという事を。
「お願いです………これ以上は、もう。」
「……………もういい、言えぬのなら下がれ。」
賈充の冷めた言葉にななしは目を開かせて全身を硬直させた。焦る気持ちは分かるが、己の傷具合を考えてほしい、その身体で戦に出た所でどうなるか……誰の目から見ても明らかである。故に止めるのは一人だけではないだろう、誰もが彼を必死に説得する筈だ。ここで要を失うわけにはいかない。
それでもこれ以上は引き止める事は出来ない。ななしはひたすら待つのみ、どんな結果であれ勝利を手にして帰ってくるのを。今のように彼女の思いが届かないのであれば心の奥に仕舞い込んでただ願うだけ、無事に生きて欲しいと。
だからこそ言いたくないが、言ってしまう。
「………また……置いていくんですね………。」
扉が閉まると同時に呟かれる言葉。意識が霞む中でもはっきりと聞こえた。
「……………。」
置いていく、そんな事は望んでいない。が、それも賈充なりに考え出した苦しい結論である。
相対する光のような彼女を穢れたこの手で抱く資格はない、だからいっそこのまま一人で死ぬのが望ましい。例えななしが最期まで想い慕うとも、それに応えてはならないのだ。いつか彼女を悲しい思いにさせる位なら、今ここであっさり断ち切ってしまおうと。
しかし現実、それが出来たらどれだけ楽だろうか。言葉で冷たくあしらっても結局はこうして付き添う。何度やってもだ、何度やっても、決してななしは冷徹さを装う賈充を見捨てない。その度に揺れる心に苛立ちと不安を募らせていた。
「………くく………痛むのは、心か……?」
じくじくと鈍痛を心の臓腑から汲み取る。抉られた傷よりもずっと深く、彼女を想う度に切り裂かれる感触。この外傷が癒えても、内傷は心の内を伝えるまでは絶対に癒えないのであろう。ましてや今まで受けてきた善意を仇で報ずる事に柄にもなく心苦しさを覚えている。気に掛けるなど無かったのに、我ながら弱くなったものだと嘆いた。
果たしてこれが正しいのだろうか。否、こんな半端な心で戦に挑むからこそ、今回のように足をすくわれたのではないか。戦に考えを向けようとすればするほど泥濘に嵌っていき、孤独に縋ろうとすればするほどに空虚感を忌み嫌う。そう、無性に埋めたくなるのだ、彼女の全てでこの空っぽな心を。
そうして考える時間が増える程、目覚めていた意識は再び遠のいていく。誰かが眠りに誘うように、手招きしては優しく語りかける。
ああ、その先にあるのは冥い死か。
「………くく……。」
ならいっそその手に引かれてみるのも悪くはない。すれば彼女について考える事も金輪際なくなるだろう。
そう思ってされるがまま付いて行けばなんという偶然か必然か、先程見ていた夢の続きである。全く変わらぬ景色でのどやかな春を微睡む女の後ろ姿。長い黒髪をさらさらと吹き抜ける風に遊ばせ、向こうの山を静かに見続けている。
「………………。」
至近距離の筈なのに、眩しさ故にその姿をしっかり認識出来ない。
だが、それでも賈充は迷う事なく口を開く。
「ななし。」
彼女がななしとは限らないのに、何よりも先に名前を呼んでいた。無意識、その事に気付いた彼は、呆れる様に乾いた笑いを漏らした。
「やはり、そうか。」
冷め切った気持ちで接していたが、結局は忘れる事など出来ていない。深く愛してしまっていた。こうして夢にまで現れるくらいに頭の中はななしの事でいっぱいなのだ。
「はい、賈充様。」
柔らかい声で返事をして振り返れば、期待通りななしの姿。普段と何も変わらぬ微笑みをたたえている。
徐に片膝をつき、頬に手を滑らせて、じっとその顔を見つめた。
「お前を一人置いて行くことなど出来ぬ。共にいてもらわなければ、俺は。」
待って、咄嗟の制止の言葉に口を閉ざす。
「ああ、そうだ。」
夢のお前に言っても仕方ない。まだ向こうで俺が生きていたら伝えるとしようか。死の間際で呼ばれたのであれば、またお前に会える気がする。
刹那の眠りであった筈なのに、長い年月過ぎた感覚だ。痛みは変わらず蝕むのに、心は何処か穏やかである。
「賈充様!」
目を覚まさぬ事に心配になったのか、一度退室したななしが不安に瞳を揺らして寄り添っていた。
「ななし。」
「は………はい………。…あっ……!」
今一度名を呼び、精一杯手に力を込めて、顔を覗きこむ彼女を胸板に押し付ける。自分でもはっきりと聴こえる鼓動を彼女はどのように感じ取るか。
「……………そんなに俺が心配か?」
「勿論です……私は、貴方を………。」
「その先を言って、後悔しないか。」
「………しません……例え、貴方が私を嫌ったとしても………最後まで慕うつもりです。」
耳を押し当て、静かに瞼を閉ざすななし。心なしかその目尻にはうっすらと涙が滲んでいるように見えた。
「………そうか。」
そっとその頭を撫でて、賈充もまた瞼を閉ざす。
「ならば、俺ももう背かぬ。」
酷く重苦しい身体を何とか起こし、ななしと真っ向から向き合う。乱れた髪を掻き上げてななしの胸元にそっと凭れかかると、彼女の高鳴る心音を脳髄にまで浸透させてゆく。
「賈充……様……。」
「……最期まで俺の傍にいろ、どんな事があっても。」
この心臓の鼓動が共に止まるまで。
返事を聞く前に賈充はするりと顔を上げて、そのままななしに口付ける。壊さぬように優しく、穢れを移さぬように純粋に。薄い唇を滑らせて、幾度も角度を変え、埋めるように求め合う。そして息を吸う為に僅かに空いた隙間から、漸く彼女の言葉が漏れた。
「……はい………愛しております………賈充様……。」
「くく…………誓ったからには」
もう逃れられぬぞ、尖る喉を鳴らして笑みを浮かべれば、ななしは夢と同じように微笑み、そして涙を零した。
(この闇を照らせ、今はその眩ささえも狂おしく愛おしい)
お礼文